(前日からの続き)
闇というものはないんです。
本質的に言えば。
本来の世界から言えばね。
だけど、闇と見えるものはいっぱい
あるんですよ。
その闇と見えるものを闇だと
おもい間違えてね、とらえ間違えて、
そこへ引っかかっちゃうと、苦しくって
苦しくってしょうがなくなる。
例えば、痛みがくる、痛みが辛い、もう
本当に痛みが辛いという時に、その
辛い辛いつらいで辛いにひっかかってるとね、
その痛みそのものがずっと続いていきますよ。
頭の中から心の中から離れないから、
あるいは、体から離れないように自分で
ぐっとおもっちゃってるから。
ところが、痛みの最中でも、誰かから
電話がかかってくるとか、何かしなきゃ
なんないことがあるとか、何かそういう
ことがあると、何分間かでもその痛みを
忘れているということがありましょう。
あら痛みが消えてる、何故か。
その時に、そういう仕事を通して守護の
神霊がね、後ろで、痛みどころじゃない、
何かそういうものがあるんだよという
ことを皆さんに知らせるんですよ。
皆さんだって、そういう意味で、祈りじゃ
なくったってちゃんと統一できるんですよ。
そういう体を持っているんです。
肉体というものは業がとっつきやすい
かもしれないけれども、本来の皆さんの
心だって本心だって体だってね、痛み
とか業とか把われとか、そういうものが
寄りつきっこない体になってるんです。
人間の体というものはそういうもんなん
ですね。
本当の自分自身に返すためにお浄め
するんだということですよね。
五井先生なんかは、もう私もあなたも
ないし。
私はね、本にも書いたけれど、いろんな
人が来ますよ。
そして、ひどいのになると、先生、受験を
受からして下さいとかね、いろいろ
ありますって。
そういう人のいろんな想いをお浄め
する時に、何とお浄めするか、一つしかない。
この人の天命が完うされますようにしか
ないんです。
それによってそりゃあ運命修正して
ゆきますよ。
それによって叶えられることがある。
斉藤さんだってさ、巡講した時に、
斉藤さんの話を聞いただけで足の
痛みが治りました、入院してたのに
退院できました、とでてくる。
それで斉藤さんは、何かあの先生が
来ると奇跡が来るとか言われて困ってさ、
私にこぼしたことがあるけれども、そういう
ことじゃないんです。
本当はね。
それは、ちゃんと喜びを分け与えるん
だけれども、そういうことじゃなくって、
斉藤さんなら斉藤さんが、村田さんなら
村田さんが、高橋君なら高橋君がね、
無になって、そうして神様の言葉を
しゃべってる時に、本当に自分という
ものを忘れて、神様だけのおもいで
一杯になって言葉をしゃべっている時に、
やっぱり、その人はその人なりに皆光に
なるんですね。
誰一人として、この人の光が高い、
この人の光が低いというものはないん
ですよ。
だから、その時斉藤さんの話を聞いて、
村田さんの話を聞いて、ね、病気が治った
とか痛みが少なくなったとかということに
なれば、それはその二人を通して、その
一人一人を通して、神様の光がパーッと
行ったんですよ。
そこまで。
そういうことなんです。
例えば、ここから北海道の誰それのために
祈りといっても、離れているからなあーとか
想いながらお浄めしたら駄目ですよ。
想いが入っちゃあ駄目なんです。
そういう人間の想いが湧いてくるのは
当然だけれども。
しかし、神様ってものは、どんなことでも
できる。
何でもできる。
癒し方は我々の都合とは違うかも
わからないけれども、決して我々を悪く
なさらない方でしょ。
だから、神様の中に想いを投げ込んでね、
そして、お願いしますといって、叩いたり
印を切ったりしちゃえば、その光というのは
すごい光がいきますからね。
そこを信じることですね。
いろんな業がありますよ。
もう間断なく来ますね。
だけども、その業の数よりも量よりも
神様の愛の方が、何十倍何百倍何千倍
深いか分からない。
そうでなかったら、地球だけでなく宇宙って
ものはとっくの昔に潰れちゃってね、人間
なんてものもとっくの昔に死んでますよ。
死滅している。
それがこうやって生きてられるというのは、
神様の愛というものが何ものにもまして
優っているからです。
ただ物だけの世界だったら、ただ科学
だけの世界だったら、祈りのない世界
だったら、もうとっくの昔にいろんな所で
戦争が始まって滅んでますよ。
(つづく)
闇というものはないんです。
本質的に言えば。
本来の世界から言えばね。
だけど、闇と見えるものはいっぱい
あるんですよ。
その闇と見えるものを闇だと
おもい間違えてね、とらえ間違えて、
そこへ引っかかっちゃうと、苦しくって
苦しくってしょうがなくなる。
例えば、痛みがくる、痛みが辛い、もう
本当に痛みが辛いという時に、その
辛い辛いつらいで辛いにひっかかってるとね、
その痛みそのものがずっと続いていきますよ。
頭の中から心の中から離れないから、
あるいは、体から離れないように自分で
ぐっとおもっちゃってるから。
ところが、痛みの最中でも、誰かから
電話がかかってくるとか、何かしなきゃ
なんないことがあるとか、何かそういう
ことがあると、何分間かでもその痛みを
忘れているということがありましょう。
あら痛みが消えてる、何故か。
その時に、そういう仕事を通して守護の
神霊がね、後ろで、痛みどころじゃない、
何かそういうものがあるんだよという
ことを皆さんに知らせるんですよ。
皆さんだって、そういう意味で、祈りじゃ
なくったってちゃんと統一できるんですよ。
そういう体を持っているんです。
肉体というものは業がとっつきやすい
かもしれないけれども、本来の皆さんの
心だって本心だって体だってね、痛み
とか業とか把われとか、そういうものが
寄りつきっこない体になってるんです。
人間の体というものはそういうもんなん
ですね。
本当の自分自身に返すためにお浄め
するんだということですよね。
五井先生なんかは、もう私もあなたも
ないし。
私はね、本にも書いたけれど、いろんな
人が来ますよ。
そして、ひどいのになると、先生、受験を
受からして下さいとかね、いろいろ
ありますって。
そういう人のいろんな想いをお浄め
する時に、何とお浄めするか、一つしかない。
この人の天命が完うされますようにしか
ないんです。
それによってそりゃあ運命修正して
ゆきますよ。
それによって叶えられることがある。
斉藤さんだってさ、巡講した時に、
斉藤さんの話を聞いただけで足の
痛みが治りました、入院してたのに
退院できました、とでてくる。
それで斉藤さんは、何かあの先生が
来ると奇跡が来るとか言われて困ってさ、
私にこぼしたことがあるけれども、そういう
ことじゃないんです。
本当はね。
それは、ちゃんと喜びを分け与えるん
だけれども、そういうことじゃなくって、
斉藤さんなら斉藤さんが、村田さんなら
村田さんが、高橋君なら高橋君がね、
無になって、そうして神様の言葉を
しゃべってる時に、本当に自分という
ものを忘れて、神様だけのおもいで
一杯になって言葉をしゃべっている時に、
やっぱり、その人はその人なりに皆光に
なるんですね。
誰一人として、この人の光が高い、
この人の光が低いというものはないん
ですよ。
だから、その時斉藤さんの話を聞いて、
村田さんの話を聞いて、ね、病気が治った
とか痛みが少なくなったとかということに
なれば、それはその二人を通して、その
一人一人を通して、神様の光がパーッと
行ったんですよ。
そこまで。
そういうことなんです。
例えば、ここから北海道の誰それのために
祈りといっても、離れているからなあーとか
想いながらお浄めしたら駄目ですよ。
想いが入っちゃあ駄目なんです。
そういう人間の想いが湧いてくるのは
当然だけれども。
しかし、神様ってものは、どんなことでも
できる。
何でもできる。
癒し方は我々の都合とは違うかも
わからないけれども、決して我々を悪く
なさらない方でしょ。
だから、神様の中に想いを投げ込んでね、
そして、お願いしますといって、叩いたり
印を切ったりしちゃえば、その光というのは
すごい光がいきますからね。
そこを信じることですね。
いろんな業がありますよ。
もう間断なく来ますね。
だけども、その業の数よりも量よりも
神様の愛の方が、何十倍何百倍何千倍
深いか分からない。
そうでなかったら、地球だけでなく宇宙って
ものはとっくの昔に潰れちゃってね、人間
なんてものもとっくの昔に死んでますよ。
死滅している。
それがこうやって生きてられるというのは、
神様の愛というものが何ものにもまして
優っているからです。
ただ物だけの世界だったら、ただ科学
だけの世界だったら、祈りのない世界
だったら、もうとっくの昔にいろんな所で
戦争が始まって滅んでますよ。
(つづく)