ケセランパサラン読書記 ーそして私の日々ー

◆『ピートのスケートレース ー第二次世界大戦下のオランダでー』 ルィーズ・ボーデン 作 ニキ・ダリー 絵 ふなとよしえ 訳

               


 第二次世界大戦下のオランダは、前の大戦の時と同じように中立を宣言していたために、戦備が不十分だった。
 そこをナチスドイツが宣戦布告もないまま急襲し、たった5日で占領してしまった。

 オランダでは伝統的にユダヤ人への差別意識がなく、中世から各国で迫害されたユダヤ人が逃げてきて住んでいた。ナチスドイツはそんなユダヤ人の財産を容赦なく没収しかれらを強制収容所へ送った。ユダヤ人のその後については周知の通りである。
 ナチスドイツはオランダを占領後、隣国のベルギーを占領、そしてフランスに侵攻しあっという間にパリを陥落させた。

 ナチスドイツに占領されたオランダでは、ユダヤ人だけでなくオランダ人のレジスタンスの活動家も、見つけられると逮捕され即刻処刑された。
 多分、この絵本の主人公ピートの祖父やウィンケルマンさんもレジスタンスの活動家だろう。

 この絵本は、そういう戦時下のオランダとベルギーの国境の町スラウスの町に住む、スケート靴づくりの父と祖父をもつスケート好きの10歳の少年ピートが主人公である。
 オランダでは北のホラント州にある11の町をつなぐ運河200kmを1日でスケートでまわるレース(エルフステーデントホト)がある。

 オランダの少年たちにとって、このレースに参加し200kmを完走し、その勇敢さを称えられることは誇りである。しかも運河が完璧に凍結しなくては行えないので、毎年開催されるとは限らない。私がオランダに住んでいる時に数年ぶりにこのレースが行われ、なんと現在のオランダの国王がまだ18歳ぐらいの王子の時に出場していた。このレースを完走してこそ、オランダでは一人前の男とみなされるのである。王子にとってもそれは例外でないらしい。
 ピートもこのレースに参加することにとても憧れている少年だ。

 そのピートが、学校から戻るやいなや、おじいちゃんが言う。
 「ピートは、今日、最高のスケーターになる」、「父のように勇気をもて」、「ピムのように勇敢であれ」、凍った運河を矢のように走れと言うのだ。ピム・ムリエイルは、エルフステーデントホトを初めて滑った、オランダの少年たちが最高に憧れるスケーターであり英雄である。

 ピートは前日にナチスに連行されたウィンケルマンさんの子どもの9歳のヨハンナとその弟のヨープの身の安全のために、ベルギーのブリュッヘ(ブリュージュ)のおばさんの家まで、かれらを連れて行く役割を担うことになったのだ。

 ピートの住むオランダのスラウスと、ベルギーのブリュッヘまでの約25kmの運河を、ピートと二人の姉弟は必死に滑り続ける。
 国境ではナチスの兵士に厳しく尋問され、ピートの心臓の音は土手の静けさにこだまするほどだったが、機転をきかせてどうにかくぐり抜ける。ブリュッヘまでは大きな運河で繋がっているとは言え、この距離を冬の日の短い午後、陽が落ちる前に目的地まで到着しなくてはならないのだ。

 スラウスから4分の3ほどくるとダムメという村がある。
 私はダムメからブリュッヘまで自転車で行ったことがあるが、20分ほどかかった。
 ノーテンキな旅人には初夏の素晴らしい風景であったが、凍てついた運河を必死に滑り続ける少年ピートを支えたのは、おじいちゃんの言った言葉、「父のように勇気を持て」「ピムのように勇敢であれ」という言葉である。

 その後ピートは、青年になってから1954年と1956年に行われたエルフステーデントホトに出場した。エルフステーデントホトは、その後、現在まで4回しか開催されていない。

 オランダ人は、ほぼ400年も昔からスケートを交通手段にしてきた人たちだ。その当時の様子は、たとえばブリュ-ゲルの絵に詳細に描かれている。

 運河が凍ったらまるで春が来たかのようにウキウキした表情で、人々は手にスケート靴やアイスホッケーのスティックを持って、家のそばの運河へ向かう。
 私も浮かれて運河へ降りて行ったものだ。


 ノルマンディー大作戦で勝利した連合軍は、フランスとベルギーを解放したが、オランダの解放はその翌年まで待たなくてはならなかった。
 その冬は特に厳しい冬で、オランダでは寒さと飢えで5万人の人たちが死んだ。

 そんな冬だったが、オランダ人はエルフステーデントホトを、ちゃんと開催しているのである。
 200kmを走破することが、勇気があり勇敢であり、それがオランダ人の誇りだからだ。

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