人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

神の愛念について(2)

2021-03-29 10:06:12 | スピリチュアル
      (前日からの続き)
今、何でもって生きていったらいいか
分からないというような生きにくい世の中
ですよね。
不安がある、いろんなことが起こってくる。
事故はあるし、災害はあるし、今年みたいに
天候が不順じゃあとか言ってるけれども、
実際に毎日毎日、今もどこかで大雨が降り
雷が鳴って、雷に打たれて死ぬ人だってある。
雨に流されて家がどっかへいっちゃう人もある。
つぶれて下敷きになってけがをする人や
なくなっちゃう人がある。
そういう不浄の世の中というもの、これを
見ていると、何を頼りにして何をよりどころ
にして生きていったらいいか分からない
という不安がつきあげてくる。
というのがこの世の中の本当のところで
あります。

で、そういうところをふまえて、私は
何を申し上げるかというと、我々という
ものは、常に神様の愛によって生きて
いるのであるということ。
これを忘れてしまっては困るんです。
ここが本道なんです。
なくなったり何だかんだしているが、
それが何で神様の愛なんだと、肉体を
もつ人間は思うけれども、しかし、神様の
愛というのはね、あなた方一人一人の
天命を抱きとって、この世だけじゃなくて
ずっと深い天命を愛して、そうして、
もちろん、あなた方という一人一人を愛して、
そこを見つめての光をむこうから流し続けて
いらっしゃる。
その愛なんですね。
だから、個人の小さな喜びもささやかな喜びも、
良かったねといってむこうから光を送って
下さるけれども、しかし、一人の人間の
生き死にが問題ではないというところに
神様の愛というものがあるんです。

こう言うと、非常に無情のように
思うけれどもね、そうじゃない。
つまり、本当に人間の姿、そして、神様の愛
というものを知って行く時には、肉体の死とか、
いくつで死んだとか、若くて死んでしまって
かわいそうだとか、そういうことというのは
何となく問題にならなくなってくる。
私なんかは、むこうの方からこっちを今
見てますでしょ。
そうしますと、本当にこっちもむこうも
ないんですよね。
むこうの世界もこっちの世界も、ずうっと
連なっている。
ただ、あなた方の場合は、肉体の肉眼という
目でもってみているから、あっちの世界が
見えてこないだけで。

しかし、そういう把われも何もかも
捨ててしまってね、祈り一念、世界平和の
祈り一念になって、五井先生、神様、
お願いしますと。
世界平和の祈りで教義を唱える。
その教義を唱えるということはどういう
ことかというと、つまり、無になって、
自分もなく人もなく、自分が祈るという
ことも忘れて、その大きな流れの中へ
入ってしまえば、あなた方の肉体が、
その時、肉体をもったまま肉体が
消えるんですよ。
肉体の波が消えて、そうして、自分が
ここにいるということも忘れて、ただ、
祈りの光と一緒になっていく。
そういうものなんですね。
本来そういうものなんです。
それは、どんな赤ん坊であっても子どもで
あっても、あるいは、老人であっても、
神様を知らないと思っている様な人であっても、
あれは無神論者だと皆が非難するような
人であってもね、そのスイッチという
ものはもってるんです。
            (つづく)