ゆうすげびと の うた

ゆるやかに そして たおやかに 喧噪の日々のなかで しずかさを とりもどすために…。

再び、大阪の“荒野に立つ”

2011-08-04 19:07:39 | 演劇
阿佐ヶ谷スパイダース
「荒野に立つ」

東京・シアタートラムに続いて
大阪・ABCホールでの公演も観てきました。



ステージの間口がABCホールの方が若干広い分
少しだけ面持ちが違ってみえました。

今回は、長塚圭史も主演していた
 映画「tokyo.sora」
を思い出しながら観ていました。

tokyo.soraは石川寛監督作品。
東京にひとりで住む20代6人の女性のお話です。

tokyo.sora トライフルソング


映画で、井川遙が演ずる
美容師を目指す女の子と
この芝居で中村ゆり演ずるところの
玲音とを重ねながら観ていました。

tokyo.soraは6人の女の子の
閉塞的で終わりのない日常が多少交差しながらも、
基本的には、それぞれの孤立と孤独と不安が
描かれていきます。

「荒野に立つ」においては
 朝緒(安藤聖)、玲音(中村ゆり)、美雲(初音映莉子)
の三人の喪失感―
それはとりもなおさず
失われてしまったものは何なのかをめぐる問いと
それを探す試み―自分探し―として旅が、
閉塞感と焦燥感を伴って描かれていきます。

そして、
この三人をそれぞれの役者が
それぞれ独立して演じるのではなく、
時折、相互に「代行」という作業のなかで
交錯して演じられていきます。
つまり、それぞれがそれそれの個でありつつも
独立した個ではない誰かとして融合していきます。

今回の芝居でもっとも興味深かったのは
この実験的とも言える試みでした。

私たち観客は、攪乱させられ
混乱させられていきます。

きっとこの物語は
玲音の死によってはじまる物語なのでしょう。
玲音は、繋がることを欲しいながらも
朝緒が繋がってくれなかった(話を聞いてもらえなかった)がために
死を選びます。たとえ朝緒が聴いてくれたとしても
死を選んだのかもしれません。


tokyo.soraでは、井川遙演ずる女の子は
板谷由夏演ずる女の子との出会いがあったのにもかかわらず、
結局は死を選んでしまいます。
この死がtokyo.soraの哀しい現実として描かれて居ます。
そして、板谷由夏が隣に住む女の子と繋がろうとするところで
物語は終わります。

この「荒野に立つ」は
その死から物語を始めているのではないかと思いました。

すべての人々が、そのことを自覚しているかどうかはともかく
みんな殺伐とした荒野に立たされています。
それは、
 現実に追われつづけたり
 見せかけの快楽であったり
 呻吟を必要としないオートマチックな何モノかであったり
 (自分探しという作業さえもプログラムであったり)
 他者と繋がれないもどかしさであったり
 繋がることのわずらわしさであったり…。
八方塞がりの現実の中、七叉路で立ち尽くしている。

他者の死によってしか
私は自分を見つめることが出来なくなっているのかも知れません。
いや、その死そのものをさえ
自分以外の何者かに促されないかぎり
その契機を持ち得なくなっているのかもしれません。

そんなこんな考えながら…
大阪の荒野に立っていました。

新しくなった大阪駅には
巨大な恐竜がいました。



すっごく立派になった
大阪ステーションシティを
ちょっとプラプラ…。

ここ大阪駅と、
同じく新しくなった博多駅・博多シティ。
この二つを
ゴジラが壊しに来るのはいつの日か?
なんてことを思いながら、
新大阪から新幹線に乗り込みました。

来週は、福岡イムズホールで、
荒野に立つことになります。
(楽しみ、愉しみ)


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