2章の、Kの欠片
Kは、主人公L(エルシア)の、数少ない意志の疎通があるやも知れぬ友人と言えるような存在。
Kの父親は、哲学の教授であり、極めて開明的でありリベラルな考え方の持ち主である。
しかし、ある日、国家権力によって捕縛される。
多くのインテリゲンチャたちが捕縛され処刑されるなか、彼の父親は戻ってきた。
まるで別人となって。
国家権力に忠誠を誓う人となっていたのだ。
哲学って、人智でしょう。
哲学って、なぜ、人は生きるのか、を問う学問でしょう。
哲学って、真理とは、なにかを、問う学問でしょう。
いや、物理学だって同じだ。
人智であり、真理の追究であり、なぜ人は生きるのか、命とはなにかを問う学問だ。
学問とは、いかなるジャンルであっても、これらの命題を追求して止まないものなのではないか。
思うに芸術だって、そうだ。
私の脳裡には、中国の文化大革命の時の、ニュースで流れた画像が浮かんだ。
あの時、多くの知識人が、少年少女たちからなる紅衛兵によって捕縛され、罪人扱いにされ殺されたか、あるいは思想改造され、ほぼ流刑といっていいような状況になった。
毛沢東はその状況を、文化大革命と称し、紅衛兵を称賛した。
文化大革命は、これは、小説のストーリーでもなく、映画のシーンでもなく、まぎれもなく現実の中国の歴史上に、ほんの40年ほど前に、実際に起きたことである。
国家権力がなんらかのパワーを異常に発揮するとき、例えばナチスドイツもそうだったけれど、国民は、一般大衆はそのパワーに呑み込まれてしまう。
日本だって、そうだった。
神国日本をでっちあげ、満州国をでっちあげ、朝鮮半島や台湾を植民地とし、その民族固有の文化を認めず、氏姓さえ日本の氏姓に変えさせた。
その挙げ句は、言うまでもない。
人は弱い、かも知れないと思う。
思想が、あらゆる暴力にたいして、しかも国家権力による暴力にたいして、折れてしまうかも、知れない。
固有名詞さえ意味が消去され、単なる符合か番号でしかなくなるのかも、知れない。
歴史は、繰り返し繰り返し、そういう轍を踏んできたと思う。
人智とは、なんぞや。
『ぼくがきみを殺すまで』
これは、今、現実に、起き続けていることなのだ。
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