ブログ katsukazan/活火山★時々の四方山話

北朝鮮帰還事業と「キューポラのある街」に連想すること

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昨日のブログで映画・キューポラのある街のポスター画像を貼り付けました。


そん関連で、これに関連したテーマで記事を起こしたいと思います。


キューポラのある街は埼玉県川口市が舞台です。


正確に言うと、JR川口駅周辺と言った方が正しいでしょう?


その地域に多く点在した鋳物工場の炉がキューポラと言われておりました。


そこで生活する、在日朝鮮人の一家が、総連と国にの帰還事業で北朝鮮人へ帰国する内容が主テーマですが、社会派の映画として、日活が制作したものです。


 


帰国事業は、北朝鮮サイドでは、朝鮮戦争が終わり、国家建設のために労働力と工業高校以上の学歴のある理数系の技術者を確保するために、在日朝鮮の帰国を計画しました。


日本での推進母体は朝鮮総連と、当時同志的結合で結ばれていた日本共産党でした。


これに、日本政府が乗っかりました。


理由は、終戦後、朝鮮半島から密航して入国した朝鮮人が、戦前強制連行で連れてこられたという理由で、在留権を求め、いわゆる在日朝鮮人として日本で大きな勢力を持つに至り、戦後のドサクサの頃は、根拠の無い「戦勝国民」を名乗り、傍若無人な振る舞いをして、日本人への暴行や、駅前一等地に居座り露店やその類の非合法な商売を行い、我が物顔で集団化し、治安を著しく不安定にしておりました。


まして反政府運動の先頭に立っていたのも在日朝鮮人でしたから、政府としては、「渡りに船」でその事業に乗っかりました。


 


北朝鮮と総連、それに日本共産党は、北朝鮮が「労働者の天国」で、支配階級のない「労働者の国」であり、「地上の楽園」であると持てはやされました。


共産主義は、労働者の衣食住を保証していると謳いあげ、政府は、これ幸いに後押しをしたものです。


作家早船ちよは社会派の作家・児童文学者で当時は埼玉県浦和市に住んでました。


浦和市は川口市大宮市に挟まれた県都で、舞台となった川口はとは隣り合わせの都市です。


その作品を監督したのが日活の浦山桐郎ですが、傷害で10本の映画をつくりましたが、傾向は少々社会派です。


映画の発表が1962年ですが、帰還事業が本格的に始まったのは、1959年・昭和34年です。


wikipediaからの引用です。



北朝鮮が高度に閉ざされた体制をとっており、自由な往来が不可能であること、領域内において外国人の自由な活動を許していないこと、北朝鮮の文書資料の入手に難があることから、帰還者たちがどのように処遇されたかは脱北者などの証言からしか詳細には把握できていない。



 


北朝鮮における身分制度である出身成分では最下層に分類され、また「動揺階層」として差別されました。


しかし、日本共産党の党籍を持っていたために「核心階層」となった者もわずかながら存在しますが、多くはその後の権力闘争の過程で粛清されました。


結局は地位上の楽園は朝鮮労働と、朝鮮労連がでっちあげたプロパガンダです、ほとんどの帰還者は妬みと差別の意味を込めて「帰胞」(帰国同胞)と呼ばれ、潜在的な反体制分子もしくはスパイとみなされ、社会的にも苦しい状態に置かれました。


その具体例が、多くは労働改革、思想改革と称して強制収容所にに収容され、そこで消息不明になった人が多数で、免れた人も多くは脱北し、韓国経由で韓国のパスポートを取得して、日本に戻った例が多く、やがてその実態は日本でも広く、語られるようになりました。


kazanの隣のクラスの学年の番長は1959年に帰還してますが、その後の消息は噂にも上げっておりません。


キューポラのある街の浦山桐郎監督は、後に日本共産党の礼賛を受けた作品を作成したことに、大変後悔をしたとする文章を読んだことがありますから、美辞麗句で送り出した共産党は、その実態を何も知らなかったのだということに驚いた記憶があります。


吉永小百合が社会派・左翼色に染まったのは、この浦山監督の影響を受けているのかもしれませんね。


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特筆したいことはあと一点あります。


売春防止法が完全施工されたのが、1958年・昭和33年です。


いつも思うのですが、醜業に付いていた女性のうち、朝鮮人の配偶者、つまり朝鮮人妻として帰還する夫について、新天地を求めた人も多数いたのでは想像します。


この想像をしたのは、もう二十年ほど前に1997年頃一時帰国した15名の三回の事業で45名が里帰りを実現しました。


テレビにニュース報道では、その中の一人が、九州の実家に帰らないとい方が居りました。


聞けば、里ではすでに自分は死んだことになっているから帰るに及ばずとのことで、帰郷しない人でした。


これを見たときに、年代を追うと、売春防止法の施工が、1958年で帰還事業が始まったのが1959年でうから、年代的な環境は一致することから、醜業についたことで、世間体のための、親子の縁を切ったり、死亡・行方不明として、扱かわれたケースもったのでは想像したのです。


このケースを扱った小説も無ければ、手記も存在ないことに不自然さを感じるのですが、これも一つの、タブーなのかもしれません。


「赤線地帯」という映画では、女性たちのお客に、在日朝鮮人の役で登場する男優が居たような気がするのですが、定かではありません。


 


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