最終回。
ブログ開設から4311日。
「工事人のひとりごと」というタイトルで始まったこのブログ。
一度終了して名を変えて今のこの「ガンダムアート製作秘録」が始まりました。
2年前から更新するのを止めていたのですが、新型コロナウィルスが流行した今年4月に再開しました。
最後なので超長文。
一回で書き切れなかったので後日、後編アップします。
最後かもしれないだろ?
だから ぜんぶ話しておきたいんだ。
(ファイナルファンタジー10 ティーダ風に)
今から25年ほど前、私はある住宅メーカーで新人サラリーマンをしていた。
バブル経済が崩壊した直後で、就職にも苦労したけど自分が望む会社に入社出来た。
職種は設計デザイン枠での採用。
「これから東京で日本の住宅をデザイン、設計しまくってやる。」
「このスーパーエリートである俺様が日本の住宅を変えてやる。デザインこそ正義!社会をこの世界を引っ張らなければならない。」
と意気込んでいた。
東京でおしゃれなスーツ勤務が出来ると思っていたけど、辞令で、いきなり長野県の子会社工場に転勤。
出稼ぎに来ていた日系ブラジル人さんと共に私は作業着を着て工場のラインで作業していた。
毎日、毎日、朝8時から22時まで作業着を着て住宅部材の大きな木材を削ったり、部品を作ったりしていた。
耳栓をしながらの単純重労働。
ライン長は、毎日私に恫喝やら嫌がらせ、パワーハラスメントのプロ中のプロ。今なら逮捕できる。訴訟にすればニュースになって社会から抹殺出来るほどのレベル。
家帰るとクタクタ。疲れすぎて玄関からベッドまで行けず、台所の床で寝てしまうこともあった。
「俺、マジで就職失敗したかも・・・。」
同じ学校を卒業した同級生達は、すでにデザイナーとかの肩書きが入った名刺を持っていたが、私には名刺もない。
「俺、激ヤバくない?」
「あれぇ~。俺、何かおかしな事になってない?」
「この工場の大食堂の弁当、まずくない?」
「味噌汁ちょー薄くない?」
「これってもしかしたらほとんどお湯じゃない?」
ってな感じで時が過ぎる。
工場勤務に慣れて来た頃、突然ある夢をみた。
大地震の夢。
1995年(平成7年)1月17日午前3時頃。
あまりにも鮮明な夢だったので、もう一度寝ようと思ったけど、全く寝れなかった。
会社に行って、いつもの朝礼。
先輩社員に私「俺、大地震の夢見ちゃって、朝まで寝れませんでしたよ。」
今みたいに、携帯端末などなかったので情報はTV。当時は朝TV見ない派。
先輩「ん??大阪の方で地震あったらしいよ。」
昼食時、大食堂でTVを見ていると。
1995年1月17日5時46分52秒阪神・淡路大震災の情報が映し出されてる。
「あれ、正夢だったんだ。予知夢?」
阪神淡路大震災 NHK あの動画のその後
阪神淡路大震災 発生の瞬間
1995/01/17 阪神淡路大震災 地震発生の瞬間 関西で唯一生放送していた朝日放送のスタジオ~大きな被害が出た神戸 【まいにち防災】/ Great Hanshin-Awaji Earthquake
阪神・淡路大震災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)とは1995年(平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震による大災害。
1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒(日本時間=UTC+9)、兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3 の兵庫県南部地震が発生した。
近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)が大きな被害を受けた。特に震源に近い神戸市市街地(東灘区、灘区、中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)、兵庫区、長田区、須磨区)の被害は甚大で、当時東洋最大の港であった近代都市での災害として、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。犠牲者は6,434人に達し、第二次世界大戦後に発生した地震災害としては、東日本大震災に次ぐ被害規模である。戦後に発生した自然災害全体でも、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであった。
阪神・淡路大震災発生からすぐに、東京本社の人事部が私の働く長野の子会社に来た。今後の業務の希望を聞きに来たという。
私は、即答。
「東京で・・・。」
「住宅デザインがしたいです・・・。」(「SLAM DUNK」(スラムダンク)三井寿のように)
人事部は第二希望も聞いてきた。
私「強いて言うなら、東京で住宅の現場監理がしたいです。現場を知ることでデザインに生かせますから。(キラッ☆)」
すぐに辞令がおりた。
人事「阪神地区の子会社に行って、住宅の現場監理業務に就いて下さい。」
私「へっ?おい、おい、おい、何故阪神地区なの、何故、東京じゃないの?デザインじゃないの?」
「第二希望言わなきゃ良かった!あの人事部担当、俺を誘導して現場監理を希望させやがったのか。結果ありきの希望だったのか。ちくしょー、ハメやがったな!」
同期の連中は、希望通りの業務に就いた者もいたが、またしても私は飛ばされた。まだ図面の線一本すら引いてないのに・・・。
でもこれ以上嘆くと苦しくなるし、病気になる。切り替えるしかない。
そんな時、私が勝手に師匠と思っている先生の声が聞こえてきた。
最後まで…
希望をすてちゃいかん。
あきらめたらそこで、
試合終了だよ。
(「SLAM DUNK」(スラムダンク)by 安西先生)
1週間ほどで転勤準備のため阪神地区へ。
覚悟を決めて転勤先にご挨拶と、住居の契約を兼ねて飛行機に乗った。
長野から大阪国際空港(伊丹空港)に着陸態勢に入った時、窓越しにあるものが見えた。
(阪神地区が青い。住宅の屋根が青い。屋根が壊れてブルーシート貼ってんのか?)
(ずいぶん、やられちゃったみたいだね。でも大丈夫、何故ならこの俺が直々に阪神地区に降臨するのだから。)
(ふふふ、ついに私の出番が訪れたな。この俺様が正義の味方となって、被災者様を救って差し上げましょう。フッ。)
大阪の中心部にあった子会社の本社に挨拶が終わって、住まい探し。
私「このチラシに載っているアパートみたいな安い物件ないのですか?」
不動産担当「今、家が全壊したり半壊した人が仮住まいでアパート借りてるのでもう何も残ってないよ。高いのならあるけど。」
私「(こいつ、口の利き方なってないなっ。)どんなんでも良いので安い物件ありません?」
不動産会社10数件まわって、一件、雑居ビルの怪しすぎる部屋(事故物件)が見つかったので、そこに決めた。
そういえばその住まいに、数回友人が泊まりに来てうなされてたみたいたけど、そっとしといてあげた。私は温かい心の持ち主。
その後、再び長野に戻って引っ越し、すぐに阪神地区に戻ってきた。
子会社の上司に連れられて、まずは現場の視察。車で激震地へ向かう。
前回挨拶に来たときは大阪の中心部だった。
ずいぶん様子が違う。
激震地に近くなればなるほど、悲惨な光景が見えてくる。
瓦礫の山、屋根だけ残して潰れた家、傾いたビル。家が建っていたと思われるところに花やジュース。
私(あれ?これメッチャやばい奴じゃん。映画じゃん。)
上司「建築業やる上で、この状況は一生で一度しか見られないかもしれない。良く見ておいた方がいいよ。」
私「今日はお時間頂きありがとうございます。良く目に焼き付けておきます。」
(でも阪神地区の皆様、安心して下さい。メガロポリス東京を蹴って、この正義の味方の俺様が降臨したのだから。)
すぐに現場監理者としての業務を始まった。
私の業務は、新築現場の現場監理を行う事、半壊や全壊した建物を解体指示し、その後、新築を建てていくこと。
子会社の社員に聞くと、震災後、住宅メーカーや住宅展示場などには人が列をなしたくらいの状況だったので、震災前と比べると業務は3倍以上だったようです。かなり大変だったようです。
月の残業は100時間は超えるのが当たり前。でも私自身、震災前の業務を知らないので初めは何が大変かよく分からなかった。
現場に出ると、現実を突きつけられた。
大変すぎる。
とにかくクレームの嵐。
狩られまくりました。
現場監理は新築の最後の担当。
お客様が最初に出会うのが、営業担当、その後設計やインテリアコーディネーターを経て、工事担当の私にたどり着く。
平時ではないのだから、多くのミスが起きる。営業担当に要望を出していたのに建て始めたら違うってクレームは当たりまえ。インテリアコーディネーターに言った事と違う、内装の色が全く違うとか。
あるお客様は、発狂しながら会社に乗り込んできた。私を出せって。
他の担当が悪くても謝るのは今の担当である私。
一人や二人ならしょうがないけど、ほとんどのお客様が何かしらの不満を持っている。
なんだかなぁ。
これが日本の東証一部上場企業?
残業は最高月200時間くらいでした。
ある人は、現場の掃除が出来てないとかで発狂。(平時じゃないんだよ、多少の事めをつぶりなよ。)怒りを抑えるために大雨の中、泥水に頭をつけ土下座したし。
工事の音がうるさいと、現場隣の2階から缶ジュース(中身入り)を何本も投げつけられたし。「うるせんだよ!」(若い女性)
地震で何もかも失った人達があたりどころのない怒りを私にぶつける。
(俺はお前らの怒りの受け皿。消耗品じゃないよ。)
「私たち被災者よ。儲けてるんでしょ。もっと値引きしてよ。」
「仮設住宅40度、暑すぎる。早く建ててよ。ちんたら何やってるの遅すぎる。」
そう言えば、40歳くらいの先輩社員達も逃走(退社)してた。
逃げるような奴だから当然現場も大変な事態になっていることが多い。
日本各地から監理者や工事職人、応援を頼んでたけど、結局は人がいないから、私のような新人が彼らの残した仕掛かりの現場監理もやり始める。
工事もありえないくらい遅れる。でも最善の施工はしている。
お客様の初顔合わせでいきなり白い目で見られる。
私「はじめまして工事担当をさせて頂く〇〇です。誠心誠意頑張ります。どうぞ宜しくお願い致します。」
お客様「・・・。(しら~っ。冷たい目線)」
まだ何もしてないのに信頼が皆無。
とにかく毎日怒られた。
(ここ日本かよ!こいつら何者。狂ってんじゃん!)
私はサンドバッグ。
その怒りを私にぶつけてくださいまし。
とは、ならない。
ただただ苦しい。
私も狂い始めた。
毎日車に乗って多すぎる現場をはしご。
絶頂狂乱期は、一ヶ月に2回、車に追突事故。
2回目は小さな追突だったのだが、さすがに会社に知らせる事が怖く、警察を呼ばず、相手と示談、現金10万円積んで解決。
(うるせぇ事、言うんじゃねぇ!)
(ホントこいつら、地獄に落としてやろうか!!!お前の鼻に2本指突っ込んで、そのまま背負い投げしてやろうか!)
当時、日本人の99.9パーセントは喧嘩をしたら必ず勝てると謎の自負があった私だったのですが・・・。
心の中では色々思いながらも、弱者を演じるしかなかった。
謝るしかなかった。
私、この頃の経験で謝る事が大変得意です。
・・・本当はこの時のエピソード、いくらでも溢れてくるのですが、連載レベルの投稿になってしまうのでここらへんでやめときますw
私自身は、阪神地区に、正義の味方として、復興に協力するという立場として来たつもりだったから、余計苦しく感じた。
漫画やアニメや特撮ヒーローもののように正義の味方になんかなれる訳がない。
でも半年くらい経つと苦しさに慣れるもので、現場の途中、家に帰って小休止。
テレビ大阪で夕方放送中の「新世紀エヴァンゲリオン」を観たりもしていた。
「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」
ピクシブ百科事典より
「新世紀エヴァンゲリオン」を代表する台詞の一つ。
碇シンジがエヴァンゲリオン初号機に初めて乗る決断をする前に「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」と強迫観念に取り憑かれたかのように繰り返し自分に言い聞かせる。
はじめは正義の味方で行ったつもりだったけど、ただの被災者のストレスのはけ口要員、被災者の心を落ち着かせる要員。
でも仕事が落ち着くまでやめられない。
そして2年経ち、仕事が完全に落ち着いた時、
私は会社に退職願いを出した。
(もうここに二度と戻って来ることは一生なかろう!)
(あばよ!阪神地区!)
(もう一言、言ってやる。)
(俺はここが大嫌いだ!)
私はこの災害に負けていた人間側でした。
この災害の直接的被害者ではないものの、知らず知らずのうちに心が病んで被災者になってしまっていた。
確か5、6年くらい阪神地区には行けなかった。
嫌な記憶の方が大きすぎる。人が怖かった。
あの場所あの時間は異常だった。
今も嫌な夢を見る。
数年後、ちょっと自分自身を見つめ直したい時、
一人ドライブで阪神地区に戻った。
周りの景色をみて唖然。
大震災があったとは思えない光景。
全てが直ってる。
人も治ってる。
あいつらやりやがった。
完全に復興させやがった。
前編、完
次回こそ、最終回。完全完結!
次回予告。
おっす!オラ悟空!
阪神地区のみんな、おめぇらはやっぱオラの思った通リすげぇ奴だ。オラと一緒に経済活動しねぇか?
(ブルマ風に)いきなり大震災で沢山のモノと人が消えたのに復興しちゃうなんて、何考えてんのよ?
次回、ガンダムアート製作秘録 20倍界王拳。
最終回『新世界に現れる伝説のスーパー日本人』
(孫悟飯風に)お父さん、なんか本当に嬉しそう
次もぜってぇー見てくれよなっ!
ブログ開設から4311日。
「工事人のひとりごと」というタイトルで始まったこのブログ。
一度終了して名を変えて今のこの「ガンダムアート製作秘録」が始まりました。
2年前から更新するのを止めていたのですが、新型コロナウィルスが流行した今年4月に再開しました。
最後なので超長文。
一回で書き切れなかったので後日、後編アップします。
最後かもしれないだろ?
だから ぜんぶ話しておきたいんだ。
(ファイナルファンタジー10 ティーダ風に)
今から25年ほど前、私はある住宅メーカーで新人サラリーマンをしていた。
バブル経済が崩壊した直後で、就職にも苦労したけど自分が望む会社に入社出来た。
職種は設計デザイン枠での採用。
「これから東京で日本の住宅をデザイン、設計しまくってやる。」
「このスーパーエリートである俺様が日本の住宅を変えてやる。デザインこそ正義!社会をこの世界を引っ張らなければならない。」
と意気込んでいた。
東京でおしゃれなスーツ勤務が出来ると思っていたけど、辞令で、いきなり長野県の子会社工場に転勤。
出稼ぎに来ていた日系ブラジル人さんと共に私は作業着を着て工場のラインで作業していた。
毎日、毎日、朝8時から22時まで作業着を着て住宅部材の大きな木材を削ったり、部品を作ったりしていた。
耳栓をしながらの単純重労働。
ライン長は、毎日私に恫喝やら嫌がらせ、パワーハラスメントのプロ中のプロ。今なら逮捕できる。訴訟にすればニュースになって社会から抹殺出来るほどのレベル。
家帰るとクタクタ。疲れすぎて玄関からベッドまで行けず、台所の床で寝てしまうこともあった。
「俺、マジで就職失敗したかも・・・。」
同じ学校を卒業した同級生達は、すでにデザイナーとかの肩書きが入った名刺を持っていたが、私には名刺もない。
「俺、激ヤバくない?」
「あれぇ~。俺、何かおかしな事になってない?」
「この工場の大食堂の弁当、まずくない?」
「味噌汁ちょー薄くない?」
「これってもしかしたらほとんどお湯じゃない?」
ってな感じで時が過ぎる。
工場勤務に慣れて来た頃、突然ある夢をみた。
大地震の夢。
1995年(平成7年)1月17日午前3時頃。
あまりにも鮮明な夢だったので、もう一度寝ようと思ったけど、全く寝れなかった。
会社に行って、いつもの朝礼。
先輩社員に私「俺、大地震の夢見ちゃって、朝まで寝れませんでしたよ。」
今みたいに、携帯端末などなかったので情報はTV。当時は朝TV見ない派。
先輩「ん??大阪の方で地震あったらしいよ。」
昼食時、大食堂でTVを見ていると。
1995年1月17日5時46分52秒阪神・淡路大震災の情報が映し出されてる。
「あれ、正夢だったんだ。予知夢?」
阪神淡路大震災 NHK あの動画のその後
阪神淡路大震災 発生の瞬間
1995/01/17 阪神淡路大震災 地震発生の瞬間 関西で唯一生放送していた朝日放送のスタジオ~大きな被害が出た神戸 【まいにち防災】/ Great Hanshin-Awaji Earthquake
阪神・淡路大震災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)とは1995年(平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震による大災害。
1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒(日本時間=UTC+9)、兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3 の兵庫県南部地震が発生した。
近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)が大きな被害を受けた。特に震源に近い神戸市市街地(東灘区、灘区、中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)、兵庫区、長田区、須磨区)の被害は甚大で、当時東洋最大の港であった近代都市での災害として、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。犠牲者は6,434人に達し、第二次世界大戦後に発生した地震災害としては、東日本大震災に次ぐ被害規模である。戦後に発生した自然災害全体でも、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであった。
阪神・淡路大震災発生からすぐに、東京本社の人事部が私の働く長野の子会社に来た。今後の業務の希望を聞きに来たという。
私は、即答。
「東京で・・・。」
「住宅デザインがしたいです・・・。」(「SLAM DUNK」(スラムダンク)三井寿のように)
人事部は第二希望も聞いてきた。
私「強いて言うなら、東京で住宅の現場監理がしたいです。現場を知ることでデザインに生かせますから。(キラッ☆)」
すぐに辞令がおりた。
人事「阪神地区の子会社に行って、住宅の現場監理業務に就いて下さい。」
私「へっ?おい、おい、おい、何故阪神地区なの、何故、東京じゃないの?デザインじゃないの?」
「第二希望言わなきゃ良かった!あの人事部担当、俺を誘導して現場監理を希望させやがったのか。結果ありきの希望だったのか。ちくしょー、ハメやがったな!」
同期の連中は、希望通りの業務に就いた者もいたが、またしても私は飛ばされた。まだ図面の線一本すら引いてないのに・・・。
でもこれ以上嘆くと苦しくなるし、病気になる。切り替えるしかない。
そんな時、私が勝手に師匠と思っている先生の声が聞こえてきた。
最後まで…
希望をすてちゃいかん。
あきらめたらそこで、
試合終了だよ。
(「SLAM DUNK」(スラムダンク)by 安西先生)
1週間ほどで転勤準備のため阪神地区へ。
覚悟を決めて転勤先にご挨拶と、住居の契約を兼ねて飛行機に乗った。
長野から大阪国際空港(伊丹空港)に着陸態勢に入った時、窓越しにあるものが見えた。
(阪神地区が青い。住宅の屋根が青い。屋根が壊れてブルーシート貼ってんのか?)
(ずいぶん、やられちゃったみたいだね。でも大丈夫、何故ならこの俺が直々に阪神地区に降臨するのだから。)
(ふふふ、ついに私の出番が訪れたな。この俺様が正義の味方となって、被災者様を救って差し上げましょう。フッ。)
大阪の中心部にあった子会社の本社に挨拶が終わって、住まい探し。
私「このチラシに載っているアパートみたいな安い物件ないのですか?」
不動産担当「今、家が全壊したり半壊した人が仮住まいでアパート借りてるのでもう何も残ってないよ。高いのならあるけど。」
私「(こいつ、口の利き方なってないなっ。)どんなんでも良いので安い物件ありません?」
不動産会社10数件まわって、一件、雑居ビルの怪しすぎる部屋(事故物件)が見つかったので、そこに決めた。
そういえばその住まいに、数回友人が泊まりに来てうなされてたみたいたけど、そっとしといてあげた。私は温かい心の持ち主。
その後、再び長野に戻って引っ越し、すぐに阪神地区に戻ってきた。
子会社の上司に連れられて、まずは現場の視察。車で激震地へ向かう。
前回挨拶に来たときは大阪の中心部だった。
ずいぶん様子が違う。
激震地に近くなればなるほど、悲惨な光景が見えてくる。
瓦礫の山、屋根だけ残して潰れた家、傾いたビル。家が建っていたと思われるところに花やジュース。
私(あれ?これメッチャやばい奴じゃん。映画じゃん。)
上司「建築業やる上で、この状況は一生で一度しか見られないかもしれない。良く見ておいた方がいいよ。」
私「今日はお時間頂きありがとうございます。良く目に焼き付けておきます。」
(でも阪神地区の皆様、安心して下さい。メガロポリス東京を蹴って、この正義の味方の俺様が降臨したのだから。)
すぐに現場監理者としての業務を始まった。
私の業務は、新築現場の現場監理を行う事、半壊や全壊した建物を解体指示し、その後、新築を建てていくこと。
子会社の社員に聞くと、震災後、住宅メーカーや住宅展示場などには人が列をなしたくらいの状況だったので、震災前と比べると業務は3倍以上だったようです。かなり大変だったようです。
月の残業は100時間は超えるのが当たり前。でも私自身、震災前の業務を知らないので初めは何が大変かよく分からなかった。
現場に出ると、現実を突きつけられた。
大変すぎる。
とにかくクレームの嵐。
狩られまくりました。
現場監理は新築の最後の担当。
お客様が最初に出会うのが、営業担当、その後設計やインテリアコーディネーターを経て、工事担当の私にたどり着く。
平時ではないのだから、多くのミスが起きる。営業担当に要望を出していたのに建て始めたら違うってクレームは当たりまえ。インテリアコーディネーターに言った事と違う、内装の色が全く違うとか。
あるお客様は、発狂しながら会社に乗り込んできた。私を出せって。
他の担当が悪くても謝るのは今の担当である私。
一人や二人ならしょうがないけど、ほとんどのお客様が何かしらの不満を持っている。
なんだかなぁ。
これが日本の東証一部上場企業?
残業は最高月200時間くらいでした。
ある人は、現場の掃除が出来てないとかで発狂。(平時じゃないんだよ、多少の事めをつぶりなよ。)怒りを抑えるために大雨の中、泥水に頭をつけ土下座したし。
工事の音がうるさいと、現場隣の2階から缶ジュース(中身入り)を何本も投げつけられたし。「うるせんだよ!」(若い女性)
地震で何もかも失った人達があたりどころのない怒りを私にぶつける。
(俺はお前らの怒りの受け皿。消耗品じゃないよ。)
「私たち被災者よ。儲けてるんでしょ。もっと値引きしてよ。」
「仮設住宅40度、暑すぎる。早く建ててよ。ちんたら何やってるの遅すぎる。」
そう言えば、40歳くらいの先輩社員達も逃走(退社)してた。
逃げるような奴だから当然現場も大変な事態になっていることが多い。
日本各地から監理者や工事職人、応援を頼んでたけど、結局は人がいないから、私のような新人が彼らの残した仕掛かりの現場監理もやり始める。
工事もありえないくらい遅れる。でも最善の施工はしている。
お客様の初顔合わせでいきなり白い目で見られる。
私「はじめまして工事担当をさせて頂く〇〇です。誠心誠意頑張ります。どうぞ宜しくお願い致します。」
お客様「・・・。(しら~っ。冷たい目線)」
まだ何もしてないのに信頼が皆無。
とにかく毎日怒られた。
(ここ日本かよ!こいつら何者。狂ってんじゃん!)
私はサンドバッグ。
その怒りを私にぶつけてくださいまし。
とは、ならない。
ただただ苦しい。
私も狂い始めた。
毎日車に乗って多すぎる現場をはしご。
絶頂狂乱期は、一ヶ月に2回、車に追突事故。
2回目は小さな追突だったのだが、さすがに会社に知らせる事が怖く、警察を呼ばず、相手と示談、現金10万円積んで解決。
(うるせぇ事、言うんじゃねぇ!)
(ホントこいつら、地獄に落としてやろうか!!!お前の鼻に2本指突っ込んで、そのまま背負い投げしてやろうか!)
当時、日本人の99.9パーセントは喧嘩をしたら必ず勝てると謎の自負があった私だったのですが・・・。
心の中では色々思いながらも、弱者を演じるしかなかった。
謝るしかなかった。
私、この頃の経験で謝る事が大変得意です。
・・・本当はこの時のエピソード、いくらでも溢れてくるのですが、連載レベルの投稿になってしまうのでここらへんでやめときますw
私自身は、阪神地区に、正義の味方として、復興に協力するという立場として来たつもりだったから、余計苦しく感じた。
漫画やアニメや特撮ヒーローもののように正義の味方になんかなれる訳がない。
でも半年くらい経つと苦しさに慣れるもので、現場の途中、家に帰って小休止。
テレビ大阪で夕方放送中の「新世紀エヴァンゲリオン」を観たりもしていた。
「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」
ピクシブ百科事典より
「新世紀エヴァンゲリオン」を代表する台詞の一つ。
碇シンジがエヴァンゲリオン初号機に初めて乗る決断をする前に「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」と強迫観念に取り憑かれたかのように繰り返し自分に言い聞かせる。
はじめは正義の味方で行ったつもりだったけど、ただの被災者のストレスのはけ口要員、被災者の心を落ち着かせる要員。
でも仕事が落ち着くまでやめられない。
そして2年経ち、仕事が完全に落ち着いた時、
私は会社に退職願いを出した。
(もうここに二度と戻って来ることは一生なかろう!)
(あばよ!阪神地区!)
(もう一言、言ってやる。)
(俺はここが大嫌いだ!)
私はこの災害に負けていた人間側でした。
この災害の直接的被害者ではないものの、知らず知らずのうちに心が病んで被災者になってしまっていた。
確か5、6年くらい阪神地区には行けなかった。
嫌な記憶の方が大きすぎる。人が怖かった。
あの場所あの時間は異常だった。
今も嫌な夢を見る。
数年後、ちょっと自分自身を見つめ直したい時、
一人ドライブで阪神地区に戻った。
周りの景色をみて唖然。
大震災があったとは思えない光景。
全てが直ってる。
人も治ってる。
あいつらやりやがった。
完全に復興させやがった。
前編、完
次回こそ、最終回。完全完結!
次回予告。
おっす!オラ悟空!
阪神地区のみんな、おめぇらはやっぱオラの思った通リすげぇ奴だ。オラと一緒に経済活動しねぇか?
(ブルマ風に)いきなり大震災で沢山のモノと人が消えたのに復興しちゃうなんて、何考えてんのよ?
次回、ガンダムアート製作秘録 20倍界王拳。
最終回『新世界に現れる伝説のスーパー日本人』
(孫悟飯風に)お父さん、なんか本当に嬉しそう
次もぜってぇー見てくれよなっ!