光りの進軍  光りよ通え・・・☆

合言葉は光の使命を果たす。
心一つに情報発信

第4部(9)「君たちは躍進する」米からの贈る言葉 転載です

2014-01-04 07:55:40 | (英氏)原発・エネルギー問題

第4部(9)「君たちは躍進する」米からの贈る言葉

2013.1.23 13:37 (1/4ページ)九州から原発が消えてよいのか

前のニュース

 戦勝国・米国の最新技術を日本に持ち込み、復興に生かす。その意気込みを具現化させたのが、九州電力苅田発電所(福岡県苅田町)だった。

 だが、昭和29年に始まった建設工事は困難の連続だった。当時として高出力の7万5千キロワットの同発電所は、タービンを回した後の蒸気を再利用する「再熱方式」などそれまで日本になかった技術を駆使したシステムだったこともあるが、何より九電の技師たちは日米の文化や考え方の違いに悩まされた。

 建設現場には、設計元の総合電機メーカー、ウェスチングハウス(WH)や建設コンサルト会社のギルバート・アソシエート・インコーポレーション(GAI)から計13人の技術指導員が派遣された。「世界最先端」を自負する彼らは最初、日本人技師を子供扱いし、すべてに米国流を押しつけてきた。

 日本の技師が、指示通りの手法に従わないと顔を真っ赤にさせて激高する指導員もいた。ひどいときはヘルメットを投げつけたり、足蹴にすることもあった。

 ただ、日本の技師にもプライドはある。「図面さえあれば、日本人だけで作れるんだ。図面を置いてアメリカへ帰れ!」。こう食ってかかる通訳もいた。強い使命感がストレスとなり、日米の狭間で精神的に疲れ、自ら命を絶った技術者もいたという。

 

米国技術に驚き

 

 だが、どれだけ悔しい思いをしても、敗戦から復興しようとしている日本にとって米国からの技術導入は欠かせない。

 建設現場には、日本の電機メーカーの技師も密かに紛れ込んでいた。九電が米国製の火力発電所の導入を決めた際、国産メーカーは「反対」の大合唱を起こしたが、やはり米国の技術力は気になっていたのだ。

 メーカーの技師たちは毎夜、米国の技師が帰った後、輸入された機械を丹念に調べ、自分たちに足りない点を学んだ。やがて米国人の技師もそれに気付いたが黙認したという。

 苅田発電所建設所の技術課長だった古賀作一氏(96)はこう振り返る。

 「石炭の計量器一つとっても、とにかく日本の機械とは精度が違った。輸入されてきた機械を見て日本の遅れを実感しましたね…」

 建設や運転に関するマニュアルが充実していたことにも日本人技師たちは驚いた。発電所内の清掃やペンキ塗り替えの頻度、必要な備品の種類や数-。何から何までマニュアル化する。技師の経験と勘を重んじる日本にはなかった文化だった。

 苅田発電所の運転を担当した徳渕照雄氏(86)はこう解説する。

 「それまで日本の運転技術は徒弟制度でした。つまり親方から弟子へ口伝で継承されるんです。ところが米国流は極端な話をすれば、マニュアルさえ読めば素人でも運転できる。その合理性に驚かされました。戦争で負けた理由が分かったような気がしましたね」

 マニュアルは危機管理にも直結する。清掃マニュアルは労災事故を防ぐ。トラブルの発生可能性に応じてどれだけの予備を用意すべきかもマニュアル化されていた。これらはトラブルによる発電停止、停電を極力減らすための方策だった。

 発電所の運転態勢も大きく違った。

 戦前、日本の火力発電所はボイラーやタービン、発電機にそれぞれ6~7人の作業員を配置し、制御を担った。ところが、米国の発電所は、自動化や遠隔操作が進んでおり、中央制御室と呼ばれる場所でコントロールしていた。この結果、同規模の発電所の人員は、日本の1千人に対し、米国は100人以下。これはランニングコストに大きく跳ね返った。

祖国復興の第一線

 

 技術面の米国流は積極的に吸収した九電だが、「文化の壁」を乗り越えるのは大変だった。

 社運をかけた国内最新鋭の苅田発電所は、昭和31年3月31日までに営業運転を始めることが、佐藤篤二郎社長の至上命令だった。

 ところが、米国人の技術指導員には「残業」の概念はなく1日8時間労働をきちんと守る。着工からわずか1年半の工期での完成にも「絶対に無理だ」と口をそろえた。

 技術課長だった古賀氏はこう言い返した。

 「1日は8時間じゃない。24時間あるんだ。3交代で24時間ぶっ通しで建設を進めることができる!」

 古賀氏は戦時中、軍隊で後方部隊に従事し、前線に送り出した戦友は数多く亡くなった。それだけに「祖国復興の戦いでは、第一線で働きたい」との思いが強かったのだろう。

 また、日本では監督官庁の通商産業省(現経済産業省)が発電所の図面提出を義務付けていた。これが米国人には理解できない。

 「図面は会社の財産じゃないか。アメリカ政府にも提出してない図面を、なぜ日本政府に出す必要があるのか?」

 何度、日本の仕組みを説明しても納得してもらえない。九電側は非常手段に出た。ある九電関係者は、全員が帰宅した米国人の仕事部屋に合鍵を使って入り、図面を取り出して、知り合いの青写真屋でコピーを取った。そして原本を翌朝までに仕事部屋に返却。現在ならば裁判沙汰や外交問題になりかねない綱渡りの所業だった。

 そんな努力の末、苅田発電所は31年3月31日午後11時40分、全ての検査を完了し、営業運転を開始した。経営陣が定めた期日ぎりぎりだった。

九州から東北へ

 

 全身全霊を込めて米国の技術を吸収しようという九電の技師たちの姿勢は、米国人技術指導員の「日本人」への認識をも改めさせ、やがて敬意さえ抱くようになってきた。

 そうなると打ち解けるのも早い。

 技師たちが使うハンコを見て「自分たちにも作ってほしい」とねだる米国人もいた。バッカーを「幕火」、アーランは「阿蘭」、アルガーは「有賀」-。そんな風変わりなハンコを作ってもらい、喜んでサイン代わりに使った。

 運転開始後、古賀氏は「幕火」ことバッカー氏とゴルフに行った際、こう打ち明けられた。

 「日本人はたいしたものだ。技術力はハイレベルで逆に自分が教わることもあった。近い将来、君たち日本は躍進するだろう」

 その言葉は、古賀氏の心中にあった、かつての敵国人に対するわだかまりも溶かしていった。

 その後、九州に苅田発電所をモデルとした新鋭火力が次々と誕生する。その新しい火は、東北地方にも“飛び火”した。

 100人を超える技師が、火力発電所建設に本腰を入れようとする東北電力に請われ、移籍した。彼らは八戸発電所などの建設に大きく寄与した。

 全国に名をとどろかせた「火力の九電」。それは苅田から始まった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿