(前日からの続き)
この神様の方からくるエネルギーだという
ことをわきまえておりませんと、非常に
想い違いをしてしまう。
想いを軽くするとか想いが沈んでいく重く
なるというのは、これは自分の中にある
人間の我、ここで想いという言葉を使って
しまうとその想いという言葉で皆
雁字搦(がんじがら)めになって何が何だか
わからなくなってしまいますから、ここでは
我という言葉を使いますが、その我の方へ
引っぱられた想いに皆今なっている訳
であります。
ところが、もともとの想いというのは
どういう想いであったかというと、人間
生まれた時のその瞬間というのは、むこうから
こちらへ出て来た時の瞬間の想いというのは
真白なんです。
その真白の想いというのは神様のふところから
入って出て来たその想いでありますから、
本当にこれは無垢の、純粋無垢の想いで、
このまま大きくなってゆけば、その人から
出てくる想いも言葉もこれは光そのものの
想いで、あるいは、何をやっても光明化
されていく想いになっていく訳で
ありますけれども、人間の生活の中に
我というものがありますから、肉体という
ものを纏ってしまったその想い癖という
ものがありまして、その我の生活の中から
出てくる言葉なり想いなりというものが
年々不自由さを、実は纏わせていくもの
なんであります。
(つづく)
この神様の方からくるエネルギーだという
ことをわきまえておりませんと、非常に
想い違いをしてしまう。
想いを軽くするとか想いが沈んでいく重く
なるというのは、これは自分の中にある
人間の我、ここで想いという言葉を使って
しまうとその想いという言葉で皆
雁字搦(がんじがら)めになって何が何だか
わからなくなってしまいますから、ここでは
我という言葉を使いますが、その我の方へ
引っぱられた想いに皆今なっている訳
であります。
ところが、もともとの想いというのは
どういう想いであったかというと、人間
生まれた時のその瞬間というのは、むこうから
こちらへ出て来た時の瞬間の想いというのは
真白なんです。
その真白の想いというのは神様のふところから
入って出て来たその想いでありますから、
本当にこれは無垢の、純粋無垢の想いで、
このまま大きくなってゆけば、その人から
出てくる想いも言葉もこれは光そのものの
想いで、あるいは、何をやっても光明化
されていく想いになっていく訳で
ありますけれども、人間の生活の中に
我というものがありますから、肉体という
ものを纏ってしまったその想い癖という
ものがありまして、その我の生活の中から
出てくる言葉なり想いなりというものが
年々不自由さを、実は纏わせていくもの
なんであります。
(つづく)