前投稿で、昨年12月13日に浅香光代氏が逝かれたことを、ひょんなことでネット情報から知ることになりました。
病名をしり、年齢を思えば、大往生でした。
本投稿では、浅草に居住した時代、故人とのとりとめもない接点を、エピソードとして追投稿し、ご紹介したく。。。
彼女が生活する町内で、普段着の浅香光代氏を認識したのでは、ミッチー・サッチー騒動が起きる5年程前あたりだろうと記憶します。 当時浅草・待乳山聖天さんの近くに住んでいて、浅草寺裏の三丁目界隈の安飲み屋の味を覚えて嬉々としていた頃です。
彼女の住まいは、もはや週三、週四に、日付をまたいで飲む安スナックのある通りのにあって、そこは自宅マンションからは、吉野通りと馬道通りの二本の通りを浅草見番を右にみて千束通りに向かう、最短距離で5~6分の浅草三丁目東界隈です。
一帯は、日が落ちると、浅草見番を中心に、料理屋、料亭、小規模レストラン、居酒屋、スナック、バーが立ち並ぶ伝統的な夜の町になります。
余談ですが、吉野通りとこの馬道通りの二本の通りが、深酒して未明に帰るときには、大井川か多摩川を歩いて渡るような錯覚に襲われるから、深酒は本当に怖い(汗)
勇躍と目指す安スナック著名な店の近くまでくると、夏場の夕刻7時か8時には自宅前に持ち出した椅子に腰を下ろし、普段着の浅香光代が行き交う顔見知りにアイコンを送り、挨拶を交わしたりして愛想を振りまいている光景は珍しくないものでした。
目が合うと、その目には「またそこの安スナックかい?(^o^))」と言わんばかりのメッセージに、こちらも気が引けて、「ヘィ」とばかりに、心ばし顎を引いては小さくうなずく動作で挨拶に替えると言った具合の、珍妙な空気を共有したのが始まりでした。
今思えば、椅子にすわる著名な女優とアイコンを交わす時の表情は、この記事のアイキャッチ画像とほとんど重なります。
隅田川の花火の時、当時住んでいた12〜3階構造のマンションの屋上が、住人とその関係者に花火鑑賞用に開放されます。 この時は浅草界隈、対岸の本所界隈のビルやマンションの殆どは同様で、そこで皆、持参したつまみやスナックで酒を飲みながら、伝統の花火をゆうゆうと見ることができる特権を満喫する数少ない機会になります。
ある年の花火にかこつけ、弟の家族4人を招待したことがあります。
二時間ほどの花火が終了して、改めて、夜の浅草を軽い食事で二次会ということになり繰り出した時、細い通りの自宅前の椅子に座る浅香光代氏は、町会の番長よろしく、行き交う顔見知りといつものようなやり取りをしており、われわれファミリーが距離を詰めた時も普段と同じやり取りがあったことから、かなりミーハーな連れの中学生の甥と小学生の姪が舞い上がりました。
二人のオジキである、kazanが彼らから尊敬の眼差しで見られた初めての瞬間でしたデス。 結果、大いに〇〇家の当主の面目をあげた瞬間を作ってくれたことは、終生の貴重な思い出にもなり、今日にいたっております。
思えばあの目線が不肖kazanと同じ高さにあっての技、本当に、実に気さくな浅草の住人でしたことで、今、南の国から懐かしをこめて投稿をしています。
ありがとうサン、つつしんで、ここにで、ご冥福を祈ります。
そして、知らずに、み月も過ぎたkazan不明をお詫びします。