人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

無 題

2010-11-18 13:53:21 | スピリチュアル
我々の生命は

光なのです

光は闇を

おおうものです

ただ

神の

ほがらかな

みこころのなかに

我々は

抱かれているのです




食べること

飲むこと

これが

禁じられると

辛いおもいに

なる

しかし

私にとっては

神から

離れなさいと

いわれる方が

一番辛い




祈りは

きよめである




素直な人が増えたら

世の中は

もっと

住みやすくなるよ

統一について

2010-11-18 11:28:12 | スピリチュアル
 (問)統一についてですが、昔五井先生が、ふんわりととテープで

おっしゃっておられますが、今、講師の先生方の中には、それだけでは

駄目だと、もっとなんて言いますか、自力ではないんですが、もっと

光を描いてというか、そういう風に具体的に指示される方が結構

いらっしゃいますが、その辺はどうなんですか。



 (答)それは正論だとも言えるし、そうじゃないと思う面も

ありますね。

 で、正論だと思うのは、大きな意味から言えば、正論そのもの

なんですよね。

 何故かというと、人間というのは光そのものなんですよ。ですから、

自分が光そのものだ、神様の子供だ、神様から来ている生命だという

ことに気がついて、そこへずっと本心に呼びかけてゆけば、何でも

出来るんです。人間というのは、全知全能の神の流れを受けて生きて

いるものですからね。


 ところが、色んな現実などにぶつかっていったら、なかなか人間の

神性を引っ張り出すってことは出来ないんですよ。ですから、南無阿弥

陀仏がありアーメンがあり、私の世界人類が平和でありますように

という祈りがあって、消えてゆく姿がある訳なんです。

 私が生きている時には、全部引き受けますからふんわりしていらっ

しゃいっていうのは、それは変わりないんですけれどもね。ただ人類が

本当の意味で進化していく為には、みんな本当に光輝く本心をもって

いるんだということを、一人一人が強くどっかで感じて信じて

いかないと、いくら私が本の中でいい事を言っても、原稿に書いても、

ああいい話だけど私には出来ないなあと思ってしまうと、そこで成長が

止まるんですよ。

 そういうものが自分の中にもあるんだなあ、光の粒が自分の中にも

沢山入っているんだなあ、神様というものがつまりにつまっているん

だなあ、自分は神様の場所なんだなあと思うとですね、そこで○○○や

○○○○という個人を越えて、神様の場所になって、その時働きの場所に

なる訳です。

 例えば、印を切ることであったり、書を書くことであったり、色んな

事であったりする訳なんだけど、それを通して光り輝いていって、

その光がまわりに満ちてくる、そういう事なんですね。


 だから、講師の先生が言ってる、それだけじゃあ駄目なんだよと

いうのは、自分の中にそういう生命があるという事を気づかなければ

駄目なんだよという、そういう事でもあるんです。

 だから、言葉尻を捉えて、あれはおかしいんじゃないのかなあ、

あれは五井先生が昔ああ言っておられたけどというのは、それはそう

でもあるし、今はそれだけでは足りなくなって来ているというのも事実

なんですよ。ただ、それを、お前達はこうしなければ駄目なんだよと

いう風なひびきで言ったとしたら、それは間違いなんですよね。


 こうしなければ駄目っていうのは神様の世界には無いんですよ。ただ

こうしていった方が人類の進化にとって、一人一人の進化にとって、

人間の神性の進化にとって絶対に必要な事なんですよと。

 つまり、愛念に満ちた言葉で伝えていかないと、反発とか寂しさとか、

自分はとっても出来っこないとか思ってしまうのでね、その辺の指導の

仕方が非常に難しいですよね。

 その人個人に呼びかけながら、その人の幽体霊体神体にまで

呼びかけて、皆で協力して通すということは、神の所へ昇って行く

道筋だから、そこに何か不調和な想いが出たら、それだけ皆苦しむ

訳ですからね。
 
 その所で、祈り心を一つにして、とに角、世界人類の中に自分の

想いを溶け込ませる。そうすると平和になっていく訳ですから、

そこの所に想いを集中して、その想念を明るくしてやっていくこと、

これが大事なんじゃないですかね。