「野党の圧勝」という怪文書
「昨年11月22日合意の趣旨に沿って、日本政府は輸出規制措置を早期に撤回するよう改めて求める。いつでも日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を終了できるという前提のもとに、終了通告の効力を停止している」
2月12日、韓国外交省が記者団に提供したPG(press guidance)だ。題目は「外交省・中央日報GSOMIA廃棄論報道に関するPG」。韓国政府の立場を改めて説明したもので、同日付の韓国紙・中央日報が、韓国大統領府内でGSOMIA破棄論が強まっていると伝えたことを受けたものだった。
韓国政府の複数の関係者によれば、4月の総選挙に向けた好材料探しに躍起の、大統領府内から出た強硬論だという。康京和(カン・ギョンファ)外相も6日の記者会見で「我々はいつでも再び(GSOMIAを)破棄できる。基本的に韓国の国益に基づいて行使する」と語っていた。韓国政府関係者の1人は康氏の発言について「独断であんなことを言うわけがない。当然、背後にある議論を受けた発言だ」と語る。
韓国国会(定数300)は2月12日現在、与党「共に民主党」が129、第1野党の「自由韓国党」が107などとなっているが、与党内では総選挙敗北への危機感が徐々に高まっている。その背景には経済政策の失敗、曺国(チョ・グク)法相(当時)を巡るスキャンダル、そして最近になって起きた新型コロナウイルス問題などがあることは、「韓国・文在寅政権が、新型コロナウイルス騒動に青ざめている」でお伝えしたとおりだ。
実際、2月半ばには国会のある汝矣島(ヨイド)周辺で「自由韓国党が168議席を獲得して圧勝」という「チラシ」が出回った。韓国では、一般に政局工作や株価操作などのために政財界周辺でばらまかれる出所不明の怪文書のことを、日本語そのままに「チラシ」と呼ぶ。このチラシは、「ソウル49議席中、民主28優勢、自由韓国21優勢」など議席数まで詳細に記述されていたことと、折からの「与党劣勢論」に拍車をかける内容だったため、与野党の議員や秘書たちの間で広く出回る騒ぎになった。
こうした苦しい展開に与党関係者はもとより、大統領府関係者も一様に青ざめている。総選挙での敗北は、大統領選での与野党逆転につながり、文在寅大統領が2022年5月までの任期を終えた後、政権関係者が追及される事態へと発展する恐れがあるからだ。
文在寅政権の鬼門「選挙介入疑惑」
今、大統領府関係者が最も恐れているのが、2018年6月に行われた蔚山(ウルサン)市長選への介入疑惑だ。
市長選の当選者は人権派弁護士で、文在寅大統領の古くからの知人だった。選挙戦当時、検察当局が対抗馬の関係者を巡る不正を捜査したことが、選挙戦に影響を与えたとされる。
韓国政界関係筋の1人は「文在寅大統領の弾劾までは難しいかもしれないが、公務員の中立義務違反で将来立件される可能性は十分ある」と語る。実際、朴槿恵(パク・クネ)前大統領も前回総選挙への介入疑惑を追及されている。
なりふり構っていられない文在寅政権の関係者らが目をつけているのが、昨年来日韓関係の焦点となっている、日本による輸出管理措置の撤廃だ。
2月6日にソウルであった日韓外務省局長級協議でも、韓国側は措置の撤廃を強く申し入れた。ただ、日本側も徴用工判決による日本企業の韓国資産の現金化を防ぐよう申し入れ、話し合いは原則論の応酬に終わった。こうした状況に焦った大統領府の急進派が「措置撤廃が無理なら、GSOMIAも破棄してしまえ」と騒ぎ始めているのだという。
もちろん、日韓GSOMIAが昨年11月に破棄寸前から蘇った背景には、米国の強い圧力があった。日本も韓国も言うことを聞かないとみるや、最終的にホワイトハウスのポッティンジャー大統領副補佐官(国家安全保障担当)が、韓国大統領府の金鉉宗(キム・ヒョンジョン)第2次長と首相官邸の林肇副長官補にそれぞれ「GSOMIA延長」を強く迫って、無理やり日韓を握手させたという経緯もある。11日付中央日報の記事に接した日本側の反応も「まだまだ大丈夫」(関係者の1人)というものだった。
外相会談は平行線
ただ、日韓の当局者は今、コロナウイルス問題に忙殺され、徴用工判決やGSOMIA問題などに力を割けない状態が続いている。日韓双方が、お互いの防疫体制や対中政策を巡る情報を探るのに躍起になっている。
韓国政府関係者の1人は「夏の東京五輪が中止になるのではないかと心配している。もし中止になったら、日本だけではなく、韓国にも深刻な経済余波が来る。早くコロナ問題が終息してほしいと祈るような気持ちで見守っている」と語る。
こうしたなか、懸念されているのが、2018年秋に相次いで損害賠償を命じられた日本製鉄(旧新日鉄住金)と三菱重工業の韓国内資産の現金化だ。すでに両社の資産は差し押さえられ、裁判所が資産売却命令を出すのを待つばかりとなっている。
日本政府は、韓国国会の文喜相(ムン・ヒサン)議長が主導し、日韓で財団を作って元徴用工らを支援するとしたいわゆる「文喜相法案」が国会で審議されている間は、命令は出ないだろうと分析している。また、「売却命令が出ても、実際の現金化までは買い手の選定や資産評価などもあって時間がかかる」(日本政府関係者)との声もある。
実際、日本外務省は自民党関係者らに対し、「命令が出てもまだ売却されたわけではありません。レッドラインは売却です」と説得して回っている。命令が出たとたん、政府与党が対抗措置に踏み切ってしまわないか、という懸念があるからだ。
ただ、日本側はとりあえず、「昨年12月の日韓首脳会談で、徴用工判決問題は韓国側の責任で解決してほしいと改めて主張した。伝えるべき事は伝えた」と判断し、不必要な譲歩はしないとしている。茂木敏充外相と康京和外相は15日、国際会議で同席したドイツ・ミュンヘンで会談したが、あいかわらず議論は平行線をたどった。徴用工判決を巡る問題解決の重要性について、日韓の認識が一致しただけで、韓国側から新たな提案はなかった模様だ。
このように、韓国は日本側の懸念を共有していない。韓国政府関係者の1人は「朴槿恵政権は判決を先延ばししようとして批判された。すでに出た判決をなかったことにしようとすれば、より厳しい批判を韓国内から浴びかねない」と語る。また別の関係者は「たった1人でも判決の通りにしてほしいという原告がいれば、抗えない。もう判決通りに進めて、そのうえで日本がICJ(国際司法裁判所)なり、請求権協定に基づく仲裁委員会などで抗弁すれば良いんじゃないか」とまで語った。
大統領府内で起きる「地殻変動」
その背景には、昨年11月に「GSOMIA破棄通告の効力を停止した際、輸出措置の早期撤回を求めたのに、日本が応じてくれていない」という不満がある。
日本にしてみれば、「そもそも輸出措置を招いたのは、徴用工判決に対して韓国政府が誠実な対応をしなかったからだろう」(日本側関係者)ということなのだが、選挙で勝つことに必死な文在寅政権関係者の耳には届かない。さらに、韓国メディアが一時、「日本政府が文喜相法案を評価した」と報じたことも、疑心暗鬼に拍車をかけている。韓国政府高官は「あれは、韓国側に文喜相法案を飲ませるための政治工作じゃなかったのか、という声まである」と紹介する。
15日の日韓外相会談で康外相は、日本の輸出措置の早期撤回を改めて求めたが、茂木外相は安全保障上の理由などを挙げて取り合わなかった。おそらく、外相会談の結果を聞いた韓国大統領府関係者らは一層、日本に批判的な目を向けてくるだろう。
そして、さらに心配なのが、最近の韓国大統領府内での権力を巡る地殻変動だ。
韓国では昨年、新たに国家安保室第2次長に就任した金鉉宗氏が、米朝関係の停滞から影響力を落とした鄭義溶(チョン・ウィヨン)室長に代わって、韓国の安全保障政策を牛耳り始めた。
金鉉宗氏は人を人とも思わぬ尊大な態度で、国民的な人気を誇る康京和外相と言い合いを演じるなど、政府内のあちこちで軋轢を起こしてきた。昨秋、それが金氏の部下である崔ジョンゴン平和企画秘書官との対立を招いたことは、「日韓首脳会談『中身ゼロの45分間』と、韓国外交の深刻な機能不全」で触れたとおりだ。
崔氏は、文在寅大統領の外交ブレーンである文正仁(ムン・ジョンイン)大統領特別補佐官と同じ延世大教授人脈に連なる。文政権発足当時から大統領府に入り、2018年9月の南北首脳会談では、平和軍備統制秘書官として南北軍事合意をまとめた。
文在寅政権に近い韓国政界筋は、前回の大統領選に際し、崔氏が我が物顔で文在寅陣営を仕切っていたと証言する。「崔氏は『文在寅候補の安保政策は私が窓口だから、私に言って欲しい』と大見得を切っていたよ」。そんな鼻っ柱の強い崔氏と、傲岸不遜な金氏の対立は避けられない問題だった。
そして、この争いは崔ジョンゴン氏に軍配が上がった。別の政界関係筋は「所詮、金鉉宗氏はニューヨークの弁護士上がり。インナーサークルの崔氏に勝てるわけがない」と話す。金鉉宗氏は嫌気がさして一時期は国会議員への転身も目論んだが、与党が早々にお引き取りを願ったという。現在の文在寅政権の安保外交は、崔氏と彼と手を結んだ鄭義溶氏が牛耳っている状態だ。
「売り言葉に買い言葉」となれば…
問題は、崔氏の掲げる政策だ。上述したように、昨年11月に起きたGSOMIA破棄騒動において、金鉉宗氏は最終局面で訪米し、ポッティンジャー氏から「GSOMIAの無条件延長」を言い渡された。ただ、この時点で、8月にGSOMIA破棄を主導した金氏の考えはかなり変化していたという。
韓国政府関係者の1人は「彼は計算が速い。米国の強硬な態度をみて、何が何でもGSOMIA破棄というのは拙い、と考えを変えた。ポッティンジャー氏と会った当時は、破棄は破棄でも『条件付き破棄』論者に変身していた」と証言する。すなわち、日本が輸出管理措置で何らかの譲歩をしてくれれば破棄を見直しても良い、という態度だったという。
ポッティンジャー氏は金氏に無条件延長を命じたものの、その後に、林副長官補に電話して「韓国側の顔も少しは立ててやって欲しい」と伝え、「輸出管理措置を巡る協議開始」という態度を日本側から引き出した。
問題なのは、こうした状況下であっても、韓国大統領府内で「無条件破棄」を叫んでいた人たちがいたことだ。その1人が崔ジョンゴン氏だった。
もし、4月15日投開票の韓国総選挙前に、日本企業資産の売却命令が出た場合、日本側で強い批判の声が巻き起こるだろう。そこで韓国側が「売り言葉に買い言葉」という反応を示せば、一気にGSOMIA破棄カードを切る可能性がないとはいえない。
牧野 愛博(朝日新聞編集委員)