無門関提唱。第35則「倩女離魂」(せいじょりこん)。
『五祖、僧に問うて云く、倩女離魂、那古か是れ真底。』という一文が出てくるがこれが大事だという。
これは禅宗で出される公案と呼ばれる問題のうち、難問中の難問とされているそうである。
倩女という娘が恋に落ちて駆け落ちする。故郷を遠く離れたところで幸せに暮らし子を2人もうけたが、両親に黙って家を出てきた事を悔い、まず夫が一人故郷に戻り許しを請う。
すると両親はけげんな顔をして「何の話をしているのか、娘なら家にいて病に臥っているぞ」と答える。
夫も首を傾げつつ、今度は娘と一緒に実家を訪ねると病に臥っていたはずの娘が起きてきて、玄関に現れた駆け落ちした娘とばったり鉢合わせした途端、2人はひとつに合体したんだそうである。
で、公案は2人の娘の内、本物はどちらかと問うのである。
この答えのヒントをくれたのだろう、横田南嶺老師は「投機の偈」という漢詩を提示する。
これは前の前の管長だった朝比奈宗源老師が好んで書いた詩でもあるという。
山前一片閑田地 叉手町嚀問祖翁 幾度買来還自買 為憐松竹引清風
臨済宗中興の祖とされ古則公案を通じた禅の修行を確立した五祖法演禅師が自らの悟りの境地を詠んだ詩だそうである。
これについては、円覚寺のホームページの「居士林だより」に横田老師が雲水たちを指導する僧堂入制大攝心で提唱した時のものが載っていたので引用する。
「この寺の前に一片の休耕地がある。礼儀を尽くしてこの田んぼは誰のものかと人に聞いて回った。誰のものか分からないので幾度か売ったり買ったりしてきた。主が誰なのか分かってしまえば松竹の清風を味わうばかりである」というのが訳。
以下はその解説。
「『幾度か売り来たり還た自ら買う』とあります。田んぼとはめいめいに備わっている心、仏心のことです。この田んぼ(心)の主は誰なのか、何者がこうして坐っているのか聞いているのか分からないので、私たちは問うて回り聞いて回り散々苦労をし、無駄骨を折ります。
しかし、己なき所、天地一枚というところを自分で体験する。『古則公案』というものを強いて用いて思慮分別を絶していく。『無字の工夫』といわれるものです。
この天地一枚のところが基となって人々に本当の安らぎを与え、慈悲の心を伝えていく。
心の田んぼを耕していく、信の種を蒔いていく、智慧の慈悲を施していく。これが私たち禅宗が目指す修行です」
心を耕し、信の種を蒔き、智慧の慈悲を施していけば、その途に感じるのは松や竹やぶを渡って来る心地よい風だというのである。
どちらが本物の倩女であるかなんてことはどっちだっていいってことなのだ。合体したものが倩女そのものなのだから。
という訳で勉強になった。
2時限目は高田明和さんという医者。「脳は嘘をつく、心は嘘がつけない」と題して講演。
御年83歳だそうだが大音声での話は漫談調。時々面白いことを言っていたが何が言いたかったのかは、ボクが悪いのだろうが追いつけず。
3時限目は二宮尊徳の七代目の子孫だという中桐万里子さん。
この人の話は芝居でも眺めているようで、実によく練られたストーリー展開だった。題は「二宮金次郎に学ぶ生き方」。
身振り手振り、その時々の場面に合わせた声の抑揚、どれひとつとっても舞台女優のようにふるまうところは唖然とするくらいお見事。
70分の講義も一切緩むところが無く一瀉千里に突っ走られていささか疲れた。
中身? 若干はメモしたけど…
そうそう「(金次郎は)小さなものに目を向けて、その積み重ねを大事にした。小さな積み重ねの中から重要なものを見つけ出していった」と言ってましたナ。「積小為大」だって。
夏期講座が始まった途端この青空が広がった。まるで梅雨明け
ボクはこの大方丈の一番廊下に近いところに坐り、飽きたり疲れたりするとこの景色を見つめる
居士林門前のモミジの若葉
居士林脇にはモミジのトンネル
合掌
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