(問)統一についてですが、昔五井先生が、ふんわりととテープで
おっしゃっておられますが、今、講師の先生方の中には、それだけでは
駄目だと、もっとなんて言いますか、自力ではないんですが、もっと
光を描いてというか、そういう風に具体的に指示される方が結構
いらっしゃいますが、その辺はどうなんですか。
(答)それは正論だとも言えるし、そうじゃないと思う面も
ありますね。
で、正論だと思うのは、大きな意味から言えば、正論そのもの
なんですよね。
何故かというと、人間というのは光そのものなんですよ。ですから、
自分が光そのものだ、神様の子供だ、神様から来ている生命だという
ことに気がついて、そこへずっと本心に呼びかけてゆけば、何でも
出来るんです。人間というのは、全知全能の神の流れを受けて生きて
いるものですからね。
ところが、色んな現実などにぶつかっていったら、なかなか人間の
神性を引っ張り出すってことは出来ないんですよ。ですから、南無阿弥
陀仏がありアーメンがあり、私の世界人類が平和でありますように
という祈りがあって、消えてゆく姿がある訳なんです。
私が生きている時には、全部引き受けますからふんわりしていらっ
しゃいっていうのは、それは変わりないんですけれどもね。ただ人類が
本当の意味で進化していく為には、みんな本当に光輝く本心をもって
いるんだということを、一人一人が強くどっかで感じて信じて
いかないと、いくら私が本の中でいい事を言っても、原稿に書いても、
ああいい話だけど私には出来ないなあと思ってしまうと、そこで成長が
止まるんですよ。
そういうものが自分の中にもあるんだなあ、光の粒が自分の中にも
沢山入っているんだなあ、神様というものがつまりにつまっているん
だなあ、自分は神様の場所なんだなあと思うとですね、そこで○○○や
○○○○という個人を越えて、神様の場所になって、その時働きの場所に
なる訳です。
例えば、印を切ることであったり、書を書くことであったり、色んな
事であったりする訳なんだけど、それを通して光り輝いていって、
その光がまわりに満ちてくる、そういう事なんですね。
だから、講師の先生が言ってる、それだけじゃあ駄目なんだよと
いうのは、自分の中にそういう生命があるという事を気づかなければ
駄目なんだよという、そういう事でもあるんです。
だから、言葉尻を捉えて、あれはおかしいんじゃないのかなあ、
あれは五井先生が昔ああ言っておられたけどというのは、それはそう
でもあるし、今はそれだけでは足りなくなって来ているというのも事実
なんですよ。ただ、それを、お前達はこうしなければ駄目なんだよと
いう風なひびきで言ったとしたら、それは間違いなんですよね。
こうしなければ駄目っていうのは神様の世界には無いんですよ。ただ
こうしていった方が人類の進化にとって、一人一人の進化にとって、
人間の神性の進化にとって絶対に必要な事なんですよと。
つまり、愛念に満ちた言葉で伝えていかないと、反発とか寂しさとか、
自分はとっても出来っこないとか思ってしまうのでね、その辺の指導の
仕方が非常に難しいですよね。
その人個人に呼びかけながら、その人の幽体霊体神体にまで
呼びかけて、皆で協力して通すということは、神の所へ昇って行く
道筋だから、そこに何か不調和な想いが出たら、それだけ皆苦しむ
訳ですからね。
その所で、祈り心を一つにして、とに角、世界人類の中に自分の
想いを溶け込ませる。そうすると平和になっていく訳ですから、
そこの所に想いを集中して、その想念を明るくしてやっていくこと、
これが大事なんじゃないですかね。