人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

行為の光明化(前篇)

2011-01-20 19:03:42 | スピリチュアル
 世の中に、不思議なこととか、思いもかけないこととか、
何でこんなことが起こるんだろう、とか。ということが
沢山あることですけれども。
 そういうことに把われてると、人間というものは心が
だんだん苦しくなってきて、そして、がんじ搦(がら)めに
なってきて自分というものが分からなくなってくる。私共の
方で自分というのは、この肉体の自分だけではなくて、
何十回も何百回も言っておりますように、本体の本心の自分
ということを私達は問題にして、そうしてそこへ自分が
還っていくように祈りを重ねて生きていく。そのお手伝いを
している訳であります。

 ところが、この日常の中で自分がという場合には、その
自分の中の見えない世界の自分というものは、もう忘れ果てて
おりまして、なかなかその自分が自分がの自我の方の自分が
沢山出てくる。それで、色んな人と付き合ったり、付き合った
末に悩んだり悲しんだり喧嘩をしたり、まあ取組み合いの
喧嘩をするかどうかはわからないけれども、何かそんな風な
ことが重なり合って、そこで窮屈になって、何で自分が
こんな目に合うんだろう、何でこれだけ自分がやってあげたのに
相手に感謝されないんだろうとか、何で自分の想いが
通じないんだろうとか言うけれども、それは大きく言えば、
我の世界の自分でありまして。その把われの世界に生きてる以上、
人間というものは非常に不自由な窮屈なものになるのであります。

 そこで私は前から消えてゆく姿というものをですね提唱して、
そして、色んな想いが出てきても、それは自由自在な自分に
還る為の消えてゆく姿なんだと。だから、色んな想いが
出てきても、ああこれは過去世からの業が消えてゆくその姿
なんだと思って、その瞬間に、神様五井先生と言って、こっちへ
返してくれれば、それでこっちはパーッとサーッと浄めて
ゆけるんだということをずっと申し上げて来ているのであります。
 それでも尚且つ出てくる。出てきても構わないんだ
ということを私は申し上げている訳であります。

 日常の生活というものは、お金を儲けなければならない。生きて
いかなければならない。食べていかなければならない。そういう
ことがあります。そういうものを捨ておいて、それでただ神様神様
と言ったって、なかなかそれはやっていけるもんじゃない。覚悟も
できるもんじゃない。そういうことは、皆さんの私達の
守護霊さんがもう百も承知千も承知でありまして、だからこそ
日常の色んな苦しいことがあっても守ってるんだということを、
世界平和の祈りの中で教えている筈でありますけれども、なかなか
目に見えないことでありますから、そこで、愚痴も辛いという
言葉も涙も出てくる訳であります。で、私共は愚痴っても
かまわない、とに角、光の本体である自分をその都度その都度、
五井先生出して下さい、神様出して下さい、というその祈りを
受けてやっていく内に、だんだんだんだん人間というものは
光そのものへ、光明そのものへ本来の自分そのものへ還って
ゆくんだということを教えてゆかなければいけない。

 その為には、日常というものを馬鹿にしないで生きる
ということ。現実に人間である我々は、肉体身が終わるまでは
肉体をかぶってですね、いくら霊体が本物だ神体が本物だって
いったって、この世の中生きてゆかなきゃいけない訳ですから、
その肉体を大事にして愛して、そしてやっぱりそれを養って
生きていく。その為にどうすればいいかということを、この智恵
というものを祈りの中で考えついてゆかなきゃなんない。その
お手伝いを、私共宗教者はしなきゃいけない訳であります。
 ですから、私は無理なことをしろとはいいません。あるいは
無理な霊能力をつけろともいいません。つけさせようとも思わない。

 霊能力なんてものは、皆が皆あるといえばあるんです。そういう
ものが見えるとか見えないとか、色んなものが出てくるというのは、
これは前生からの因縁といいますか修行の結果で、そうしてしかも、
それが見えても聞こえても、なかなか把われないところまで
いくには大変なことでありますけれども、見えてる人、聞こえてる人、
何かさせられてる人というものは、神様が必要あってそこで
なさる訳ですから、させる訳ですから、それはそこで素直になって
やっていけばいいんです。

 ただし、そういう役割の人であっても、やはり日常の営みを
忘れるという風なことがあっては、これは人間として宗教者としても、
やはり片輪になってしまう。片輪にならないでどうやってバランスを
とって生きていくかということになると、色んな所へ飛びこんで、
あるいは飛び込ませて、苦労をさせなくちゃなんない。その苦労
というのも、何もお金の苦労をさせる、人付き合いの苦労をさせて、
守護霊さんが魂の修行だからといって、こっちでじいっと冷然と
見てるという訳ではなくって、苦労してるな苦労してるなと
想いながら光を差しのべている訳でありますけれども。当の苦労を
させられてる本人というのは、苦労の方が目前にきていますから、
光がなかなか自分の方へ向いてるなんていうことは考えも及ばない。
 五井先生にこんな風に頼んでおいたのになかなかこっちの方へ
やってもらえないとか、まあ給料少ないとか、色んな愚痴が
こっちへ届いて来る訳です。それこそ人間的な愚痴がこっちへ
来る訳ですけれども。

 しかし、私共は、天命というものをずっと通して、その人の
天命が本当に真白になって神様の中にずっと融け込んでいく
というその為に、守護霊さんや守護神さんやあるいは私や神様や
皆が苦労してる訳ですから、その苦労というものは実は、肉体人間が
苦労する、一時の感情で揺れ動くという風な苦労の何十倍何百倍
何千倍な訳です。だけれども、それは苦労は苦労とちっともこっちは
思っていない。思っていないというのは何故かというと、それは
一人一人皆さんが可愛いいからであります。可愛いくなかったら
こんな苦労なんか出来っこないんです。一緒に泥まみれになって
苦労したりですね、泣いたりですね、喚いたり恨んだり、
いちいちやっぱりこっちも感情移入をしながら、特に私なんか
感情移入をさせられながら、一人一人見守っている訳ですから、
これが本当に肉体だったらたまったもんじゃないと思う程、
今何万人もの何十万人もの人の想いを受けたり返したりしている日常
でありますけれども。

 とに角、私共が光であるということを肝に銘じておりますと、
不思議なこととか、とんでもないこととか、思いがけないこととか、
そういうものが起ってまいりましても揺ぐということが少ないんです。
 何故なら、いつも申しておりますように、本体というものは
揺がないんである。本心というものは揺ぐということは
まず有りえない。揺ぐものは気持ちがゆらぐ。感情が揺ぐんで
あります。ちょうど波が風を受けて騒いだりあるいは嵐が来て
波が波打ったりするけれども、海の底はちっとも平和そのもので
全く(何も)波立ちも何もしない。調和そのものの世界である。
 魚だとか海藻だとか、そういうものの生命(いのち)を
そのまま受けて安らがせている様に、何ら調和の世界に変化はない。

 そういう調和の世界というものを、生命(いのち)さながらの
世界というものを、実は人間は一人一人の中に持っている。
 一人一人が神の宮なんであるというあのイエスの言葉というのは、
本当にここのところにおいて真実な訳です。あるいは釈迦が
汝ら精進せよと言ったように、自分が死んだ後もずっと努力して
いきなさいと、祈りの生活を続けていきなさいと言ったのは、
この調和の世界が自分の中にあるんだということを絶えず確認する
努力をしていかなければ、肉体身というものは弱いから、
自分の中にそんな調和の世界があるなんてことはなかなか
分からない。あるいは又もっと話を別の方にすると、法然にしろ親鸞
にしろ日蓮にしても、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経という
あの六語なり七語なりの中に生命をこめた言葉があるという発見を
したのは、あれは非常に素晴らしいことでありまして、あの中に
本当にさながらの光明が生き生きと生きづいている訳で
ありますけれども、しかし、南無阿弥陀仏と言ってしまってサッと
悟れるかというと、なかなか肉体人間そういう訳にいかない。ただ
南無阿弥陀仏にしても何にしても、その中に光があって、光の
エレベーターに乗って、それがサーッと高い所まで自分を
連れていってくれるんだ、自分の心の奥底にある調和の世界に自分が
そのまま合体して合致して生きていけるんだ、生き通しの生命なんだ
というところまでの自覚を、あの南無阿弥陀仏にしろ南無妙法蓮華経に
しろ、あの真理そのままの言葉の中に人間は合体した時に光に
なってゆけるという、この大きな真理を発見したというのは、これは
大変なことなんであります。それはちゃんと、日蓮なり親鸞なり
法然なりの後に大きな大きな深い働きをする守護霊さんがいて、
そういういわゆる末世といわれた時代に、本当に人間が
救われなければならない、その魂の要求にみ合った道は何であるか
ということを、あの人達に示した訳であります。

 ところが今は、色々なものが情報が多すぎて、見るにしても聞く
にしてもあるいは行動するにしても、飛行機であれば世界中どこへ
だって行けますし、ニュースなんていうのは一日の内に地球の
裏側からでも入ってきますし、だんだんだんだん世界が狭く
なってきて、そして、だんだんだんだん自分のまわりの関わりが
それと反比例して薄くなってゆく。親子であっても何か親が
信じられない、子供が信じられない。そういう世界になって
いった時に、自分というものを本当に今この瞬間に
見つめられてる人がどれ位あるかというと、これが非常に
頼りないことになってきている。だから、自分というものが
見つめられずに自信が持てずに頼りなくなった時に、じゃあ
どうするかということが、今この世界中の生きてる人間たちの
共通の悩みになってきている訳であります。

 そこで色々な芸術や文学や美術などの方面で、そういうものを、
慰めを、あるいは何とか人間がこの突破口を作って、そして
そこから抜け出して自由な生命になるにはどうしたらいいか
ということを、宗教だけじゃなくて、色んな方面の人が
今手さぐりをしている。もちろん宗教者もそれをやる。

 だから、この間のような宗教のサミットなんかが
開かれたりして、そして、あれは色んな人が集まって来た訳
でありますが、その共通の根本の願いというか祈りというか、
我々を結び合わせているものというものは、やはり、世界人類
というこの一つの大きな深い命題でありまして、我々が
この地球に生きているということ、そしてこの地球に生きている
以上、この人類が平和でなければならないという非常に素朴な
ところから始まるこの言葉、それへの祈念というものが、
あのサミットを成功させたのであります。

 そして、我々が唱導しているこの世界人類が平和でありますように
という祈りは、ただ、単にこの地球に生きている人間が平和で
あるようにというだけの祈りではなくて、この我々人間が
平和な気持ちになれば、調和する気持ちになれば、自然に
我々が生きてるまわりのこの自然をも大切にするし大事にして、
あらゆるものの生命を尊んでゆくし、それは我々の中の霊性
というものを目指して、そして、奥の自由な体というものは
もう自在になってゆけば、地球だけにこの生命が生きてる訳
ではない、宇宙の調和そのものの一環が地球に生きてる我々
人間の体の中に埋め込まれているんだということに気がついて
ゆけばですね、これは、宇宙全体に本当は鳴りひびく祈りで
あるんだ、世界人類が平和でありますようにという
この一句(く)の中には、宇宙全体が求めている祈り、調和
そのものを求めていく祈りというものが実は込められている。

 宇宙子科学のメンバーが、今必死になって計算したり
何だかんだやっている。それというのは、地球の波動
というのは今実は一番遅れている。それは何で遅れているか
というと、宇宙人類というものは、本当は心波でもって
心の波でもって、自分が調和した心の状態にある調和こそが
この世界の最大目標なんだということを知っている訳です。
 それに反して地球の人類というものは、肉体を本来の自分
だと見誤(あや)まって、我(が)の世界できておりますから、
この我を脱ぐために随分苦労をしている。先程申しました様な、
親鸞にしても法然にしても釈迦にしてもですね、あるいは
イエスキリストにしたって、その我を脱がせる為の先覚者
であった訳ですけれども、それはそれで大変に光明を発揮した
訳ですけれども、今はとに角、これ程国が分かれて、そして
これ程色々な紛争の種があって、人間が短気になってる時に、
どんな風にしたら本来心の芽を導き出して、そして、それに
肥料を注いで芽吹かせるかということになれば、これはもう
世界人類が平和でありますようにという言葉を根にする以外
にはないのであります。

 そうして、この宇宙人類というものは、もうとっくにそこに
気がついておりまして、自分というのは自分の心の波の奥底の
世界によって自分が動いている。神様の意志によって動いている。
 神様によらない生命というものは何一つないということを
分かっておりますから、そこで、争いとか無用の醜い姿とかを
晒すとか、そういうことは全く有りえない。それを何とかして
そこの方向へ持って行こうとしているのが、宇宙子科学の
メンバーが今必死になってる作業でありますし、昌美なんかが
今一所懸命アメリカでやらされている作業というのは、
地球人類の波動を四次元五次元六次元七次元とに角高次元に、
宇宙人類の心波の世界にまで高くして、そうしてそれを
知らず知らずの間に埋め込みそういうブラウン管を埋め込み、
アンテナを埋め込むというその作業なんであります。

 ところが、この波動があまりにも細かいものでありますから、
全部に行き渡らせるといっても、まず誰か受け手がなければ、
これは非常に強烈な心波そのものをもってきて今の地球人類の
この我の世界にポンと投げ出しても、その光の波だけで皆が
気死してしまうような、そういう強烈な波でありますから、
それをまず受け器である昌美が受けて、そうしてその波動を
どんどんどんどん割っていってですね、小さな小世界をずっと
作っていって、性能は同じものですけれども、それをどんどん
どんどん皆に分けていくと。その為に今一所懸命祈りの
世界の中に入って、大神様の中に生命をあずけてやってる訳です。

 取り敢えず、皆が生きる為の、生きるというのは肉体の生命が
生きるというんじゃない、宇宙人類の中の兄弟の一人である、
そうして人類というものは、平和な争いのない、しかも愛深い
神様の御心に適う器でありたいと望む、そこへ持っていく
ということを大本願にして進まなきゃなんないんだということを、
まずこちらがスイッチの切り換えを今やっている訳であります。

 じゃあ種を分けたその種を10個なら10個持って帰ってきて、
昌美がどんな風に埋め込むかというと、それは、そこから
守護霊さん守護神さんの世界になる訳でありまして。たとえば、
世界人類が平和でありますようにというあの世界平和の祈りの中に、
その種を入れていってしまう訳であります。そうすると、皆さんの
守護霊さん守護神さんが、その種ごと世界人類が平和で
ありますようにという祈りを受け取りますので、それを
口に宣べて祈りを唱える。あるいは心の中で唱える。フェローの
人はフェローの印を組む。講師は講師の印を組む、という中で、
浄めの中で、スーッとその体の中へその種が入っていく。
 そうしますと、知らず知らずの内に本心開発がなされていって、
不思議なことも思いがけないこともやり切れないことも、
だんだん芽を出さなくなっていく。

 芽を出さなくなるというのは、感情が鈍くなるとか
感じなくなるとか、そういうことではありません。それとは
全く正反対のことでありまして、感受性というものは鋭く深く
なっていくし、愛も深くなっていくし、どっちかというと、
今までよりももっともっと心の襞の細かい波動の細かい人間に
なっていく訳でありますけれども、人間というものは、
いつも私が申しておりますように、人、霊に止まると。あそこへ
還らなきゃいけません。我々が霊の生命であって神の生命であって、
霊妙な朗らかな生命の根本に還った時にはじめて、世界人類の
平和というものは完成をされるわけであります。まだそれが、
肉体人間の想いや迷いなど色々な荒い波があるこの地球世界の中で、
ただ単にそういう願いだけでは弱すぎる、祈りだけでも大変だ
というので、取り敢えず世界平和の祈りというものが
こちらへ与えられて、そしてそれが真理の言葉になってそれを
手助けする為に、守護霊さんや守護神さんやあるいは霊団
というものが後でパーッと働いて、今この改革をどんどん
やっている訳であります。

 ですから、今なんで自分がこんな所に居なきゃ
なんないんだろう、なんで今というのは、それぞれ皆あると
思いますが、そのなんで今というそのやりきれない場面
だとかを見せられるというのは、それが一つの人間のいつわりの
ない姿なんだということ。いつわりのない姿を見せられて、
そしてそれを受け入れる。皆それぞれ人間違いますから、
まるで同じということはありませんけれども、自分の中にも
そういう嫌な面、辛い面、やり切れない面、肉体人間で
あるならば自分の中にもその芽があるんだということをじっと
見つめてそうして、しかもこういう人間であるということは
百も承知千も承知で守護霊さん守護神さんというものはあるいは
神様というものは、我々の生命を天命を引き受けて下すってるんだ
ということをちゃんと自分の奥底に自覚をする。その為の
世界平和の祈りであり、その為の宗教信仰であるということを
考えてまいりませんと、ただ現象のことだけに把われて何でだろう
と考えてしまうだけでは、我々の進歩というものは止まって
しまうのであります。

 人間というものは人類というものはあるいは魂というものは
進化をせずにはおかないものであります。何故かというと、
完全な平和とか完全な調和とかあるいは完全な愛にむかって
進まないではいられない、そういう性質を我々の本体というのは
もっておりまして、あの霊光写真の中に現れているああいう
真白な何の障りもない、あの光そのものになる為の、
なりきる為の祈りというものを、我々の本体というものは
欲している訳であります。その為に色々なものが、うちの会で
あるならば、平和行進があり世界平和の祈りがあり
ピースセレモニーがあったり、ピースポールを建てたり
という行事がある訳であります。

 ただし、その行事そのものも、ただピースポールが
建てられればいい、ただセレモニーをやればいい、
ただ祈りの会をすればいい、何回行進をやった先生を呼んだ
というのは目的ではありません。それを通して、自分の中の
魂の芽が幾分かでも発芽をして、そうして自分の中の魂が
浄められていくような、そういう実感を味わう、祈りを深くする
ということがなければ何にもならないのであります。
 それでなければ、それはただ単に形の世界にとどまること
でありまして、これは、進化とも何ともなっていかない
ものなのであります。

 ところが人間というものは、やはり矛盾をする様で
ありますけれども、ある程度のしるしなり形なり何かの
成果なりというものを目の前にしておかないと、やはりこれは
非常に不安になるものでして、そのある程度のしるしなり形なり、
例えば、本部から講師の先生を呼んで話を聴く、皆の中にいる自分
というものを自覚をしてはじめて、じゃあこの言葉について
深く考えてみようかとか、色々なことを自分は考えられる。そういう
場が与えられてはじめて人間というものはそういう気持ちに
なってゆける。そういう部分があるのでありまして、それを私は
何も、それではだめだということではないんであります。

 それは多いに利用したらよろしいけれども、しかし、それを
一つまちがうと、何回講師の先生を呼んだとか、何回柏手を打った
とか、お浄めをしたとか、いう風な回数を数える様なことに
なっていく訳でありまして。ところが魂の修行というものは
そんなものではなくて、回数ではないんであります。あるいは
成績主義ではないんであります。魂がどの程度目覚めるか
ということは、我々の世界というものが、我々の心の中の本心
というものが、どの程度開いていくかということ、どの程度
自分の中のものを捨て去って無になってゆけるかということで
ありまして、その為に祈りがある。

 それで、祈りというものは、どの宗教でありましても、
そういう自分の中の余分なものを捨て去る。たとえ瞬間でも
構いません。その捨て去る時の充実と助ける為に祈りというものが
あるんであります。主の祈りにしても、南無阿弥陀仏にしても
南無妙法蓮華経にしてもそうであります。どこから入っても
それはそうであります。光明は絶えることはありません。

 けれども、今この現代の世の中で、「世界人類が平和で
ありますように、日本が平和でありますように、私達の天命が
完うされますように、守護霊様守護神様ありがとうございます。」
というこのどこをとり上げても無理のない、感謝と愛念に満ちた、
この祈りを唱えることによって、私共は私共の中に常にある、
しかし、常には眠らされてる神性と、私共の肉体が一致をして、
そして、肉体は肉の身のままに光と化していくことが出来るので
あります。その光となっていく日常を重ねていくことによって、
だんだん肉体が肉体のままでありながら波動が細かく
なっていって、そうしてついに、全く死にきってむこうに
行かなければ波動が細かくならないという様な時代では
もうなくなってまいります。でなければ、この世の中
というものは常識に照らして動いていくものでありますから、
この世の中の常識に照らして動いていく世の中で、光明
というものが働く為には、自分の波動がいつの間にか
光明化されて、そして肉体のままで、何も祈りをするとか
会に出るとかそういうことではなしに、知らず知らずの内に
やっていることが光明化されていくと、自分の口から出る
言葉あるいは接する態度めざし、そういうものが和らぎに
満ちたものになっていく。

 それだけで、それはそこに愛念が輝くということに
なっていくのであります。そうして、私などはそういう
さり気ない態度の方がむしろ大事であると考えている訳
であります。    (後篇につづく)

行為の光明化(後篇)

2011-01-20 17:53:51 | スピリチュアル
 宗教といいますと、ことさらに祈りを何度しなければ
ならないとか、ねばならないという規制が沢山あった様に
思います。けれども、これ程複雑な世の中になって
まいりますと、ねばならぬということが非常に窮屈になって
きておりまして、あるいは実際の生活上できないということに
なってきておりますし、実際、本体をたずねてみますと、
あるいは本来の神様の姿というものをたずねてみますと、
そんなものではないのであります。神様というものは、
人間が今何を悩みどう苦しみ、だから何が必要であるのか
ということを何もかもご存知で、その上で私に世界平和の祈り
というものを与えて、この世界をあるいは私達一人一人の
人間を光明化していく、手助けとするようにということで、
私は任命されたのであります。

 でありますから、何にも考えることはいらない。とに角
最初に申し上げました様に、色々な想いが出ても迷いが出ても、
あ、これは消えてゆく姿なんだ、腹が立ってもかまいません。
 腹が立ったら腹立ちのそのままを私に下さればいいわけで
あります。皆さんぶつぶつ言うとか、皆さんが必要以上に
嘆き悲しむとかいう時は、それは私に対する預け方が足りない
のでありまして、そんなことまで五井先生に言っちゃったら
申し分けないとか、こんなことまでと言っても、こちらから
見ておりますと皆見えておりますし、皆聞こえてまいりますし、
見ようと思えばこちら全部見える訳でありますから、隠しようが
ない訳であります。で、そういう状態であるということは、
一人一人残らずこちら見えておりますし、こちら知って
おりますから、それならばいちおう全部預けて委せてですね、
そうしていただき直しの生命を又新しく貰うということの方が
出発がしやすいのであります。あるいはこちらもさせやすい
のであります。ですから、どんな時であっても、神様と
いうものは人間を愛さないということはない。たとえ不幸の
どん底にある様にみえているその時でも、あ、これで過去世の
そういう苦労が一つ消えたなあ、こちらの方では計算ができて
おります。

 なかなか人間の方はそうはまいりませんけれども、
泣きながらでも、祈りをして下さるとこちらでは光を
送りやすい。あるいは祈りが出来なくっても、それはその時は、
こちらの方で何とでも致しますから、とに角愚痴であっても
何であっても、神様の方へ顔を向けながら愚痴を言う。
 あるいは文句を言う。神様を忘れて文句を言いますと、
それが業になってどうどう巡りを致しまして、どうにも
ならなくなってまいります、それで雁字搦めになって、
そういうのを魂の入らない仏に近いというのであります。

 我々は、人間というものは、飽くまでも進化をせずには
おかない、あるいは、せずにはいられない魂、心というものを
本心というものをもって生きているということを考えて
おりますれば、なかなか光から顔を背けられないのであります。
 背けたいと思っても背けられないのが人間なんでありまして、
その辺を考えてゆきます時に、我々は、会に出ようと出まいと、
印をきろうときるまいと、祈りの言葉が出ようが出まいが、
ちゃーんと守護霊さん守護神さんが守っていて、こちらから
私が見ていて、神様がいるんだということさえどっかに
置いといてもらえれば、知らず知らずの内に本心開発が
出来ていく。あるいは祈り言葉も出てくる。そういう
もんである。そうしていく内に、だんだんだんだん人間の
魂も肉体もあるいは言葉も、自然法爾(じねんほうに)の
世界にすーっと入っていく。ということを今日ここで皆さんの
心の中へ種をまいておきたいと思うのであります。

    昭和63年5月5日  五井昌久