「花降る里」より、転載します。
「宗教」も「教育」も、目指すは『人間の建設』
この処、ほとんど毎日「幸福の科学出版」の新刊(しかも一度に何冊も!)が出るので、本代がすごいことになってきましたが、先日本屋の平積みの新潮文庫に、岡潔と小林秀雄の対談を載せた「人間の建設」という本を見つけ、「ちょっと面白そう、文庫本なら安いし…」と思ってついオマケで買った処、これが今放出中の「霊言」に負けず劣らずの内容でびっくりしました(笑)他にも読むべき本が大量にあるので、ぱらぱらっと読んだだけですが、こりゃ、ブログに載せなきゃ…ということで、やっと紹介デス。
昭和65年の対談ですが、今もって、これ以上の対談はないんじゃないかと思えるほど、天下一品の“ぶっちゃけトーク”です。
のっけから教育問題。(タイムリー!)
今、認可申請中の幸福の科学大学のコトも、このお二人なら応援して下さるに違いありません。
対談でも小林秀雄が「(大学)教育で大事なのは、(学生達に)学問の楽しさを教えること」だと云ってます。
今の硬直した大学のシステムからは、完全に逸脱しようしている(笑)嫌われ者の“宗教大学”ですが、「そろそろ日本も、自分で自分を閉じ込めてきた殻を破って、新しい挑戦に門戸を開くべきだ」と云って下さる気がします。
もし仮に「幸福の科学大学」が認可されれば、今の大学教育に風穴をあけることになるのは間違いなし!(だからこそ、穴を開けさせまいとする大学関係者との熾烈な戦いが起こっているのですが…)
日本も、来年で戦後70年。
昭和65年の対談ですが、今もって、これ以上の対談はないんじゃないかと思えるほど、天下一品の“ぶっちゃけトーク”です。
のっけから教育問題。(タイムリー!)
今、認可申請中の幸福の科学大学のコトも、このお二人なら応援して下さるに違いありません。
対談でも小林秀雄が「(大学)教育で大事なのは、(学生達に)学問の楽しさを教えること」だと云ってます。
今の硬直した大学のシステムからは、完全に逸脱しようしている(笑)嫌われ者の“宗教大学”ですが、「そろそろ日本も、自分で自分を閉じ込めてきた殻を破って、新しい挑戦に門戸を開くべきだ」と云って下さる気がします。
もし仮に「幸福の科学大学」が認可されれば、今の大学教育に風穴をあけることになるのは間違いなし!(だからこそ、穴を開けさせまいとする大学関係者との熾烈な戦いが起こっているのですが…)
日本も、来年で戦後70年。
そろそろ“戦後体制”の枠を取っ払って、「学問の自由とその楽しさ」に目覚めても良い頃です。
昭和の最後の?“知の巨人”達から、宗教を学問の中心に据える戦後日本初の試み「幸福の科学大学」設立に向けて、頼もしいエールが届きました!
以下、抜粋です。(抜粋したい箇所だらけで、長くなりました。書き起こしは手間がかかるので、他で抜粋された文章もあわせて、貼らせてもらってます。)
昭和の最後の?“知の巨人”達から、宗教を学問の中心に据える戦後日本初の試み「幸福の科学大学」設立に向けて、頼もしいエールが届きました!
以下、抜粋です。(抜粋したい箇所だらけで、長くなりました。書き起こしは手間がかかるので、他で抜粋された文章もあわせて、貼らせてもらってます。)
「人間の建設」新潮文庫
小林 「いまは学問が好きになるような教育をしてませんね。…」
岡 「学問を好むという意味が、今の小中高の先生方にわからないのですね。…人は極端に何かをやれば、必ず好きになるという性質を持ってます。好きにならぬのがむしろ、不思議です。」
小林 「好きになるのがむずかしいというのは、むずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。…つまり、やさしいことはつまらぬ。むずかしいことが面白いということが誰にでもあります。難しければむずかしいほど面白いということは、誰にでもわかることですよ。そういう教育をしなければいけないと僕は思う。それともう一つは、学問の権威というものがあるでしょう。…それが下落している。…学問は非常にむずかしい。そういうむずかしいことを好んでした人だから、(偉い)ということに(ヨーロッパの大学は)なっておりましょう?そういうふうに仕向けなければ…。」
岡 「なるほど。そういう思想はギリシャから来ているんでしょうね。…学問に対する理想はそうだと思います。学問だけでなく、人の踏む道、真善美、もう一つ宗教の妙、どれについてもいえることです。」
・・・・・・・
岡: ギリシャには、小我を自分と思っているが、それが間違いであるという思想はないのです。しかし肉体的な健康にはかないません。日本人には真似できないものです。
私は日本人の長所の一つは、時勢に合わない話ですが、「神風」のごとく死ねることだと思います。あれができる民族でなければ、世界に滅亡をとめることはできないとまで思うのです。あれは小我を去ればできる。小我を自分だと思っている限り決してできない。「神風」で死んだ若人たちの全部とは申しませんが、死を恐れない、死を見ること帰するがごとしという死に方で死んだと思います。欧米人にはできない。欧米人は小我を自分だとしか思えない。いつも無明がはたらいているから、真の無差別智、つまり純粋直感がはたらかない。したがって、ほんとうに目が見えるということはない。(中略)
小林: 特攻隊のお話もぼくにはよくわかります。特攻隊というと、批評家はたいへん観念的に批評しますね。悪い政治の犠牲者という公式を使って、特攻隊で飛び立つときの青年の心持ちになってみるという想像力は省略するのです。その人の身になってみるというのが、実は批評の極意ですがね。
岡: 極意というのは簡単なことですな。
小林: ええ、簡単といえば簡単なのですが。高みにいて、なんとかかんとかいう言葉はいくらでもありますが、その人の身になってみたら、だいたい言葉がないのです。いったんそこまで行って、なんとかして言葉をみつけるというのが批評なのです。」(P.160~P.162)
岡: (中略) 死をみること帰するということは、なつかしいから帰るという意味です。
小林: よくわかります。特攻隊というような異常事件に関しなくても、私たちの、日本人の日常生活のうちに、その思想はちゃんとあるのです。
ぼくの友だちの永井龍男という小説家が、このあいだ『青梅雨』という小説を書いたのです。これは一家心中のことを書いたものです。冒頭に、老夫婦、養女、義姉が一家心中したという新聞報道が出ておりました、それからが彼のイマジネーションなんです。カルチモンを飲んで死ぬその晩の話を書いている。お湯にはいり、浴衣に着かえて、新しい足袋をはいて、親父は一杯つけて、普通の話をしている。 最後に養女が、だけどお父さん、今日死ぬということをお婆さんも姉さんも一言も言いませんでしたよ、あたしえらいと思ったわ、といってちょっと泣くのです。その泣いたところが、今夜のこの家でふさわしくないただ一つの情景であったと書いているのです。そして最後にまた新聞記者の、じつに軽薄な会話がちょいと出る。
私はこの小説に感心したのですが、これはモウパッサンにもチエホフにも書けないものです。日本人だけが書ける小説なのです。心理描写もなければ、理窟も何も書いていない。しかし日本人にはわかるのです。
岡: うかがっただけでも、感心しました。そういう小説があるのですか。」(P.164~P.165)
・・・・・・・
小林 (ピカソは)「無明」をかく達人である、その達人というものはどうお考えですか。
岡 それほど私はピカソを高く評価しておりません。ああいう人がいてくれたら、「無明」のあることがよくわかって、倫理的効果があるから有意義だとしか思っておりません。
ピカソ自身は、「無明」を美だと思い違いしてかいているのだろうと思います。
人間の欠点が目につくということで、長所がわかるというものではありませんね。
とうてい君子とはいえない。小人にはいるでしょう。(管理人 注 岡さんはピカソ展を見に行って「吐き気を催した」とまで書いておられるのを読んだことがあります。ああいうエネルギッシュさは肌に合わないんでしょうね。管理人はピカソの絵に他の画家にない品格の高さを感じたのですが…。岡さんの方がピカソより格が上なのかもしれません。)
岡 (ピカソは)男女関係を沢山かいております。それも男女関係の醜い面だけしかかいていません。
あれが「無明」というものです。人には「無明」という、醜悪にして恐るべき一面がある。
人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を「無明」という。ところで、人には個性というものがある。芸術はとくにそれをやかましく言っている。
漱石も芥川も言っております。そういう固有の色というものがある。
その個性は自己中心的に考えられたものだと思っている。本当はもっと深いところから来るものであるということを知らない。
つまり自己中心的に考えた自己というもの、西洋ではそれを「自我」といっております。
仏教では「小我」といいますが、小我からくるものは醜悪さだけなんです。
岡 人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。
たとえば良寛なんか、冬の夜の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっと聞いておりますと、雨を聞くことのよさがわかってくる。そういう働きが人にあるのですね。
雨のよさというものは、無明を押えなければわからないものだと思います。
数学の興味も、それと同一種類なんです。
・・・・・・・
小林 ピカソにはスペインの、ぼくらにはわからない、何というか、狂暴な、血なまぐさいような血筋がありますね。ぼくはピカソについて書きましたときに、そこを書けなくて略したのです。
在るなと思っても、見えてこないものは書けません。あのヴァイタリティとか血の騒々しさを感じていても、本当に理解はできないのです。それがわからないのは、要するにピカソの絵がわからないことだなと思った。ぼくら日本人は、何でもわかるような気でいますが、実はわからないということを、この頃つよく感じるのですよ。自分にわかるものは、実に少いものではないかと思っています。
岡 小林さんにおわかりになるのは、日本的なものだと思います。
小林 この頃そう感じてきました。
岡 それでよいのだと思います。仕方がないということではなく、それでいいのだと思います。外国のものはあるところから先はどうしてもわからないものがあります。
・・・・・・・
岡 モネーはたしかに純粋です。しかし、純粋というのは、一つの自我の殻だと云えば云える。そこから外に出ていない。それで、ゴッホに比べて一種の退屈さを感じる。
・・・・・・・
小林 「白痴」も、よく読むとあれは一種の悪人です。
岡 ムイシュキン公爵は悪人ですか。
小林 悪人というと言葉が悪いが、全く無力な善人です。
・・・・・・・
岡 トルストイは人としてたいへん偉いですか。
小林 偉いです。
小林 トルストイの目は、何とも言えない、健康で、明瞭で、廻り道や裏道が一つもないものです。
美しいと思いますね。あの目で思想問題もやったのです。
正直な明瞭な目でキリスト教というものを見て、一直線に進んだのです。
ああいう文章はドストエフスキーには書けません。ドストエフスキーにはああいう目がないのです。
横から見たり縦から見たり。ドストエフスキーという人は、病身で複雑な都会人でして…。
小林 (ドストエフスキーは)「無明」の極がトルストイよりもよほど濃いのです。
トルストイは「懺悔録」なんてものを書いていますが、ドストエフスキーには懺悔録なんかないのです。
トルストイには痛烈な後悔というものがあるのですが、ドストエフスキーに言わせれば、自分の苦痛は、とても後悔なんかで片付く簡単な代物ではないと言うかも知れません。
そこまでの「無明」があの人を取り囲んでいました。
そういうところがトルストイとドストエフスキーの違いです。
だからふたりの戦闘というものは違うのです。
トルストイは死ぬか生きるかのはっきりした戦闘をして、最後にやられるのです。
ドストエフスキーはもっと複雑で、うろうろ、ふらふら、行ったり来たりしている。
それが彼の宗教体系なのです。
岡 善人で努力家。トルストイを悪く言うのはやめましょう。
・・・・・・・
小林 (物理学者の書いた数式や図式に、人生観や思想など人間的な意味をつけたがる“風潮”について)だから私はそこに今の日本の文化の大きな問題があるのではないかと思います。ということは、科学というモノの性質をはっきりのみ込んでいないということで、これを認識する教育をしなければいかんのです。科学は何を言い、何を言わないかという。
岡 釈尊は諸法無我と云いました。科学は無我である。我をもっているものではないということを教えないといかんわけです。自然科学の弊害は多いですね。
岡 人の知情意し、行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが科学的なことなのですが、科学することを知らないものに科学の知識を教えると、ひどいことになるのですね。主張のない科学に勝手な主張をいれる。ほんとうにそうです。人には野蛮な一面がまじっているのです。アインシュタインがそれを知っていたら、ベルグソンと話し合えたと思う。
小林 話し合えればいい。だけど因縁みたいなものがありますね。出会えないですれ違う。
・・・・・・・
小林 ベルグソンは若い頃、こういうことを云ってます。問題を出すということが、一番大事なことだ。上手く出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。この考え方はたいへんおもしろい考え方だと思いましたね。今、文化の問題でも、何の問題でもいいが、ものを考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている。
岡 問題を出さないで答えだけを出そうとするのは、不可能ですね。
岡 問題を出すときに、その答えがこうであると直観するところまではできます。できていなければよい問題ではないかも知れません。その直観が事実であるという証明が数学ではいるわけです。… 哲学はいらないでしょうが。
小林 いらないと云う意味は証明が数学的でないというだけのことです。たとえば、命という大問題を上手に解こうとしてはならない。命の方から答えてくれるように、命にうまく質問せよ。という意味なのです。
岡 そう言う意味にとれば、ベルグソンの云うとおりです。それは正しい文化、人類の文化を組み上げるときの良い指針になると思います。… ただ文化全体となりますと、その答えが説得力をもつために長い努力がいるでしょう。
小林 そうですね。
・・・・・・・
岡 日本は戦後、個人主義を入れたのだが、個人主義というものは日本国憲法の前文で考えているような甘いものではない。それに同調して教育まで間違ってしまっている。その結果、現状はひどいことになっている。それに気づいて直してもらいたいと、私は呼びかけています。それを一億の人に呼びかけようと思ったら、呼び続けなければいけない。同じ文章で同じ事を言っても退屈して読んでくれなくなる。どうすれば比較的読んでくれるだろうかという技巧は数学で使っていることと同じでしょう。数学で未知なるものをできるだけ既知のものに近づけるために書く文章と、いまあちこちで書く文章は、書き方として同じです。
岡: うかがっただけでも、感心しました。そういう小説があるのですか。」(P.164~P.165)
・・・・・・・
小林 (ピカソは)「無明」をかく達人である、その達人というものはどうお考えですか。
岡 それほど私はピカソを高く評価しておりません。ああいう人がいてくれたら、「無明」のあることがよくわかって、倫理的効果があるから有意義だとしか思っておりません。
ピカソ自身は、「無明」を美だと思い違いしてかいているのだろうと思います。
人間の欠点が目につくということで、長所がわかるというものではありませんね。
とうてい君子とはいえない。小人にはいるでしょう。(管理人 注 岡さんはピカソ展を見に行って「吐き気を催した」とまで書いておられるのを読んだことがあります。ああいうエネルギッシュさは肌に合わないんでしょうね。管理人はピカソの絵に他の画家にない品格の高さを感じたのですが…。岡さんの方がピカソより格が上なのかもしれません。)
岡 (ピカソは)男女関係を沢山かいております。それも男女関係の醜い面だけしかかいていません。
あれが「無明」というものです。人には「無明」という、醜悪にして恐るべき一面がある。
人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を「無明」という。ところで、人には個性というものがある。芸術はとくにそれをやかましく言っている。
漱石も芥川も言っております。そういう固有の色というものがある。
その個性は自己中心的に考えられたものだと思っている。本当はもっと深いところから来るものであるということを知らない。
つまり自己中心的に考えた自己というもの、西洋ではそれを「自我」といっております。
仏教では「小我」といいますが、小我からくるものは醜悪さだけなんです。
岡 人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。
たとえば良寛なんか、冬の夜の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっと聞いておりますと、雨を聞くことのよさがわかってくる。そういう働きが人にあるのですね。
雨のよさというものは、無明を押えなければわからないものだと思います。
数学の興味も、それと同一種類なんです。
・・・・・・・
小林 ピカソにはスペインの、ぼくらにはわからない、何というか、狂暴な、血なまぐさいような血筋がありますね。ぼくはピカソについて書きましたときに、そこを書けなくて略したのです。
在るなと思っても、見えてこないものは書けません。あのヴァイタリティとか血の騒々しさを感じていても、本当に理解はできないのです。それがわからないのは、要するにピカソの絵がわからないことだなと思った。ぼくら日本人は、何でもわかるような気でいますが、実はわからないということを、この頃つよく感じるのですよ。自分にわかるものは、実に少いものではないかと思っています。
岡 小林さんにおわかりになるのは、日本的なものだと思います。
小林 この頃そう感じてきました。
岡 それでよいのだと思います。仕方がないということではなく、それでいいのだと思います。外国のものはあるところから先はどうしてもわからないものがあります。
・・・・・・・
岡 モネーはたしかに純粋です。しかし、純粋というのは、一つの自我の殻だと云えば云える。そこから外に出ていない。それで、ゴッホに比べて一種の退屈さを感じる。
・・・・・・・
小林 「白痴」も、よく読むとあれは一種の悪人です。
岡 ムイシュキン公爵は悪人ですか。
小林 悪人というと言葉が悪いが、全く無力な善人です。
・・・・・・・
岡 トルストイは人としてたいへん偉いですか。
小林 偉いです。
小林 トルストイの目は、何とも言えない、健康で、明瞭で、廻り道や裏道が一つもないものです。
美しいと思いますね。あの目で思想問題もやったのです。
正直な明瞭な目でキリスト教というものを見て、一直線に進んだのです。
ああいう文章はドストエフスキーには書けません。ドストエフスキーにはああいう目がないのです。
横から見たり縦から見たり。ドストエフスキーという人は、病身で複雑な都会人でして…。
小林 (ドストエフスキーは)「無明」の極がトルストイよりもよほど濃いのです。
トルストイは「懺悔録」なんてものを書いていますが、ドストエフスキーには懺悔録なんかないのです。
トルストイには痛烈な後悔というものがあるのですが、ドストエフスキーに言わせれば、自分の苦痛は、とても後悔なんかで片付く簡単な代物ではないと言うかも知れません。
そこまでの「無明」があの人を取り囲んでいました。
そういうところがトルストイとドストエフスキーの違いです。
だからふたりの戦闘というものは違うのです。
トルストイは死ぬか生きるかのはっきりした戦闘をして、最後にやられるのです。
ドストエフスキーはもっと複雑で、うろうろ、ふらふら、行ったり来たりしている。
それが彼の宗教体系なのです。
岡 善人で努力家。トルストイを悪く言うのはやめましょう。
・・・・・・・
小林 (物理学者の書いた数式や図式に、人生観や思想など人間的な意味をつけたがる“風潮”について)だから私はそこに今の日本の文化の大きな問題があるのではないかと思います。ということは、科学というモノの性質をはっきりのみ込んでいないということで、これを認識する教育をしなければいかんのです。科学は何を言い、何を言わないかという。
岡 釈尊は諸法無我と云いました。科学は無我である。我をもっているものではないということを教えないといかんわけです。自然科学の弊害は多いですね。
岡 人の知情意し、行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが科学的なことなのですが、科学することを知らないものに科学の知識を教えると、ひどいことになるのですね。主張のない科学に勝手な主張をいれる。ほんとうにそうです。人には野蛮な一面がまじっているのです。アインシュタインがそれを知っていたら、ベルグソンと話し合えたと思う。
小林 話し合えればいい。だけど因縁みたいなものがありますね。出会えないですれ違う。
・・・・・・・
小林 ベルグソンは若い頃、こういうことを云ってます。問題を出すということが、一番大事なことだ。上手く出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。この考え方はたいへんおもしろい考え方だと思いましたね。今、文化の問題でも、何の問題でもいいが、ものを考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている。
岡 問題を出さないで答えだけを出そうとするのは、不可能ですね。
岡 問題を出すときに、その答えがこうであると直観するところまではできます。できていなければよい問題ではないかも知れません。その直観が事実であるという証明が数学ではいるわけです。… 哲学はいらないでしょうが。
小林 いらないと云う意味は証明が数学的でないというだけのことです。たとえば、命という大問題を上手に解こうとしてはならない。命の方から答えてくれるように、命にうまく質問せよ。という意味なのです。
岡 そう言う意味にとれば、ベルグソンの云うとおりです。それは正しい文化、人類の文化を組み上げるときの良い指針になると思います。… ただ文化全体となりますと、その答えが説得力をもつために長い努力がいるでしょう。
小林 そうですね。
・・・・・・・
岡 日本は戦後、個人主義を入れたのだが、個人主義というものは日本国憲法の前文で考えているような甘いものではない。それに同調して教育まで間違ってしまっている。その結果、現状はひどいことになっている。それに気づいて直してもらいたいと、私は呼びかけています。それを一億の人に呼びかけようと思ったら、呼び続けなければいけない。同じ文章で同じ事を言っても退屈して読んでくれなくなる。どうすれば比較的読んでくれるだろうかという技巧は数学で使っていることと同じでしょう。数学で未知なるものをできるだけ既知のものに近づけるために書く文章と、いまあちこちで書く文章は、書き方として同じです。
つまり、一時間なら一時間、その状態のなかでお話すると、その情緒がおのずから形に現れる。情緒を形に現すという働きが大自然にはあるらしい。文化はその現れである。数学もその一つにつながっているのです。その同じやり方で文章を書いておるのです。そうすると情緒が自然に形に現れる。つまり、形に現れるもとのものを情緒と呼んでいるわけです。
そういうことを経験で知ったのですが、いったん形に書きますと、もうそのことへの情緒は無くなって形だけが残ります。そう言う情緒がなかったら、こういうところでお話しようという熱意も起こらないでしょう。それを情熱と呼んでおります。どうも前頭葉はそういう構造をしているらしい。言い表しにくいことを云って聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる。それは情熱なのです。
そして、ある情熱が起こるについて、それはこういうものだという。それを直観と云って居るのです。そして、直観と情熱があれば、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きもしない。そういう人を私は詩人と云い、それ以外の人を俗世界の人といっておるのです。
・・・・・・・
小林 (あなたは)自分の確信したことしか、文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ。知識は書きますよ。しかし私は人間として、人生をこう思っているということを書いている学者は実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人はまれなのです。…私は文章としてものを読みますからね、その人の確信が現れていないような文章はおもしろくないのです。岡さんの文章は確信だけが書いてあるのですよ。
岡 有り難うございます。どうも確信のないことを書くということは数学者にはできないだろうと思いますね。確信しないあいだは複雑で書けない。
小林 確信しないあいだは、複雑で書けない。まさにその通りですね。確信したことを書くくらい単純なことはない。しかし世間は、おそらくその逆を考えるのが普通なのですよ。確信したことを書くのは何か気負い立たなねばならない。確信しないヤツを説得しなければならない。まあ、そんなふうにいきり立つのが常態なんですよ。ばかばかしい。…
ところで、新風というものが、どこかにありますかなあ。こんな退屈なことはないですね。もしみんながおれはこのように生きることを確信するというだけで書いてくれれば、(今の文壇は)楽しくなるのではないかと思います。
岡 人が何と思おうと自分はこうとしか思えないというものが直観ですが、それがないのですね。
小林 ええ、おっしゃるとおりかもしれません。直観と確信が離ればなれになっているのです。僕はなになにを確信する、と言う。では実物の何が直観出来ているのか、という問題でしょう。その点で、私はウソをつくかつかぬかという、全く尋常な問題に帰すると考えているのですが、余計な理屈ばかり並べているのですよ。そうとしか思えません。
岡 躾けられて、その通りに行為するのと、自分がそうとしか思えないからその通り行為するのと、全く違います。
・・・・・・・
岡 (数学は、後戻りは絶対にしない?)ええ、本当に行き詰まったら、数学というものがなくなるでしょうね。そういう危険性がないとは云えないわけです。だから、数学の中だけで安心できないわけで、やはり、人類の文化の一つとして数学というものがあるという自覚があれば、心配ないわけです。人類の向上に対して方向が合っていると思う様にやればいいので、そこまで行かなければ安心できない。
私はさしあたって日本の非行少年の数が3割という驚くべき比率から、せめて3%ぐらいに下がってほしいと痛切に思っています。それに役立ちそうなことがあったら、喜んでしているのです。
昔の国家主義や軍国主義は、それ自体は間違っていても、教育は自我を抑制していました。だから今の個人主義は間違っている。自己を中心に考えるということを個人の尊厳だなどと教えないで、そこを直してほしい。まず、日本人が小我は自分ではないと悟ってもらわないと。
(神風特攻隊の)善悪は別にして、ああいう死に方は小我を自分だと思っていては出来ないのです。自分の肉体というものは、人類全体の肉体であるべきである。理論ではなく、感情的にそう思えることが大事で、それがもっとも出来る民族としては日本人だと思います。ところが、3割という非行少年、今一番日本が多いのですね。一億という人が生存競争の空しさを言ってくれたら、世界に対して相当の声になって、或いは人類の滅亡を避けられるかもしれない。(管理人注 昭和65年の対談ですから、バブル崩壊の4、5年前?日本が経済的“生存競争”で駆け抜けていこうとしている時期の対談なので、国内問題さえ片付けば未来はバラ色だった時代ですね。)そう思っております。理性というものでは到底現状を防げるとは思いません。感情・情緒というものが眠っているのです。
小林 政治問題としてみれば、先生にもっと月給をあげなければいけないでしょう。とくに小学校の先生が薄給でやっているというのはいけないですね。
岡 大事なものに対する権威をもっとはっきり認めなければいけませんね。数学をいくら研究したって何の収入もない。教員をやって、そこから収入を得る。研究の邪魔になります。(管理人感想 岡先生!慕って来ている学生もいたでしょうから、そこは堪えてくださいましな 笑)
・・・・・・・
岡 数学が今まで成り立ってきたのは、体系のなかに矛盾がないということが証明されているためだけではなくて、その体系を各々の数学者の感情が満足していたということがもっと深くにあったのです。初めてそれがわかったのです。人がようやく感情の権威に気づいたといってもよろしい。… 人は実例に出会わなければ決してわからない。
仏教に光明主義というのがありますが、それは中心に如来があって、自分があるというのがはじまりで、私はそれが本当だと思っています。全知全能の大宇宙の中心である如来と、何故全くの無知無能である個人の間に交渉が起こるかと言うことは不思議なことかもしれない。しかし、全知全能な者は無知無能な者に、知においても意においても関心をもたない。情において関心を持っているのです。哀れで、可愛いのではないか、そこで交流がおこるのではないかと思うのです。情というものは知や意と大分違うのです。とにかく知が如何に説いたって、情は承知しないということがわかったとすれば、数学でそれがわかったとすれば、数学という学問の大きな意味になりますね。
知や意によって人の情を強制できない。それが民主主義の根本の思想だと思いますが、そういうことがわかれば、漢字をおかしな仕方で制限し、それ以外の字を使って子供の名前を付けさせないなどということを、人に押しつけることも出来ないはずです。共産主義に合わない学問を認めない国家も同様です。
情が納得してなるほどそうだとその人自身が動き出さなければ、前頭葉も働かない。…
例えば懐かしいという情が起こるためには、もと行った処にもう一度行かねばダメです。そうしないと本当の記憶は蘇らないのですね。… 仏教で、本当の記憶は頭の記憶などよりはるかに大きく外へひろがっているといっていますが、そう言うことだと思います。
小林 だれでもめいめいが自分の歴史を持っている。… 伝統を否定しようと、民族を否定しようとかまわない。やっぱり記憶がよみがえるということがあるのです。記憶が勝手によみがえるのですからね、これはどうしようもないのです。これが私になんらかの感動を与えたりするということも又、私の意志ではないのです。記憶がやるんです。…
言葉が発生する前の原始状態は、誰の心のなかにも、どんな文明人のなかにも持続している。そこに立ち返ることを芭蕉は不易と呼んだのではないかと思います。
まだまだアリマスが…この辺で。
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