年が明けたのははるか昔のような気がするが、まだ2週間しか経っていないのだ。
毎年のことだが、1月という月になると突如天体の運行速度が遅くなるんじゃないかと思いたくなるくらいに、日の経つのが遅く感じられる。
かといって1時間は1時間であって普段と変わらないように思えて、夜が明ければそれなりの速度で日暮れがやってくる。
そう考えると夜の時間が他の11か月に比べて長いというのが、1月という月を特徴づけているんだろうか…などと思って見たりする。
元旦から15日までの時間感覚が今後もしばらく続くとなると、2月1日になるまでには果てしない時間が必要ではないかと呆然とする思いである。
しかし、これが2月に入ると3日短いとはいえ、あっという間に3月になってしまうから、やはり日脚が伸びて行って夜が縮み始めることが時間感覚に大いに影響しているとみるべきだろう。
とするならば、この牛歩のような1月は待ち焦がれる春を一層引き立てるための佐保姫の演出なのだと思えば、まぁ幾分かは納得するのである。
とにかく週末には大寒となる。寒さの底に向かうわけだが確実に言えることは向かっているその先には春が待っているということだ。
昨日朝の円覚寺では今年最初の日曜説教坐禅会が開かれた。
北鎌倉の円覚寺の建つ谷戸は鎌倉でも寒いところなのだが、集まった500人を超す老若男女を前に横田南嶺管長はノミの話から始めた。
ぴょんぴょん跳んで血を吸うノミである。
ノミは体長2ミリほどだが、ジャンプ力は強くて体長の150倍もの30センチは跳ぶそうである。
身長170センチの人に置き換えるなら250mの高さまでジャンプするのと同じことで、都庁の高さが245mだそうだからそのジャンプ力は推して知るべしだろう。
この跳躍力の強いノミをコップに入れてコップの底を上にして閉じ込めるとどうなるか。
最初の内はぴょんぴょん跳んで天井にぶつかっていたものが、次第にぶつからない程度にしか跳ばなくなり、ついには天井をなくしても以前のように150倍もの高さまでは跳ばなくなってしまうそうである。
ヒトの場合もこれと同じで、世の中に出てあれこれ壁にぶつかったり軋轢を生じたりするうちに、青雲の志を抱いていたころの気持ちはすっかり鳴りを潜めて周囲と上手にやろうとするあまり、小さく小さくなってゆく。
それはちょっとどうなんだろう、という問いかけである。
常に目標を高く掲げ、それに向けて努力を重ねれば願いはかなうものなのだ。それを忘れずに――という趣旨だった。
こういう話を耳にして奮い立つような歳ではない。
へぇ、仰せの通りでごぜぇやすよ。実はあっしもね…と言いかけ、思い出して、それらを慌てて飲み込むのである。
帰り道は良く晴れていたが寒かった。北風で、それほど強くはなかったが痛いくらいだった。
2時間座りっぱなしで体が冷え切っていたのでずんずん歩いた。
5キロの道のりの途中に1キロ弱の曲がりくねった上り坂がある。
進むにつれて勾配がきつくなるが、酸素が十分に取り込めず苦しくてあえぎながらも一瞬たりとも休まずにずんずん上った。
なにか、そうしないではいられない気分だったのだ。

円覚寺を開いた北条時宗を祀る佛日庵の境内に春はまだ届いていない

中国の作家魯迅から送られたハクモクレンのつぼみはいくらか膨らんだのだろうか

ピント合わせに失敗したが梅のつぼみはまだ固い