人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

五井先生と呼んで下さい

2010-11-23 14:56:19 | スピリチュアル
私は落語家じゃないかなあと言われた時が随分生きている時に

あるんですね。それは、話の中に冗談とかね軽口とか。

 やっぱり法話というものはね、わかりやすくやさしい言葉で言って、

五つ六つの子供にも分かるような話し言葉でないと、本当に深い言葉

というものは入っていかない。深い真理というものも入っていかない。

 で、こうしなきゃならん、こうした方がいいということは分かって

いてもね、人間というものはそんなに出来るもんじゃないんです。

簡単に出来るのなら、五井先生はいらないの。釈迦やキリスト、

その人たちでも救いきれない、今のこの世の中の複雑な色んな要素が

あるでしょ。

 釈迦やキリストだけでもとうてい駄目というところにもってきて、

深淵な言葉だけじゃね駄目なんです。


 だから、本質論も必要だけれども、本質論と同時に、具体的に

やっぱり、寂しいですねえ悲しいですねえ、大変ですねえ、本当に大変

でしょうという、そういういたわりの気持ちがないと駄目なんですよね。

それがあって初めて、人を導くことも可愛がることも愛することも

出来る。


 会館でやってた最初の頃に、皆熱心でしたよ。皆くい入るように

話を聞いてくれてね、最初の白光の人たちは。今の人たちが駄目だと

いうんじゃないですよ。本当にくい入るように聞いてくれたけれども、

あんまり深い話をし過ぎるとくたびれちゃってね、みんな。とっても

私は出来ないわとかね、思っちゃうから。

 だから、ある時は魚屋のおっさんになったりさ、ある時は八百屋に

なったり、それから、本当に落語家じゃないかという位軽口とばして、

そうして、ふーと気がついたら神様のことを考えていたという風に

もっていく。これ方便なんですね。


 で、その時々によって色んな話し方をする。さっきの私と今の私と

違うのかといったら、違わないんですよ。全然違わない。だけども、

とに角機をみてね、人をみてね。人をみて法を説けというでしょ。

あれと一緒なんですよ。
 
 その時々その場相手によってさっきのようなしゃっちょこばった

ああいう講演口調の、ねばならぬ存じます式が通じる時もあるんです。

 そうじゃなくて、こりゃあもうそんなこと言ったら

逃げ出しちゃうなあという場合は、こういう口調もあるんですよね。

どれも五井昌久。どれも神様。

 神様といったって、私が神様じゃないですよ。そうじゃなくって、

神様が色んな働きをこうやってなさるということの証をここで

やっているようなもんだね。

 そうじゃなきゃ、こんな講演会なんかやりませんよ。そんな無駄な

ことを神様はやらないと思いませんか。

 本当にそうですよ。やっぱり誰かに聞いて欲しいという気持ちが

皆あるでしょ、皆苦しいから。

 聞いて欲しいといっても、吸いとり紙のようにね、自分というものを

さしはさまないで、深くうなづきながらね、ああそれは

大変ですねえって聞くというのはこれは大変なことよ。実際に。絶対に

自分が出るもの。

 そんなことはあなた言うけれども、私の経験によればということに

なるよね。なるけれども、そこは本当に難しい。


 人に対する時というのはね、私の経験によればと、それを

出しちゃうと相手が悲しむね。60 70 80生きて来た人がね、

私はこう生きて来たと言いたくなるのもよく分かるけれども、

悩んで苦しんで切羽詰まって来る人というのは、それどころじゃ

ないんですよ。その人の経験談を聞きに来た訳じゃなくって、とに角

ただ単純に慰めて欲しい。

 そこから悲しみをとって欲しい。軽くして欲しいんです、まず。

 医者のね、頭痛がするから頓服下さいというのと同じなんです。

 頓服上げといてね、熱下げて頭痛とって、頭痛とった後にね、何で

頭痛くなったかというの一緒に考えましょうよというゆとりを、

そこから導き出すんですよ。

 頭痛とらないでね、説教したってしょうがないの。だから、ある人は

頭痛で来るかもわからない、ある人はおなかが痛いといってとんで

来るかもわからない。先生、姑が!という人も沢山いたしね。

 嫁さんとうまくいきませんという人もいたしね。どっちにもいい顔

しなさいというの。それじゃあどっちもいい加減にしなさい

というんじゃないですよ。

 そうじゃなくって、どっちもに対していたわりがないと、人間関係

なんていうものは本当にうまくやってゆけないということですよね。

 だから、そこで気をつけなきゃいけないのが、自己愛というもの

ですね。自分を可愛がりすぎるあまりに、相手が見えないということに

なっちゃうとこれはあぶないんです。

 自分自分自分が辛い辛い辛いと想うとね、その辛い辛い辛いが相手を

変に傷つけたりね。あるいは、こう気持ちをにぶくさせてることが

あるんですよ。

 自分が一番辛いと想うからね。だけども、自分も辛いけれども本当は

相手も辛い。


 ところが、人間というのは不便というか何というかね、そんな

吸いとり紙みたいな人は、いないでしょ。とってもじゃないけど

ありませんよ。だから私が出来たという訳じゃなくって、私はもう

ずっと十字架にかかったようなもんですからね、前も言ったように。

 神様に自分の生命というものを差し上げちゃって、投げ出しちゃって、

それで、どうなとして下さいといったら、まあやくざみたい

だけれどもねえ、そこで自分の生命の本体というものを見たから。

 もう私安心しちゃいましたからね。安心した人間は今度、皆さんの

中にその大安心というものを分けないとね、いけませんでしょ。

 そこで、私は十字架にかかりっ放しになって、お浄めしたり話を

聞いたりする訳だけれども、そうやって皆さんと話をしたり、

今こっちから見たり聞いたり、祈りを届いたりするのを見ていると、

あるいは感じてるとね、本当に何とかして下さい、どうにか

して下さい、本当に辛い祈りが多い。

 だけども、その辛さをね、とかして、そうして本当は、あなたの中に

光があるんですよということを、こっちはね、皆さんの守護霊さん

守護神さんと一緒になって出してゆく訳ですからね、その流れを。

 その役目を未来永劫五井先生は引き受けた訳だから、だから、

皆さんは安心してね、五井先生と呼んで下すっていいんですよ。

 五井先生にこんなつまんないことを聞かせるなんて、とてもじゃない

けど私の気持ちがゆるさないとかね。

 どっかでかっこうつけたりとか、ありますね。恥ずかしがったり

とかね。だけども、そんなこと言ってる内にストレスが

溜まってくんのね。

 そういう遠慮はいらないんです。どこでもいいんですよ、五井先生と

呼べば行くんですからこっちはね。

 行ってどういう手当てが出来るか分からないけれども、しかし、

最善の手当てをするわけよ。どういう手当てが出来るか分からない

というのは、皆さんの心に思ってるような手当てが果たしてこっちが

出来るかどうか、その時期かどうか、よくは分かんないけれども、

しかし、神様の愛というものを携えてこっちが行くということは

確かなんです。

 そうして、皆さんの悩みも苦しみも抱きとって浄めてるということも

確かなんです。

 だから、いつかその悩みとか苦しみとか辛さというものは

消えてゆくんだ、五井先生に任せてれば消えてゆくんだ、五井先生を

通して神様の愛というものが通ってきて、その大愛によって我々の

諸々のものというのは消えてゆくんだということね。

 そこさえしっかり見ていてもらえば、こっちは本当に

守り易いんですよね。やりやすいんです。


 まあ、バカ話みたいにしゃべってますけど、やっぱりねえ、生命の

流れをね滞らせないようにしておかないとね。

これはしんどいですよ。辛いんです。本当にね。今しんどいという

大阪弁を使ったけれどね、あれは心労なんですね。

 あれは心疲れるんです。心労ですね。

 だから、しんどいという言葉はね、あれは実際、心の憂さという

言葉があるけれども、本当に心が疲れて疲れて大変だという

言葉ですがね。

 ですけど、ずっと申してますように、本心というものは、心が疲れて

いるように見えても、本当に疲れをしらない。

 疲れを知らないどころか、神様の側から光というものを受けとってね、

そして、あなた方の中のそういう想いとか悩みとかいうものを

軽く軽くして、光の方へ引っ張ろうとしている。そういうものが同時に

あなた方の奥に深くにあるのですからね。

 だから、心だけを感情だけを自分だと思ってしまうと、勘定は払わ

なければいけないですね。勘定払って借金払ってね、そうして、本心の

方へ降りて行ってね、ハシゴを使わないと降りてゆけないという人も

あるかもしれないけれども、だから祈りのエレベーターの世界人類が

平和でありますようにというのをつくったんだから。

 せっかくエレベーターがあるんですから、ハシゴで一段一段

降りなくともね、エレベーターを使って降りてくれればいいわけです。

 それで、エレベーターでサァーとね神様のところへ行く。


 さっき〇〇さんが言ってましたね、雑念がどんどん出るけど大丈夫

だろうかと。大丈夫です。自分の中の雑念というものはそんなに気に

する必要はありません。出させとけばいいんです。

 そういうものもこっち側はもうよく知ってますしね。前も話したか

わからないけれども、法然さんという偉いお坊さんが、ある信者さんに

聞かれたでしょう。

 南無阿弥陀仏と言うんだけれども、南無阿弥陀仏と言えば言う程

雑念が出てきて困ると。法然さんが偉い人でねえ。

 あんたもそうか、わしもだという話があったよね。あれと一緒

なんですよ。

 統一会に来てね、眠ってもいいいんです。本心のところで霊体は聞いて

いますからね。肉体は疲れるから眠っちゃってもいいんですよ。そこをね

びしっとして、絶対にお話だからお祈りだから、まっすぐに背筋を

伸ばしてと、そんなもんじゃないんです。

 もっと生命というものはほがらかでね、本当は障りのないもんでしょ。

 ひろやかなもんですよ。だから、そこを目指して我々は祈っていくん

ですからねえ。窮屈になる為に祈るわけじゃないでしょ。もっともっと

自分のたがをはずす。

 それを目指して祈るんです。何々をする為に祈るとかね、そういう風に

してしまうとね、その為にが主人になっちゃってね、目指してる

ものがねえ、めざしが嫌いでいわしがいいとかね。生がいいとかいう人も

あるかもしれないけれど、そんなんじゃないんですよ。


 神様の御心というものは深くて暖かくって本当はやわらかい。

 北風と太陽の話じゃないけど、北風が吹いたって旅人の衣はずっと

寒いから脱ぎっ放しにできない、むしろ、どんな風が吹いてもしがみ

ついたでしょう。だけど、太陽の場合はポカポカ照ったから、

サァーッと脱いじゃったね。あれと一緒なんです。

 どんなものもゆるしてね、どんなものも溶かす。それが太陽ね、それが

神様の愛なんですよ。そういうふるさとをあなた方はもってるわけ、

自分の中にね。それを日常の慌しい中ではね、ここにふるさとがあると

思えたってなかなか思えないから、だから、祈るわけでしょ。

 で、祈りの中でね日々瞬々の想いの掃除をしてもらって、そうして、

そのひびきにのって統一してもらってねえ、もらってというのは、私が

あなた方にしてもらうんですよ。あなた方が五井先生にしてもらうんじゃ

ないのよ。

 一緒に祈って、祈りの階段をのぼってもらって、お互いに神様の

大生命の中に入ってゆくんです。そのお手伝いを私がしているんです。

 だから、安心してどうぞ私のところへ色々もってきて下すって

結構ですから。


 やっぱり人間というものは、そんな窮屈なことを目指すんじゃない。

 祈りというものは窮屈なことを目指すんじゃない。

 こうしなければならぬというものじゃないからね。人間の中の想いの

枠をはずしてゆく。世界を広げてゆく、光の世界の住人になってゆく

ということは、自分を素直に朗らかにひろやかに深くね、広々とさせる

ことですよ。


 しかし、人間にはそれぞれの立場というものがあってね、立場に

よって出てくる言葉ってあるんですよ。

 私は前に妙好人ということを言いましたよね。白光に寄ってくる人は

特別な人は来なくていいと言いましたよ。

 妙好人みたいな人が集まりゃいいって。それは何も妙好人を理想に

した訳じゃない。けれども、神仏へのあるいは大生命へのものすごく

素直な祈りがあり希求がある。そういう人をやはり理想にしたい。

 他の、社会的な地位だとか立場だとか、そういうものは一切いらない。

 そういうものはむしろ宗教にとっては本当に雑なものになるんです。

やっぱり、すっきりと生き通しの生命になってゆく為には、自分の中の

そういう雑物をのけてゆく、その為に祈りがあるわけですから。


 ですけれどもね、さっき言いかけましたように立場があってねえ。

 例えば、高橋君なんかは、この人善人ですかって問いかけて

くればねえ、ああそうだよと答えなきゃしょうがないし。で、善人

だけがいいわけでもないんです。

 善人ということはいいことだけども、ある時にはいいけども、

ある時には大変だろうなあという時があります。

 例えば、バカ正直という言葉がありましょ。正直ということはいい

けれども、何でもかんでも言ってしまうということが、その人の人生に

とっても他の人の人生にとっても良いことか悪いことかといったら、

何でもかんでもつつみ隠さず自分の気持ちを相手にさらっと言っちゃう

のはね、これは自分はある時すっきりするかもしれないけれども、

それによって相手が傷つくということもある。

 だから、その立場立場によってね、ある時ある人が善人に見える

こともある。ある時ある人がずるく見える時もある。

 それは、その人がその人の生きてきた環境とか色んなものによって、

その人の一面を、ああずるいなあとかああいい人だなあとか感じる。

 その感応によってこっちに聞いてくるから、それをまず一たん認めて

やらないといけない訳ですよ。

 善人なら善人、ずるい人ならずるい人、だけど放っとくとね、

とてもじゃないけどすっきりいい生命にはなっていかない。

 我々の目指してゆくところは、そういう色んな面を持っていても、

その生命をさながらに明るく朗らかにしてゆくということですから、

そこへ向ってゆかなきゃいけないわけですからねえ。

 だから、私達はその立場立場によって、見える感じる想えるという

ことをまず認めた上でね、その上でさらにその人の成長に従って、

ああここまでならこの人行けるなというところまで、一段一段

いっしょに階段を登ってやるということ。降りて行ってやる

ということね。

 それが大事なんです。上からね、あなたこうしなきゃいけませんよ、

こうすべきですよ、という風に言ってしまいますとね、それが

したくとも出来ないという人が沢山いるわけですよ。

 おもいは一杯あるけれども弱くって出来ない、ありますよ。だから、

それがいけないと言ってしまうと、もうその人全体を否定することに

なる。禁止することになる。おまえがいけないということになる。


 だけど、神様というものは、おまえはいけないはないんです。

 おまえは可愛いけれど、おまえは駄目だ、おまえは良い子だけど、

おまえは悪い子だ、それは全くないんですよ、神様の側からすれば。

 だから、それぞれその時々に応じてね、人間の我々の目から

見ますとね、ああしょうがない人だなあ、やっかいな人だなあ、こんな

つまんない人がいるかしら、もう色々言ったって何にも

わからないような・・・と思いますよ、あせりますよ。

 だけども、やっぱりその人はその人なりに悟る時期、分かる時期

気づく時期、あるいは、傷ついて一歩進む時期、色々あるわけね。

 そこで、へたに我々が裁断をしてねえ、この人は駄目だとか、

この人を標準にして話をしようとかねえ、そういうことは言っちゃあ

いけないし想っちゃあいけない。

 何故なら、神様というものはね、そういう標準を何ももっていない

無限定なんですよ。神様というものは、無限定な愛なんですよね。

 その愛というものは測り知れない、測るものはないんです。そういう

ものから我々の生命というものは出てきているんですね。


 その生命というものは、どんなに豊かであることか。これは

分からない程豊かなんですよね。言葉なんかでは言いつくせない

でしょう。量とか質の問題じゃない。存在そのものが愛なんだから、

その愛に抱きとられて、そこから出てきた生命というものが我々自身

だとすれば、我々というのはすごい宝物をもっていただいて

この世の中に出てきてる訳ですよ。

 だから、その宝物をもってながら、もちきれませんすいません

ということは、やっぱりこれは傲慢不遜になる訳です。

 いただいたものなんだから、それをどう使うかは神様の方でお決めに

なるんだから、そこですっきりと神様にお任せをしてね、そうして、

どう使っていただくかはわかりませんけれども、日々私共はつとめて

まいりますというつもりで、世界人類が平和でありますようにと

やっていきますとね、いつの間にか我々を使って下さるわけですね。

 我々は、我々も気づかない内に器になってまいります。その器になる

ということは自分を磨くということでもあれば、皆さんに喜びを分ける

ということでもあれば、自分の深い本心がそこで満たされて光になって

ゆくということでもございます。そんなに難しいことでもないけれども、

しかし、不断に祈って、そうして、超越者に任せて愛の源に任せて

やっていくということが大事だろうと。


 その為に、色々申しましたけど、てっとり早いのは、五井先生と

呼ばれれば私はゆく訳ですから。呼んで下されば、引き出すお手伝いを

致しますからね。

 その引き出しがいくつあるか、その幅とか量とかそんなものは

神様の方で決めることであって、皆さんの方で、私量が少ないから

なんて、そんな遠慮することはありません。

 ただ、そういうものを引き出すお手伝いを私はしにまいりますので、

どんな時でも構いません。

 文句たらたら恨みごとたらたら、色んなものを引き受けます。私は

ずっと十字架にかかっておりますから、かかりっ放しですから。私に

全部言って下すって結構です。

 だけども、神様の御心というものは、そういう深いところにあるんだ

ということをねやはり承知なすって、その上で祈って下すったら、

光のエレベーターももっと輝いて、皆さん方を光の世界へ引きつれて

ゆくことが出来る。

 そうして、自己の為にも他己の為にも、世界人類の為にも宇宙人類の

為にもなっていく。

 そういう世界が、皆さんとともに築いてまいれることだと

思っています。

神々の光

2010-11-23 14:33:35 | スピリチュアル
 みんな、私に会っているけれど、それはつきつめれば、

神に会っているということなのよ。えらぶっていうんじゃ

ありません。

 私が神だっていうんじゃなく、私をつくり、私のうしろで

働いて下さっている、神々の光をいうんですよ。

 本当は、みんな私とおなじなのよ。

大事なことは・・・

2010-11-23 11:45:09 | スピリチュアル
 耐えることのなかでも、寂しさに耐えることは、

大変な意力がいる。

 今、寂しさのなかにいる人は、五井先生がみている、

一緒にいるとおもって下さい。




感受性のゆたかな、人の気持ちのわかる人間になる

というのが、何よりも大事です。