ケセランパサラン読書記 ーそして私の日々ー

◆ 続きの感想。『ぼくがきみを殺すまで』 あさのあつこ 著 朝日新聞社

                  

 2章の、Kの欠片

 Kは、主人公L(エルシア)の、数少ない意志の疎通があるやも知れぬ友人と言えるような存在。
 Kの父親は、哲学の教授であり、極めて開明的でありリベラルな考え方の持ち主である。

 しかし、ある日、国家権力によって捕縛される。
 多くのインテリゲンチャたちが捕縛され処刑されるなか、彼の父親は戻ってきた。
 まるで別人となって。
 国家権力に忠誠を誓う人となっていたのだ。

 哲学って、人智でしょう。
 哲学って、なぜ、人は生きるのか、を問う学問でしょう。
 哲学って、真理とは、なにかを、問う学問でしょう。

 いや、物理学だって同じだ。
 人智であり、真理の追究であり、なぜ人は生きるのか、命とはなにかを問う学問だ。
 学問とは、いかなるジャンルであっても、これらの命題を追求して止まないものなのではないか。
 思うに芸術だって、そうだ。


 私の脳裡には、中国の文化大革命の時の、ニュースで流れた画像が浮かんだ。
 あの時、多くの知識人が、少年少女たちからなる紅衛兵によって捕縛され、罪人扱いにされ殺されたか、あるいは思想改造され、ほぼ流刑といっていいような状況になった。
 毛沢東はその状況を、文化大革命と称し、紅衛兵を称賛した。
 文化大革命は、これは、小説のストーリーでもなく、映画のシーンでもなく、まぎれもなく現実の中国の歴史上に、ほんの40年ほど前に、実際に起きたことである。

 
 国家権力がなんらかのパワーを異常に発揮するとき、例えばナチスドイツもそうだったけれど、国民は、一般大衆はそのパワーに呑み込まれてしまう。

 日本だって、そうだった。
 神国日本をでっちあげ、満州国をでっちあげ、朝鮮半島や台湾を植民地とし、その民族固有の文化を認めず、氏姓さえ日本の氏姓に変えさせた。
 その挙げ句は、言うまでもない。


 人は弱い、かも知れないと思う。
 思想が、あらゆる暴力にたいして、しかも国家権力による暴力にたいして、折れてしまうかも、知れない。
 固有名詞さえ意味が消去され、単なる符合か番号でしかなくなるのかも、知れない。


 
 歴史は、繰り返し繰り返し、そういう轍を踏んできたと思う。

 人智とは、なんぞや。




 『ぼくがきみを殺すまで』
 これは、今、現実に、起き続けていることなのだ。

 


 









 

 
 

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