雨の記号(rain symbol)

プライドママの末路(9)

プライドママの末路(9)

 彼らは日々、政略、知略、戦さに明け暮れたわけだが、公家勢力と武家勢力の何百年にも渡る主導権争いは、結果的に女性の地位を貶めていく役割も果たしてしまったようである。そのへんの研究がなされているかどうかは知らないが、歴史の推移を離れて眺めわたしてみるとどうもそのように感じられる。
 実際として、今日のような男女の対等関係などなかったかもしれないが、平安時代における和泉式部、紫式部(式部というのは秘書というような役どころか?)など女性らの華々しい才能開花ぶりから、彼女らは日々活き活きとしていたことがうかがえるのである。
 しかし、武人の台頭に及んで、貴族たちも平安ロマンの安閑たる政治をつかさどっておれなくなった。後醍醐天皇を先頭に政治権力を鎌倉から奪還した彼らだったが、その後内部的ヘゲモニーが繰り返され、かつての安定した権勢はついに戻らなかったと言えるだろう。でなければ、十六世紀の戦国大動乱の時代はやってこかったと僕は見るのである。
 
プライドママの末路(10)

 男たちが戦場に出て戦乱が打ち続く間に女たちはその存在感をどんどん喪失させていってしまった。公家と武家の二大権力構造の仕組みが、彼女らを権謀術数の有効な手段のひとつとしてしまう結果を生んだのである。
 戦乱の歴史はどこの国だって同じようなもので、女、こどもは略奪の対象となり、男は傘下に組するかもしくは死を選ぶしかなかった。
 日本においては島国で言語を同じくしているからか、大陸の動乱に見るような大量の略奪行為や斬首があったというより、従順という形が多かったと見るが(徳川家康も結果として豊臣家を滅ぼす断をくだすが、その前にまずは降伏をすすめ、豊臣家に大和一国を与えてもよいとさえ言っている。受け入れても秀頼の首は飛んだのであろうが)、むろん、真田幸村のように徹底抗戦の道を選んだ武将も少なくないから一概には言えないことである。
 いずれにしろ、この二大権力構造は血族づくりとして男たちの系譜を強く推進する結果を生み、同時に女の地位を一代限りの存在にまで追いやってしまったのである。なぜか? 男たちによる戦いのルールのようなものだったかもしれないと僕は考えている。命がけの戦いに女たちの系譜まで堂々と混じりこんでくるようになると、敵味方の区分も分からなくなり、混乱をきたし収拾のつかぬものになっていく。それらを分かりやすくしておく必要があったのであろう。
 戦争などという愚にもつかない争いにルールがあるとは摩訶不思議であるが、どうもあるようなのである。
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