(前日からの続き)
人間というものは人類というものはあるいは魂
というものは進化をせずにはおかないもの
であります。
何故かというと、完全な平和とか完全な調和とか
あるいは完全な愛にむかって進まないでは
いられない、そういう性質を我々の本体
というのはもっておりまして、あの霊光写真の
中に現れているああいう真白な何の障りもない、
あの光そのものになるための、なりきるための
祈りというものを、我々の本体というものは
欲している訳であります。
そのためにいろいろなものが、うちの会で
あるならば、平和行進があり世界平和の祈りが
ありピースセレモニーがあったり、ピースポール
を建てたりという行事がある訳であります。
ただし、その行事そのものも、ただ
ピースポールが建てられればいい、ただ
セレモニーをやればいい、ただ祈りの会をすれば
いい、何回行進をやった先生を呼んだというのは
目的ではありません。
それを通して、自分の中の魂の芽が幾分かでも
発芽をして、そうして自分の中の魂が浄められて
いくような、そういう実感を味わう、祈りを深く
するということがなければ何にもならないので
あります。
それでなければ、それはただ単に形の世界に
とどまることでありまして、これは、進化とも
何ともなっていかないものなのであります。
(翌日に続く)
人間というものは人類というものはあるいは魂
というものは進化をせずにはおかないもの
であります。
何故かというと、完全な平和とか完全な調和とか
あるいは完全な愛にむかって進まないでは
いられない、そういう性質を我々の本体
というのはもっておりまして、あの霊光写真の
中に現れているああいう真白な何の障りもない、
あの光そのものになるための、なりきるための
祈りというものを、我々の本体というものは
欲している訳であります。
そのためにいろいろなものが、うちの会で
あるならば、平和行進があり世界平和の祈りが
ありピースセレモニーがあったり、ピースポール
を建てたりという行事がある訳であります。
ただし、その行事そのものも、ただ
ピースポールが建てられればいい、ただ
セレモニーをやればいい、ただ祈りの会をすれば
いい、何回行進をやった先生を呼んだというのは
目的ではありません。
それを通して、自分の中の魂の芽が幾分かでも
発芽をして、そうして自分の中の魂が浄められて
いくような、そういう実感を味わう、祈りを深く
するということがなければ何にもならないので
あります。
それでなければ、それはただ単に形の世界に
とどまることでありまして、これは、進化とも
何ともなっていかないものなのであります。
(翌日に続く)