子供が欲しくない、もう子供はこりごりだと
前生で想ってしまって、そこで生命を終えると、
この世の中に出てきた時に子供が出来なく
なると。そういう話を村田さんなんかが言ったり
しているけれども、それは本当にそうなのかと。
もしそうならば、この世の中で子供が欲しいと
想っている人なんかが、そういう前世との
関わりなんかで、宿命なんかで、出来ないと
いうようなことになってしまうのかという質問が
あったと思いますが。
まあそこに入る前に、本当に今、子供で苦労
してるお母さんが多いですね。子供の気持ちが
分からなくなっちゃったとかね。それから、
これだけ手塩にかけて子供を育てて来たのに
裏切られちゃったとか。何十年育てて来たのに、
どうも何か価値観が異なっちゃって親子
でありながら何か意見が合わずに、気持ちが
合わずに悲しい切ない想いをしてるとかですね。
そういうことが随分私の耳に今も聞こえて
来ますね。昔から何かそれはあるようで。そういう
苦労というのはおそらく人間がこの世の中に
生きていく限り、絶えないんだろうなあと。
そういう苦労を何かの形でさせられ
るんだろうなあという気も致しますが。
そこで、前生にそう想わせられてこの世に
出てきた時に、その為に子供を持てなくなる
という人があるかというと、無いことはない、
あるんです。それはどういう人があるか
というと、例えば、子供に本当にひどい目に
あって、もう裏切られて裏切られて切ない
想いをして、もう子供なんてものはたくさんだ、
もう懲り懲りだ、とんでもないという想いが
出た時、守護霊さんや守護神さん、神様に、
神様もう子供は懲り懲りですと申し上げた
時に、向こうの世界では、やっぱり厳正な
審査がある訳です。ただその想いをそのまま
受けとって、ああそうかと子供が出来なくする
訳じゃないんです。その想いが、その人の我、
欲になってないかどうか。子供が出来なく
なったらいいというのは、これも欲の一つ
なんで、その欲になってないかどうかね。
いわゆる自分の気持ち感情そのままで
訴えてないかどうか。
そういうことじゃなくて、本当に人間として
辛くなって、これ以上肉体人間として、
子供と関わるということがとても辛いと、
生きてられない程辛いと。ただし、その時には
その人は、こういうことを想わなきゃいけない
訳ですね。想わせられる訳です。つまり、
子供を与えられることによって苦しみも
来るけれども、同時に、子供を与えられる
ことによって、喜びも慰めも励ましもね、色々な
ものが来る訳ですよ。
親が子を持つということはね。そういう望み、
希望も一切、将来にわたって私は放棄しますと、
要りませんと。子供の苦労は懲り懲りだけれども、
それ以外の苦労ならば私は喜んで致しますと。
そういう真実の気持ちからの訴えであるならば、
向こうの方で色々調べましてね。そして、これは
本当の心から出てる、これ程苦しんだのならば、
じゃあ次の世の中は、子供こそ与えない
けれども、違うところで人間を見つめ直させようと。
あるいは、人間の生命(いのち)について
勉強させ直しをしようということになって出て来る
訳なんですね。だから、例えば、我が儘でもって
この人の子供を欲しくないなんて想って産まない
とか、そういう次元で強く想って次の世の中に
という、そういうのじゃないんです。本当に辛い
想いをして、そこで、お願いします、ただし
違うことで役立てて下さいと言って、次の
世の中は違うことをやっていく。そういう人が
やはり何人かはいる訳ですね。
だけれども、そういう人達はどういう今度
生き方をするかというと、それは様々
ですけれども。例えば、夫婦の間で、他の
子供たちは可愛いのに、自分の御主人との
間の子供はどうしても産みたくないとか。
そういう風な想いになって出てくる。そして、
産みたくないという気持ちと同時に、あるいは
親になりたくない母親になりたくない、父親に
なりたくないという気持ちと同時に、子供が
無いことへの寂しさなり悲しみ、孤独、あるいは
葛藤ですね。そういうものを味わう。そういう
ことによって、子供の生命というもの、人間の
生命というものが何処から来るかとか、それが
無いことがどれ程大変なことかとか、そういう
ことをずっと考えさせられていく訳ですよね。
そういう形で、神様、守護霊さん守護神さん
というのは、やっぱり学ばせていくんですね。
そうかそうかで、そっちの方の苦労を
させないよと放りっぱなしにしない訳ね。決して
放りっぱなしにしませんね。
そして、もう一つ言っとかなきゃいけないのは、
我々は前生もあるし前々生もあるし、色々な
もう前々々生もあるんだけれども、霊界から
この世の中に親子になって降りて来る時に、
この人が親ですよ、あなたはこの両親の間に
生まれて来るんですよという時に、我々は
素直に向こうから来る時は、はいと言って、
そうだと想って降りて来る訳ね。で、それと
同時に記憶が消えるんですね。つまり、
そういう記憶があっちゃあ、この世の中で
光明体として神の器として生きていく、本当の
意味で修行していく為に、そういう記憶は
邪魔になってくる訳ですよ。色んなものが
あったら困る。だから、ごく少数の人を
のぞいてはね、前生に自分は何してたとか、
男であったとか女であったとか、色んな記憶を
消しちゃう。そうして、もちろん霊界からの
記憶も消しちゃう。
だから、我々というのは、何かこうやって
ここに移住してる時には、この今の家族と
両親と兄弟とか、妻とか子供とか夫とか、
そういう関わりの中で、会社にいったり、何か
商売したりとか、そういう今の関わりを絶対の
ものだと思って毎日を過ごしてゆくけれども、
しかし、本当はそうじゃない。ずっとその
積み重なりがあって、前の世の中で公務員
だった、前の世の中では武士だった。ずっと
ある訳ですよ。だけどそれを消しとかなかったら、
邪魔でしょうがないから消すけれど。本当の
こと言えば、この世の中だけの生命じゃないから、
例えば、この世の中で子供が授からないとしても、
それは前生がそうだったからというんじゃなくって、
そういう風に誓いをたてた人が、子供は授から
ないけれど、その代わりに考えさせられる。で、
その人は未来永劫子供が出来ないかというと、
そうではない。
生命というのは、ずっと私が申しております
ように、ずっと続いてまいりますから、その次の
世の中で、やっぱり子供というものはいいもんだな
というか、必要なもんだなと、人類にとってはね。
子供が出来なきゃ光が絶えてゆく訳ですよ。
我々は神の光の生命なんだからね。光の一筋
なんだから。その種が絶えるということは光の種が
絶えるということであって、光の種蒔が出来ない
ということなんですね。だから、人類が絶える
ということはあり得ないし、核戦争だとか色々不安は
あるけれども、皆が平和な方向へ平和な方向へと、
今イランやイラクでもそういう風な方向へ行くでしょう。
というのは、やっぱりこの人類の種を根絶やしに
しちゃあいけない。その根絶やしにしちゃあいけない
という想いの奥には、我々は神様の
分生命(わけいのち)の分霊(わけみたま)の神から
流れて来た生命なんだから、その大元の神様の
み心の、大愛一杯のその気持ちを根絶やしにする
なんてことはありえないし、又出来ないんです。
だから、その人類的な本能がね、結局それを
くい止めるというところへ働く訳ですよね。だから、
子供というものに対して、ただ単に自分の子供が
どうのこうのじゃなくて、人間にとって人類にとって
子供というものは要るんだなという学習を、その人は
その人の持ち場で、素直にあるいは苦しみながら
経験する。次の世の中で要らないと想って
生まれ変わって、子供について生命について
学習し終った時に、じゃああらためて、あなたの子供
としてこういう子供が産まれますよというのは、又
次の世の中で出て来る訳なんです。
だから、未来永劫ね、そういう誓いをたてた人に
子供は授からないかというと、そういう訳じゃない。
やはり生命は、その人の子孫は出てくる訳
なんですよ。
と同時にですね、この人間が生きていくという
ことの中には、様々な苦しみが伴なってく訳ですよ。
例えば、仕事にしろ家庭生活にしろ、結婚生活
にしろすべてのことについて、悩み苦しみがある訳
なんですよね。つまり、私が先っき申しましたように、
何故人類を根絶やしに出来ないかといったら、
神様の光の生命だから。それは事実根絶やしに
なりようがないし、又それはしちゃあ
いけないんです。でも、それは大目的だけれども、
例えば、私達が神様のことを語る時に、神様と
いうのは愛ですよという時にですね、何も苦労も
しない人が、何の挫折も悩みも味わって来ない人が、
神様は愛ですよと言ったって、説得力がありますか。
説得力ありませんよ。何にもありませんよ。
例えば、ここに10人、人がいるとしましょうかね。
10人いるとして、仕事がなくなって明日から
どうやって食べて行こうか、明日のお米を買うお金も
無いというところまで、追いつめられた人がいる
としますよ。
で、それを迎える神様のことを語る人が、順境で
育って来てね、物質も愛情も一杯受けて育って来た
その人が、そんなこと言ったって、神様は愛ですと
言ったって、説得力が無いことおびただしいじゃ
ありませんか。
だから、神様の愛というのは、人間の我々
一人一人の、人類一人一人の個性、性格、良い所
とか悪い所とかね、どういう所で苦しんで、どういう
生き方を送って、今何がこの人の悲しみなのか
というのは、皆知ってる訳なんです。知っていて、
それで抱きしめてね、今あなたがこれを欲しがってる
のはよく分かっている、だけど今はあげられない
けれどもといって、泣きながら光を送っている。
それが神様の愛なんですね。だから、そういう
神様の愛というのは生半のもんじゃなくてね。
その生半でない神様の愛を伝える、少なくとも
言葉にして伝える時には、何かその人の
人生の中でね、離婚なり別れ、お金が無いこと
だとか、子供を失なったとかね、死別の悲しみ
とか、色々なこの世の中の苦というものを
いくつかですよ、無いにこしたことはない
けれどもね、個人的に言えば、だけど神様の
愛を語る時には、やはり何か一つか二つか
この人生の山を越えて谷を越えて、そうして、
自分も塗炭の苦しみを味わってね、もうこんな
神様なんかあるかしらという所から這い上って
きて、それで尚かつ唇から出てきた言葉が、
それが神様という言葉だったと。ね、やっぱり
神様、私はあなたが忘れられませんと。そういう
経験をした人が神様を語る時にはね、やはり
説得力があるんです。ただ単に、ここにこう
書いてあります。白光のテキストにこう書いて
ありますから。それじゃあどうにもなりません。
テキストというのはやっぱりテキストなんです。
私は色々神様のことをやさしく説くというのは、
そのやさしくというのはね、話を難かしくする
ことは幾らでも出来るんです。だけど、子供からね、
70 80 90になるおじいちゃんおばあちゃんまで、
皆悲しみも苦しみも喜びも持ってますよ。そういう
心に持ってる人たちに神様の話をする時に、
神様の愛について語る時に、こちらのそういう
心の糧になるようなね、苦しみなどの財産の
一つや二つは、やっぱりなきゃうそなんですよ。
だからね、この世の中から、平和の祈りを
していれば苦しみがなくなってゆく筈なのに、
業は消えてゆく筈なのに、業というものは
消えていかない。何故なんだろう。業というのは
人間がつくるんです。業というのは神様が
つくるんじゃない。業というのは、この肉体を
かぶって生きざるを得ない、この地球世界で
生きざるを得ない肉体人間のね、痛みや辛さや
色々な想いですよね、そういうものから離れたい
と思って、把われないでおこうと思いながら、
つい深みにはまっちゃって、苦しいから助けて
という想いで神様を呼んだりする。それが呼べば
呼ぶ程、何か絡まっちゃって、どうにもならなく
なっている。
こっちから観ていると、みんな離れよう
離れようと思いながら神様を呼ぶんだけれども、
その苦の中に座り込んで、へたり込んでね、
はまり込んで、何か自分からその苦の中へ
入ってゆくような、離れたいと思いながら実は
しがみついてるような姿が、こっちから観ると
みえるんですよ。
そうではないんです。苦というのはやっぱり
離れていかなきゃいけないです。苦は
引き寄せちゃあいけないですよ。業も
引き寄せちゃあいけないんですよ。
非常に難かしいけれどもね。例えば、杖の話を
しましょうか。杖というのは、足を悪くした
人なんか良く分かると思いますけど。坂道や
自動車なんか来る時あぶないですよね。その
あぶないという時に皆杖にすがっちゃうんですよ。
すがると全体重をかけちゃって、それで余計に
転んで怪我してあぶなくなっちゃう。左足が
悪かったのに、余計に右足も悪くしたなんて話を
聞きますけど。これは何かというと、あぶない
と思ったら、その苦しみの渦からすっと
逃げちゃえばいいんです。柔道じゃないけど、
あっとその杖をはなして、その苦しみを離れて、
後ろ向きにひっくり返って、ちょっと離れりゃあ
いいんです。離れたら苦というのは、すっと抜いて、
そこへさっと光がさすんですよ。こっちも光を
むこうへ差し出しやすいんです。ところが
その時に、あっと想って、その杖にしがみ
ついちゃうでしょ。だから、苦をふっと
引き寄せるのと一緒でね。離れたい離れたい
と思いながら、皆さん観ていると、人間と
いうのは離れたいという想いは強いのに、
体の方は心の方は苦の方に引き寄せられて
しまっていて、業の中へ波の中へ自分を
引き寄せていってしまってる。それが観える。
だから、離れたいと思いながら離れられない
というのは、これは人間の習性ですから。私は
責めてるんじゃないんです。そういう想いが
あるというのは分かる。それが習慣になってる
というのは分かる。その習慣というのは、ずっと
続けてゆけばそれは業を引き寄せるんです。
それは、一回は想って、二回目はパッと
切り換えてね。そして、それを光の想いに
変えていく。それには何をすればいいか
というと、それは祈らなきゃ駄目です。祈って
祈ってね、この辛いなら辛い、苦しいなら
苦しいでかまいませんから、五井先生何とか
して下さい、何とかしろでもかまいません。
だからその時に、五井先生すいません、
離れたいと思いますのでよろしくお願い
しますと。すっと何か、ある空間をね、真空の
想いをパッとそこへつくってくれたら、
こっちだってさっと光を差し入れられるんです。
で結局ね、色んな所へ話がいってる
ようですが、つまり、そういう苦というものが、
やっぱり神様を語る時にはなきゃあ、そして、
神様の愛を色々な人にしみ渡らせる為には、
とってもじゃないけど、やはり説得力がなくなる
という話でしたね。しかし、それだけの為に苦を
味わうのかといったら、そうじゃない。その人の
魂が光り輝いていく為、その人の本心が
輝いていく為にもちろんそれは
あるんですけれどもね。
だから、子供が出来る出来ないという問題
にしたって、もう子供は要らないから次には
絶対中絶しても子供をつくらないようにすると。
例えばずっと念じたとしますよ。念じたとしたら、
先っきの、この人の子供を産みたくないという
話じゃないけれども、やっぱりその念
というものが次の世界の中に現われてきて、
それは業ですけどね。そうして、くり返しに
なるけれども、そこで人間の生命のことを考える、
色々なことを考えさせられる訳なんです。先っき
私は念と申しましたけど、前生で想い込んだ
念が通って、仮りに現れてきたとする。ところが、
守護霊さんとか守護神さんとかは、とても公平
なのでね。何が公平かというと、そういう念
すらもね、やはり利用するんです。何に利用
するかというと、何によって人間が生きてるのか
生かされているのか。我々の生命が何処から
来たのか。我々は何処へ連れていかれるのか。
ね、どうしたって、神様というのは悪くしっこ
ないんです。ね、最後には明るい所へ絶対
連れていく訳なのね。
ところが、色々なことがあって、今苦しい所に
いるとか、悲しい所にいるとか、色々なことが
あるんですがね。その時に、自分の想いの
切り換えをする。皆が離れたいと思いながら、そ
の苦の中に業の中に枠をつくって、その中へ
入り込むんじゃなくって、あ、これは消えてゆく姿
なんだなということを想って、ありがとうございます
と言えなくてもかまいません。五井先生と呼んで
下すったらいいんです。そこで、世界人類が
平和でありますようにと出来なくてもかまわない。
出来る人はしてもいいけどね。そういう風にして
呼んで下さればいいんです。
ついでに言うと、その祈りの中で、過去世の
誤まてる想念がとありましょ。あの消えてゆく姿
というのも、我々の方から言いますとね、
深いところを一つ言うとね、この現われの今
あなた方が生きてる世界の中で、色んな
現実的な悩みや苦をとる、軽くしていく消していく、
消えてゆく姿もあるけれども、その現われが
前生の念で現象界に出てきたとするならば、
その過去世にさかのぼって、その念も消していく
というのがあるんですよ。だから、人間の生命の
本体のね、本心の洗い浄めといいますかね、
掃除といいましょうかね。ずっとさかのぼって、
何十世代何百世代にもわたる、何十代何百代にも
わたる生き通しの生命の掃除をする訳です。
それぞれのですよ。それが神様の愛なんですよ。
もちろん、今の生活が安楽である方がいいし、
平和である方がいいし、皆と仲良く出来る方が
いいに決まってます。ね、だけども、神様の愛
というのは、その毎日の積み重ねも大事に思って
下さるけれども、それを通して、遠い将来ね、我々が
死んで又生き返って、その時には今のような記憶は
ないかも分からないけれども、その遠い遠いところ
にまで、遙か彼方にまでつながっていく連らなって
いく永遠の生命というものに対する、永世
というものに対する祝福と喜びと、魂の浄めと、
そういうものを神様が下さるんですよね。そういう
神様の愛なんです。
だから、子供が出来る出来ないというのはね、
前生で想い込んだから、子供は絶対に出て
こないかというと、そうじゃない。ある選ばれた
特定の人だけがね、真実私は子供の苦労は
けっこうです、もうこれ以上すると肉体が
バラバラになりそうです。だけども、他のことならば
どんなことでも致しますと。肉体がそう
叫ばなくったって、霊体の方でそう悟っちゃって、
神様の方に訴えて駆け込んで、駆け込み寺
みたいに駆け込んで、守護霊さんと守護神さんが
神界でお願いしたとしたら、やっぱり、そういう
一生をその次の生で送らせて下さるかも
分からない。だけども、先程も申しましたように、
じゃあその人の生命がずっと連らなって、何生も
未来永劫子供が持てないかというとそうでは
ないんです。やっぱり持ててゆく。
子供だけではない、人類というものの生命の
根っこを見つめていく時に、光そのものに
なっていく、我々のその生命の根元なんだ
ということまで悟った時にですね、念の世界
ではない、祈りの世界になっていって、自分の
心の内を浄める。そうして、その想いがまわりを
浄めていく。その事が一番、世界平和の中で
大事になっていくし、自分の持ち場持ち場で
そんな大きなこと思わなくったって、自分の
明るい運命といいますか、明るいこの生命を
呼ぶ為のものになっていく訳なんです。
呼ばなきゃ駄目なんですよ。そして、信じなきゃ
駄目なんです。任せなきゃ駄目なんです。
神様これ何とかして下さいというのは
分かりますよ。私も人間だったんだからね。
だけども、何とかして下さい、苦しくって
たまりませんというのをね、もう本当に
大変だろうけれども、その想いを出来るだけ
短くしてね、すいません私はもう
考えられません。考えられませんから、
守護霊さん守護神さん神様よろしく、五井先生
よろしくお願いしますと言って、もう
想えなきゃあ、それだけを想ってスイッチを
切り換えて下さいな。そうでないと、
こちら側はね、この人とこの人をこういう風に
くっつけて、あるいは別れさせてとか、ね、
まあこれは冗談だけども、この辺でこうい
う商売をさせてとか、こういうコースを歩ませて
とか、守護霊さん守護神さんとね、我々の方で
ちゃんとそのコースをね、神様の方で決定
しているのに、何かその辺でぐっと
すがられちゃってね、すがるのは悪い
というんじゃないんですよ。すがって下すって
いいんだけど、そのどうしょうもない苦という
ものに入り込んじゃって、そこではまり込んで、
そこから声を出してしまわれるとね、せっかく
浄めて、もう半年したらこの苦が終わるなとか、
ああもう三ヶ月したらと、刑務者じゃ
ないんだけどさ、そういう期間の短い長いが
あって、その短いのが、段々人間の方で
我でくっついてね、何故だろうとか、どうして
こうならないんだろうとか、私はどうして
こうなんだろうとか、何でこれがうまく
いかないんだろうと。ずっとその中にいると、
それは我の把われなんですよね。だから、
その把われを、辛いけれども私は把われてます、
だからよろしくお願いしますと言ってしまって、
さっと杖じゃないけれども、その場からちょっと
身を引いて、神様の方へ五井先生の方へ、
五井先生と言ってくれていいですよ。そうしたら、
あなた自身がどんなに悩んでいようとも、その時
あなたは光になって、光明の中へすっと
入っちゃうんだから。
光に対して闇は勝たないんです。そういう訳で、
我々はすうっと光を通しやすい。光を通す
ということは、あなた達の運命修正を
しやすいんです。だから、あなた達がくよくよ
考えてね、どうにかして下さい。もう
どうなるんだろう。もうそういう嘆きがね、本当に
沢山の人のが聞こえて来るけど、やっぱり
それはね、祈れば何とかなる。ご利益みたい
だけれど、そうではなくて、本当に真実に
預けて祈っていったら、自分が光になっちゃって、
そうして、本当に真実の一本のね、光り輝く
光体になって、人連らなりの生命になるんです。
光明体になるんです。だから、その事だけを
素直に無邪気に信じて、そうして、何もかもね、
五井先生に文句もいう。文句を言うけども任せも
するという生活をしていただいたらね、そうしたら
皆が平和になっていくし、子供が出来る出来ない
という問題も、ただ単に念だけの問題じゃない。
念すらも神様はちゃんとあずかって、それを
いいように消して下さる。前の前の世の中の分
まで消して下さる。そして、未来に向かって
いいようにして下さる。ということをあなた方は
覚えて、ちゃんと記憶をして、その上で、素直に
無邪気に祈っていただければと思います。
昭和63年7月22日
前生で想ってしまって、そこで生命を終えると、
この世の中に出てきた時に子供が出来なく
なると。そういう話を村田さんなんかが言ったり
しているけれども、それは本当にそうなのかと。
もしそうならば、この世の中で子供が欲しいと
想っている人なんかが、そういう前世との
関わりなんかで、宿命なんかで、出来ないと
いうようなことになってしまうのかという質問が
あったと思いますが。
まあそこに入る前に、本当に今、子供で苦労
してるお母さんが多いですね。子供の気持ちが
分からなくなっちゃったとかね。それから、
これだけ手塩にかけて子供を育てて来たのに
裏切られちゃったとか。何十年育てて来たのに、
どうも何か価値観が異なっちゃって親子
でありながら何か意見が合わずに、気持ちが
合わずに悲しい切ない想いをしてるとかですね。
そういうことが随分私の耳に今も聞こえて
来ますね。昔から何かそれはあるようで。そういう
苦労というのはおそらく人間がこの世の中に
生きていく限り、絶えないんだろうなあと。
そういう苦労を何かの形でさせられ
るんだろうなあという気も致しますが。
そこで、前生にそう想わせられてこの世に
出てきた時に、その為に子供を持てなくなる
という人があるかというと、無いことはない、
あるんです。それはどういう人があるか
というと、例えば、子供に本当にひどい目に
あって、もう裏切られて裏切られて切ない
想いをして、もう子供なんてものはたくさんだ、
もう懲り懲りだ、とんでもないという想いが
出た時、守護霊さんや守護神さん、神様に、
神様もう子供は懲り懲りですと申し上げた
時に、向こうの世界では、やっぱり厳正な
審査がある訳です。ただその想いをそのまま
受けとって、ああそうかと子供が出来なくする
訳じゃないんです。その想いが、その人の我、
欲になってないかどうか。子供が出来なく
なったらいいというのは、これも欲の一つ
なんで、その欲になってないかどうかね。
いわゆる自分の気持ち感情そのままで
訴えてないかどうか。
そういうことじゃなくて、本当に人間として
辛くなって、これ以上肉体人間として、
子供と関わるということがとても辛いと、
生きてられない程辛いと。ただし、その時には
その人は、こういうことを想わなきゃいけない
訳ですね。想わせられる訳です。つまり、
子供を与えられることによって苦しみも
来るけれども、同時に、子供を与えられる
ことによって、喜びも慰めも励ましもね、色々な
ものが来る訳ですよ。
親が子を持つということはね。そういう望み、
希望も一切、将来にわたって私は放棄しますと、
要りませんと。子供の苦労は懲り懲りだけれども、
それ以外の苦労ならば私は喜んで致しますと。
そういう真実の気持ちからの訴えであるならば、
向こうの方で色々調べましてね。そして、これは
本当の心から出てる、これ程苦しんだのならば、
じゃあ次の世の中は、子供こそ与えない
けれども、違うところで人間を見つめ直させようと。
あるいは、人間の生命(いのち)について
勉強させ直しをしようということになって出て来る
訳なんですね。だから、例えば、我が儘でもって
この人の子供を欲しくないなんて想って産まない
とか、そういう次元で強く想って次の世の中に
という、そういうのじゃないんです。本当に辛い
想いをして、そこで、お願いします、ただし
違うことで役立てて下さいと言って、次の
世の中は違うことをやっていく。そういう人が
やはり何人かはいる訳ですね。
だけれども、そういう人達はどういう今度
生き方をするかというと、それは様々
ですけれども。例えば、夫婦の間で、他の
子供たちは可愛いのに、自分の御主人との
間の子供はどうしても産みたくないとか。
そういう風な想いになって出てくる。そして、
産みたくないという気持ちと同時に、あるいは
親になりたくない母親になりたくない、父親に
なりたくないという気持ちと同時に、子供が
無いことへの寂しさなり悲しみ、孤独、あるいは
葛藤ですね。そういうものを味わう。そういう
ことによって、子供の生命というもの、人間の
生命というものが何処から来るかとか、それが
無いことがどれ程大変なことかとか、そういう
ことをずっと考えさせられていく訳ですよね。
そういう形で、神様、守護霊さん守護神さん
というのは、やっぱり学ばせていくんですね。
そうかそうかで、そっちの方の苦労を
させないよと放りっぱなしにしない訳ね。決して
放りっぱなしにしませんね。
そして、もう一つ言っとかなきゃいけないのは、
我々は前生もあるし前々生もあるし、色々な
もう前々々生もあるんだけれども、霊界から
この世の中に親子になって降りて来る時に、
この人が親ですよ、あなたはこの両親の間に
生まれて来るんですよという時に、我々は
素直に向こうから来る時は、はいと言って、
そうだと想って降りて来る訳ね。で、それと
同時に記憶が消えるんですね。つまり、
そういう記憶があっちゃあ、この世の中で
光明体として神の器として生きていく、本当の
意味で修行していく為に、そういう記憶は
邪魔になってくる訳ですよ。色んなものが
あったら困る。だから、ごく少数の人を
のぞいてはね、前生に自分は何してたとか、
男であったとか女であったとか、色んな記憶を
消しちゃう。そうして、もちろん霊界からの
記憶も消しちゃう。
だから、我々というのは、何かこうやって
ここに移住してる時には、この今の家族と
両親と兄弟とか、妻とか子供とか夫とか、
そういう関わりの中で、会社にいったり、何か
商売したりとか、そういう今の関わりを絶対の
ものだと思って毎日を過ごしてゆくけれども、
しかし、本当はそうじゃない。ずっとその
積み重なりがあって、前の世の中で公務員
だった、前の世の中では武士だった。ずっと
ある訳ですよ。だけどそれを消しとかなかったら、
邪魔でしょうがないから消すけれど。本当の
こと言えば、この世の中だけの生命じゃないから、
例えば、この世の中で子供が授からないとしても、
それは前生がそうだったからというんじゃなくって、
そういう風に誓いをたてた人が、子供は授から
ないけれど、その代わりに考えさせられる。で、
その人は未来永劫子供が出来ないかというと、
そうではない。
生命というのは、ずっと私が申しております
ように、ずっと続いてまいりますから、その次の
世の中で、やっぱり子供というものはいいもんだな
というか、必要なもんだなと、人類にとってはね。
子供が出来なきゃ光が絶えてゆく訳ですよ。
我々は神の光の生命なんだからね。光の一筋
なんだから。その種が絶えるということは光の種が
絶えるということであって、光の種蒔が出来ない
ということなんですね。だから、人類が絶える
ということはあり得ないし、核戦争だとか色々不安は
あるけれども、皆が平和な方向へ平和な方向へと、
今イランやイラクでもそういう風な方向へ行くでしょう。
というのは、やっぱりこの人類の種を根絶やしに
しちゃあいけない。その根絶やしにしちゃあいけない
という想いの奥には、我々は神様の
分生命(わけいのち)の分霊(わけみたま)の神から
流れて来た生命なんだから、その大元の神様の
み心の、大愛一杯のその気持ちを根絶やしにする
なんてことはありえないし、又出来ないんです。
だから、その人類的な本能がね、結局それを
くい止めるというところへ働く訳ですよね。だから、
子供というものに対して、ただ単に自分の子供が
どうのこうのじゃなくて、人間にとって人類にとって
子供というものは要るんだなという学習を、その人は
その人の持ち場で、素直にあるいは苦しみながら
経験する。次の世の中で要らないと想って
生まれ変わって、子供について生命について
学習し終った時に、じゃああらためて、あなたの子供
としてこういう子供が産まれますよというのは、又
次の世の中で出て来る訳なんです。
だから、未来永劫ね、そういう誓いをたてた人に
子供は授からないかというと、そういう訳じゃない。
やはり生命は、その人の子孫は出てくる訳
なんですよ。
と同時にですね、この人間が生きていくという
ことの中には、様々な苦しみが伴なってく訳ですよ。
例えば、仕事にしろ家庭生活にしろ、結婚生活
にしろすべてのことについて、悩み苦しみがある訳
なんですよね。つまり、私が先っき申しましたように、
何故人類を根絶やしに出来ないかといったら、
神様の光の生命だから。それは事実根絶やしに
なりようがないし、又それはしちゃあ
いけないんです。でも、それは大目的だけれども、
例えば、私達が神様のことを語る時に、神様と
いうのは愛ですよという時にですね、何も苦労も
しない人が、何の挫折も悩みも味わって来ない人が、
神様は愛ですよと言ったって、説得力がありますか。
説得力ありませんよ。何にもありませんよ。
例えば、ここに10人、人がいるとしましょうかね。
10人いるとして、仕事がなくなって明日から
どうやって食べて行こうか、明日のお米を買うお金も
無いというところまで、追いつめられた人がいる
としますよ。
で、それを迎える神様のことを語る人が、順境で
育って来てね、物質も愛情も一杯受けて育って来た
その人が、そんなこと言ったって、神様は愛ですと
言ったって、説得力が無いことおびただしいじゃ
ありませんか。
だから、神様の愛というのは、人間の我々
一人一人の、人類一人一人の個性、性格、良い所
とか悪い所とかね、どういう所で苦しんで、どういう
生き方を送って、今何がこの人の悲しみなのか
というのは、皆知ってる訳なんです。知っていて、
それで抱きしめてね、今あなたがこれを欲しがってる
のはよく分かっている、だけど今はあげられない
けれどもといって、泣きながら光を送っている。
それが神様の愛なんですね。だから、そういう
神様の愛というのは生半のもんじゃなくてね。
その生半でない神様の愛を伝える、少なくとも
言葉にして伝える時には、何かその人の
人生の中でね、離婚なり別れ、お金が無いこと
だとか、子供を失なったとかね、死別の悲しみ
とか、色々なこの世の中の苦というものを
いくつかですよ、無いにこしたことはない
けれどもね、個人的に言えば、だけど神様の
愛を語る時には、やはり何か一つか二つか
この人生の山を越えて谷を越えて、そうして、
自分も塗炭の苦しみを味わってね、もうこんな
神様なんかあるかしらという所から這い上って
きて、それで尚かつ唇から出てきた言葉が、
それが神様という言葉だったと。ね、やっぱり
神様、私はあなたが忘れられませんと。そういう
経験をした人が神様を語る時にはね、やはり
説得力があるんです。ただ単に、ここにこう
書いてあります。白光のテキストにこう書いて
ありますから。それじゃあどうにもなりません。
テキストというのはやっぱりテキストなんです。
私は色々神様のことをやさしく説くというのは、
そのやさしくというのはね、話を難かしくする
ことは幾らでも出来るんです。だけど、子供からね、
70 80 90になるおじいちゃんおばあちゃんまで、
皆悲しみも苦しみも喜びも持ってますよ。そういう
心に持ってる人たちに神様の話をする時に、
神様の愛について語る時に、こちらのそういう
心の糧になるようなね、苦しみなどの財産の
一つや二つは、やっぱりなきゃうそなんですよ。
だからね、この世の中から、平和の祈りを
していれば苦しみがなくなってゆく筈なのに、
業は消えてゆく筈なのに、業というものは
消えていかない。何故なんだろう。業というのは
人間がつくるんです。業というのは神様が
つくるんじゃない。業というのは、この肉体を
かぶって生きざるを得ない、この地球世界で
生きざるを得ない肉体人間のね、痛みや辛さや
色々な想いですよね、そういうものから離れたい
と思って、把われないでおこうと思いながら、
つい深みにはまっちゃって、苦しいから助けて
という想いで神様を呼んだりする。それが呼べば
呼ぶ程、何か絡まっちゃって、どうにもならなく
なっている。
こっちから観ていると、みんな離れよう
離れようと思いながら神様を呼ぶんだけれども、
その苦の中に座り込んで、へたり込んでね、
はまり込んで、何か自分からその苦の中へ
入ってゆくような、離れたいと思いながら実は
しがみついてるような姿が、こっちから観ると
みえるんですよ。
そうではないんです。苦というのはやっぱり
離れていかなきゃいけないです。苦は
引き寄せちゃあいけないですよ。業も
引き寄せちゃあいけないんですよ。
非常に難かしいけれどもね。例えば、杖の話を
しましょうか。杖というのは、足を悪くした
人なんか良く分かると思いますけど。坂道や
自動車なんか来る時あぶないですよね。その
あぶないという時に皆杖にすがっちゃうんですよ。
すがると全体重をかけちゃって、それで余計に
転んで怪我してあぶなくなっちゃう。左足が
悪かったのに、余計に右足も悪くしたなんて話を
聞きますけど。これは何かというと、あぶない
と思ったら、その苦しみの渦からすっと
逃げちゃえばいいんです。柔道じゃないけど、
あっとその杖をはなして、その苦しみを離れて、
後ろ向きにひっくり返って、ちょっと離れりゃあ
いいんです。離れたら苦というのは、すっと抜いて、
そこへさっと光がさすんですよ。こっちも光を
むこうへ差し出しやすいんです。ところが
その時に、あっと想って、その杖にしがみ
ついちゃうでしょ。だから、苦をふっと
引き寄せるのと一緒でね。離れたい離れたい
と思いながら、皆さん観ていると、人間と
いうのは離れたいという想いは強いのに、
体の方は心の方は苦の方に引き寄せられて
しまっていて、業の中へ波の中へ自分を
引き寄せていってしまってる。それが観える。
だから、離れたいと思いながら離れられない
というのは、これは人間の習性ですから。私は
責めてるんじゃないんです。そういう想いが
あるというのは分かる。それが習慣になってる
というのは分かる。その習慣というのは、ずっと
続けてゆけばそれは業を引き寄せるんです。
それは、一回は想って、二回目はパッと
切り換えてね。そして、それを光の想いに
変えていく。それには何をすればいいか
というと、それは祈らなきゃ駄目です。祈って
祈ってね、この辛いなら辛い、苦しいなら
苦しいでかまいませんから、五井先生何とか
して下さい、何とかしろでもかまいません。
だからその時に、五井先生すいません、
離れたいと思いますのでよろしくお願い
しますと。すっと何か、ある空間をね、真空の
想いをパッとそこへつくってくれたら、
こっちだってさっと光を差し入れられるんです。
で結局ね、色んな所へ話がいってる
ようですが、つまり、そういう苦というものが、
やっぱり神様を語る時にはなきゃあ、そして、
神様の愛を色々な人にしみ渡らせる為には、
とってもじゃないけど、やはり説得力がなくなる
という話でしたね。しかし、それだけの為に苦を
味わうのかといったら、そうじゃない。その人の
魂が光り輝いていく為、その人の本心が
輝いていく為にもちろんそれは
あるんですけれどもね。
だから、子供が出来る出来ないという問題
にしたって、もう子供は要らないから次には
絶対中絶しても子供をつくらないようにすると。
例えばずっと念じたとしますよ。念じたとしたら、
先っきの、この人の子供を産みたくないという
話じゃないけれども、やっぱりその念
というものが次の世界の中に現われてきて、
それは業ですけどね。そうして、くり返しに
なるけれども、そこで人間の生命のことを考える、
色々なことを考えさせられる訳なんです。先っき
私は念と申しましたけど、前生で想い込んだ
念が通って、仮りに現れてきたとする。ところが、
守護霊さんとか守護神さんとかは、とても公平
なのでね。何が公平かというと、そういう念
すらもね、やはり利用するんです。何に利用
するかというと、何によって人間が生きてるのか
生かされているのか。我々の生命が何処から
来たのか。我々は何処へ連れていかれるのか。
ね、どうしたって、神様というのは悪くしっこ
ないんです。ね、最後には明るい所へ絶対
連れていく訳なのね。
ところが、色々なことがあって、今苦しい所に
いるとか、悲しい所にいるとか、色々なことが
あるんですがね。その時に、自分の想いの
切り換えをする。皆が離れたいと思いながら、そ
の苦の中に業の中に枠をつくって、その中へ
入り込むんじゃなくって、あ、これは消えてゆく姿
なんだなということを想って、ありがとうございます
と言えなくてもかまいません。五井先生と呼んで
下すったらいいんです。そこで、世界人類が
平和でありますようにと出来なくてもかまわない。
出来る人はしてもいいけどね。そういう風にして
呼んで下さればいいんです。
ついでに言うと、その祈りの中で、過去世の
誤まてる想念がとありましょ。あの消えてゆく姿
というのも、我々の方から言いますとね、
深いところを一つ言うとね、この現われの今
あなた方が生きてる世界の中で、色んな
現実的な悩みや苦をとる、軽くしていく消していく、
消えてゆく姿もあるけれども、その現われが
前生の念で現象界に出てきたとするならば、
その過去世にさかのぼって、その念も消していく
というのがあるんですよ。だから、人間の生命の
本体のね、本心の洗い浄めといいますかね、
掃除といいましょうかね。ずっとさかのぼって、
何十世代何百世代にもわたる、何十代何百代にも
わたる生き通しの生命の掃除をする訳です。
それぞれのですよ。それが神様の愛なんですよ。
もちろん、今の生活が安楽である方がいいし、
平和である方がいいし、皆と仲良く出来る方が
いいに決まってます。ね、だけども、神様の愛
というのは、その毎日の積み重ねも大事に思って
下さるけれども、それを通して、遠い将来ね、我々が
死んで又生き返って、その時には今のような記憶は
ないかも分からないけれども、その遠い遠いところ
にまで、遙か彼方にまでつながっていく連らなって
いく永遠の生命というものに対する、永世
というものに対する祝福と喜びと、魂の浄めと、
そういうものを神様が下さるんですよね。そういう
神様の愛なんです。
だから、子供が出来る出来ないというのはね、
前生で想い込んだから、子供は絶対に出て
こないかというと、そうじゃない。ある選ばれた
特定の人だけがね、真実私は子供の苦労は
けっこうです、もうこれ以上すると肉体が
バラバラになりそうです。だけども、他のことならば
どんなことでも致しますと。肉体がそう
叫ばなくったって、霊体の方でそう悟っちゃって、
神様の方に訴えて駆け込んで、駆け込み寺
みたいに駆け込んで、守護霊さんと守護神さんが
神界でお願いしたとしたら、やっぱり、そういう
一生をその次の生で送らせて下さるかも
分からない。だけども、先程も申しましたように、
じゃあその人の生命がずっと連らなって、何生も
未来永劫子供が持てないかというとそうでは
ないんです。やっぱり持ててゆく。
子供だけではない、人類というものの生命の
根っこを見つめていく時に、光そのものに
なっていく、我々のその生命の根元なんだ
ということまで悟った時にですね、念の世界
ではない、祈りの世界になっていって、自分の
心の内を浄める。そうして、その想いがまわりを
浄めていく。その事が一番、世界平和の中で
大事になっていくし、自分の持ち場持ち場で
そんな大きなこと思わなくったって、自分の
明るい運命といいますか、明るいこの生命を
呼ぶ為のものになっていく訳なんです。
呼ばなきゃ駄目なんですよ。そして、信じなきゃ
駄目なんです。任せなきゃ駄目なんです。
神様これ何とかして下さいというのは
分かりますよ。私も人間だったんだからね。
だけども、何とかして下さい、苦しくって
たまりませんというのをね、もう本当に
大変だろうけれども、その想いを出来るだけ
短くしてね、すいません私はもう
考えられません。考えられませんから、
守護霊さん守護神さん神様よろしく、五井先生
よろしくお願いしますと言って、もう
想えなきゃあ、それだけを想ってスイッチを
切り換えて下さいな。そうでないと、
こちら側はね、この人とこの人をこういう風に
くっつけて、あるいは別れさせてとか、ね、
まあこれは冗談だけども、この辺でこうい
う商売をさせてとか、こういうコースを歩ませて
とか、守護霊さん守護神さんとね、我々の方で
ちゃんとそのコースをね、神様の方で決定
しているのに、何かその辺でぐっと
すがられちゃってね、すがるのは悪い
というんじゃないんですよ。すがって下すって
いいんだけど、そのどうしょうもない苦という
ものに入り込んじゃって、そこではまり込んで、
そこから声を出してしまわれるとね、せっかく
浄めて、もう半年したらこの苦が終わるなとか、
ああもう三ヶ月したらと、刑務者じゃ
ないんだけどさ、そういう期間の短い長いが
あって、その短いのが、段々人間の方で
我でくっついてね、何故だろうとか、どうして
こうならないんだろうとか、私はどうして
こうなんだろうとか、何でこれがうまく
いかないんだろうと。ずっとその中にいると、
それは我の把われなんですよね。だから、
その把われを、辛いけれども私は把われてます、
だからよろしくお願いしますと言ってしまって、
さっと杖じゃないけれども、その場からちょっと
身を引いて、神様の方へ五井先生の方へ、
五井先生と言ってくれていいですよ。そうしたら、
あなた自身がどんなに悩んでいようとも、その時
あなたは光になって、光明の中へすっと
入っちゃうんだから。
光に対して闇は勝たないんです。そういう訳で、
我々はすうっと光を通しやすい。光を通す
ということは、あなた達の運命修正を
しやすいんです。だから、あなた達がくよくよ
考えてね、どうにかして下さい。もう
どうなるんだろう。もうそういう嘆きがね、本当に
沢山の人のが聞こえて来るけど、やっぱり
それはね、祈れば何とかなる。ご利益みたい
だけれど、そうではなくて、本当に真実に
預けて祈っていったら、自分が光になっちゃって、
そうして、本当に真実の一本のね、光り輝く
光体になって、人連らなりの生命になるんです。
光明体になるんです。だから、その事だけを
素直に無邪気に信じて、そうして、何もかもね、
五井先生に文句もいう。文句を言うけども任せも
するという生活をしていただいたらね、そうしたら
皆が平和になっていくし、子供が出来る出来ない
という問題も、ただ単に念だけの問題じゃない。
念すらも神様はちゃんとあずかって、それを
いいように消して下さる。前の前の世の中の分
まで消して下さる。そして、未来に向かって
いいようにして下さる。ということをあなた方は
覚えて、ちゃんと記憶をして、その上で、素直に
無邪気に祈っていただければと思います。
昭和63年7月22日