HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

頤和園 徳和園

2023-12-07 | 北京を歩く
頤和園の宮殿区に徳和園とよばれる西太后が京劇を楽しむために作られた劇場建築群があります。









乾隆時代に怡春堂という名前で造成されましたが、1875年から大規模に改築されました。

中心はこの大戯楼とよばれる豪華絢爛な大ステージです。

3階建ての建物で、ステージは幅17メートル、高さが21メートルあるそうです。



この舞台では、演者が神や幽霊を演じるときには空から降りてきたり、水が飛び出したり、奈落からせり上がってことができたといいます。150年前になんとも贅沢な仕掛けを凝らしたものです。



ここは紫禁城の暢音閣、避暑山荘の清音閣と並んで清宮廷三大劇場とよばれていますが、ここが最大規模だそうです。

西太后はここで1895年から死去する1908年までの13年間で262回、多い時には年間40回観劇を楽しんだのだとか。



これだけ大掛かりな施設ですが、ここには一般客は入りませんので、演者は西太后のためだけに演じ続けました。

浅田次郎の「蒼穹の昴」でも、主人公の宦官・春児がここで西太后のために役者として演じたことを語るシーンがありました。



扮戯楼は大戯楼の裏側に隣接する楽屋に当たる建物です。







中で繋がっています。



よくこんな凝った建物を作ったものだと思います。



西太后がここで観劇を楽しんだのは、日清戦争から戊戌の変法、義和団事件と続くこの国泥沼の時代です。

国が倒れそうになっている中、西太后はどういう思いで芝居を見つめたのでしょうか。

築後150年ですが、保存状態はきわめて良好です。
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大柵欄 青雲閣旧址 - 変法派が集った娯楽の殿堂

2023-11-27 | 北京を歩く
前門の大柵欄西を歩いていると、青雲閣と書かれた古そうな扁額を掲げた間口の狭い建物が目に入りました。



今は封鎖されているようです。由緒ありげですが、これはなんだったのでしょうか。



調べてみたところ、青雲閣は京劇の劇場を含む娯楽施設だったようです。

文献によると、この建物は1905年に再建されたもので、「清雲閣」の三文字は清朝末期の同治帝時代の書家である何維普による揮毫だとか。
清朝末期の北京における四大商城の最初のもので、初期は買い物や飲食、芝居などの娯楽サービスが一体となった人気のある娯楽スポットだったそうです。

程硯秋、馬連良、梅蘭芳などの有名な京劇俳優がここで公演を行い、康有為、譚嗣同、梁啓超、魯迅、梁実秋などの有名人は何度もここに足を運んだのだとか。

康や譚や梁は戊戌の変法(1898年)の中心メンバーですが、彼らはここでお茶を飲みながら維新について議論したのでしょうか。

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大鐘寺古鐘博物館 - 100年前はトイレ代わりになっていたという永楽大鐘とは

2023-11-23 | 北京を歩く
北三環にある大鐘寺古鐘博物館に行ってみました。





ここはもともと覚生寺とよばれていた古刹で、この寺の名物である永楽大鐘がここに納められたことをきっかけに大鐘寺と名前を変えたのだとか。



今は寺としての役目は終えていて、鐘の博物館としてかつてのお堂を展示室にして数百におよぶ古い鐘を展示しています。



つくりは寺そのものですが、仏像や祈祷施設はありません。

展示されている鐘は明代と清代のものが多いようです。歴代皇帝がつくらせたのでしょうか。





皇帝万歳万万歳、だそうです。清代につくられた鐘にはほとんどこの文字が入っていました。

日本のバンザイと中国の万歳は似ているようでちょっと違います。

中国で万歳は特別な意味を持ちます。日本ではスポーツで勝利したなどに気軽に万歳をしますが、そんな感じではありません。

日本でもどこの寺にも鐘はありますが、これらのルーツをたどれば中国でしょう。
鐘は時を告げるだけでなく、祈りや楽器としても使われてきました。



五本指の龍は皇帝のシンボルです。

最大の見どころは、この永楽大鐘です。1607年につくられたもので、中国に現存する最大の青銅製の鐘と伝わります。



このお堂の中にあります。



扁額の文字は乾隆帝の揮毫だとか。



大きいです。

高さ6.75メートルで、重さは46トンだそうです。

こんな重そうな鐘をどうやって吊るしているのでしょうか。

当時、ひとたび鐘を突けばその音は90里先まで届き、音は2分間以上も鳴り続けたのだとか。すごいですね。



1921年に北京を訪問した芥川龍之介はこの永楽大鐘を見学しています。そして著書にてそのときの様子を「この大鐘は半ば土中に埋まり、事実上の共同便所に用いられつつあり」と記しています。

どういうことでしょうか。にわかに信じ難い話です。しかし、取材の名目で北京を訪れた芥川が嘘を書くとは思えません。

しかし、一部が土に埋まってトイレとして使われていたとは、どういう状態だったのでしょうか。



しばらく鐘を見つめながら考えてみました。

芥川が訪問したのは軍閥が乱立して混乱していた中華民国時代です。
当時は文化財保護にまで行政の手が行き届かず、鐘は野ざらしの状態で横倒しにでもなっていたのでしょうか。

まったく荒唐無稽とも言えない仮説だと思いますが、どうでしょうか。

いずれにせよ、今は良好な状態で保存されています。北京に長期滞在するなら一見の価値ありだと思います。

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雍和宮 雅曼達嘎楼 - 芥川龍之介が代金を半額に値切ってまで見学した「怪物」とは

2023-11-17 | 北京を歩く
芥川龍之介が見た雍和宮めぐりの続きです。

芥川が記したこの像を探します。

それから又中野君と石畳の上を歩いていたるに、万福殿の手前の楼の上より堂守一人顔を出し、上って来いと手招きをしたり。狭い梯子を上って見れば、此処にも亦幕に蔽われたる仏あれど、堂守容易に幕をとってくれず。二十銭出せなどと手を出すのみ。やっと十銭に妥協し、幕をとって拝し奉れば、藍面、白面、黄面、赤面、馬面等を生やしたる怪物なり。おまけに又何本も腕を生やしたる上、(腕は斧や弓の外にも、人間の首や腕をふりかざしいたり)右の脚は鳥の脚にして左の脚は獣の脚なれば、頗る狂人の画に類したりと言うべし。されど予期したる歓喜仏にはあらず。(尤もこの怪物は脚下に二人の人間を踏まえいたり。)中野君即ち目を瞋いからせて、「貴様は嘘をついたな。」と言えば、堂守大いに狼狽し、頻しきりに「これがある、これがある」と言う。「これ」とは藍色の男根なり。隆々たる一具、子を作ることを為さず、空しく堂守をして煙草銭を儲けしむ。悲しいかな、喇嘛仏の男根や。

さて、芥川が10銭を支払って拝観したというこの「怪物」はどこにあるでしょうか。

この説明には、この「怪物」が鎮座している建物の名前が書かれていません。「万福殿の手前の楼」といえば、おそらく法輪殿か雅曼達嘎楼か昭仏楼のどれかです。

ひとつひとつ探していくと、雅曼達嘎楼にそれらしいものがありました。



なるほど、2階の回廊部分から下に向かって声を掛けられそうです。

建物はカギがかけられていて封鎖されていましたが、正面入口のガラス越しに「怪物」を拝むことができました。



雍和宮の公式サイトによると、これは大威德金剛像とよぶそうです。これです。

大きさは人の背丈ほどです。

調べてみると、大威徳明王は五大明王の一尊であり、阿弥陀如来と文殊菩薩の化身(教令輪身)なのだとか。人々を教え導くために敢えてこんな恐ろしい姿をとっているのだそうです。

京都の東寺などにもこの彫像があるようですが、日本では簡略されてマイルドに表現されるのが一般的なようですから、ここまでの強いインパクトはなさそうです。

これが芥川が見学料20銭のところを10銭に値切ってまで見た「怪物」でした。

しかし、芥川はこれを見るために「上った」と説明しているので、当時は2階部分に置いてあったようです。



ちなみに、狼狽した堂守がお詫びに見せたという「藍色の男根」らしきものは見当たりませんでした。

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雍和宮 東配殿 - 芥川龍之介が見た4体の歓喜仏とは

2023-11-13 | 北京を歩く
芥川龍之介が見た雍和宮めぐりの続きです。

東配殿に来ました。



ここは法輪殿の前の広場の東側に立つ平屋の仏殿です。



この東配殿について、芥川は次のように記しています。

第六所東配殿に木彫りの歓喜仏四体あり。堂守に銀貨を一枚やると、繡幔をとつて見せてくれる。仏は皆藍面赤髮、背中に何本も手を生やし、無数の人頭を頸飾にしたる醜悪無双の怪物なり。歓喜仏第一号は人間の皮をかけたる馬に跨り、炎口に小人を啣うるもの、第二号は象頭人身の女を足の下に踏まえたるもの、第三号は立つて女を婬するもの。第四号は――最も敬服したるは第四号なり。第四号は牛の背上に立ち、その又牛は僭越にも仰臥せる女を婬しつつあり。されど是等の歓喜仏は少しもエロティックな感じを与えず。只何か殘酷なる好奇心の滿足を与えるのみ。歓喜仏第四号の隣には半ば口を開きたるやはり木彫りの大熊あり。この熊も因緣を聞いて見れば、定めし何かの象徴ならん。熊は前に武人二人(藍面にして黒毛をつけたる槍を持てり)、後に二匹の小熊を伴う。

いかがでしょうか。

18世紀中頃につくられた4体の歓喜仏(ヤブユム)の仏像があるようです。
歓喜仏は日本の寺院ではほとんど見かけることがありませんので、芥川としても新鮮に映ったのではないでしょうか。

崇高な仏教美術とはいえ、生々しいので子ども連れのお父さんお母さんは敬遠したがると思います。

今もそれらしい仏像が並んでいますが、すべての仏像に腰から下の部分に厚手の布が掛けられており、全容を見ることができません。芥川のいう第一号から第四号はいったいどれがどれなのか、想像しながら観察しました。(後に分かったのですが、雍和宮の公式ウェブサイトには布を外した全容が公開されていますので、ここを参照して特定しました。)

これが第一号です。



芥川は、「人間の皮をかけたる馬に跨り、炎口に小人を啣うるもの」と評しています。

仏像の全容はこれです。

これは吉祥天母なる仏像だそうです。いったいどんなシーンなのでしょうか。

これが第二号です。



芥川は、「象頭人身の女を足の下に踏まえたるもの」と評しています。

仏像の全容はこれです。

これは六臂永保護法という仏像のようです。仏はゾウの頭をした女性を踏みつけています。

たぶんこれが第三号です。



芥川によると、「立つて女を婬するもの」です。

仏像の全容はこれです。

これは大威德金剛というそうです。仏のお相手を務める女性も恐怖だと思います。
この仏像に向かって膝をつき、手を合わせて熱心に拝んでいる若い女性がいましたが、どうされたいのでしょうか。

これが第四号です。



芥川によると、「最も敬服したるは第四号なり。第四号は牛の背上に立ち、その又牛は僭越にも仰臥せる女を婬しつつあり」です。

全容はこれです。

これは地獄主とよばれる仏だとか。
芥川が表現したとおり、人間の女性を淫する馬を、女性ごと仏が踏みつけています。いったい何を表現しているのか分かりませんが、これはたしかに地獄です。

芥川が見た歓喜仏は全部残っていました。

しかし、こんなグロテスクで狂気じみた仏像にも中国人参拝者は膝をついて熱心に祈りをささげています。

チベット密教の知識のない凡人からみれば、ここは仏様たちの蛮行を止めさせなければいけないような場面です。
いろんな世界があるものです。

きっとこの人たちにはこれらの仏像が示す意味を心得ているのだと思いたいですが、さて、どうでしょうか。

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雍和宮 - 芥川龍之介の紀行文を元にたどる(万福閣、綏成楼ほか)

2023-11-09 | 北京を歩く
北京最大のチベット仏教寺院とされる雍和宮に行ってみました。



雍和宮はもともと清の第五代皇帝・雍正帝が皇帝になる前の親王だった時代の住まいでした。
1694年に建築が始まりました。雍正帝が皇帝に即位した後、チベット仏教ゲルク派の寺院として使われるようになりました。

今も現役の寺として多くの参拝客を集めています。

雍和宮は、芥川龍之介も1921年に訪問しています。そのときの記録を「北京日記抄」に比較的細かく書き残していますので、その日記に沿って芥川の目になって施設内を歩いてみます。

芥川はこのように記しています。

今日も亦中野江漢君につれられ、午頃より雍和宮一見に出かける。喇嘛寺などに興味も何もなけれど、否、寧ろ喇嘛寺などは大嫌いなれど、北京名物の一つと言えば、紀行を書かされる必要上、義理にも一見せざる可らず。我ながら御苦労千万なり。
薄汚い人力車に乗り、やっと門前に辿りついて見れば、成程大伽藍には違いなし。尤も大伽藍などと言えば、大きいお堂が一つあるようなれど、この喇嘛寺は中中そんなものにあらず。永祐殿、綏成殿、天王殿、法輪殿などと云う幾つものお堂の寄り合い世帯なり。それも日本のお寺とは違い、屋根は黃色く、壁は赤く、階段は大理石を用いたる上、石の獅子だの、青銅の惜字塔だの(支那人は文字を尊ぶ故、文字を書きたる紙を拾えば、この塔の中へ入れるよし、中野君の説明なり。つまり多少芸術的なる青銅製の紙屑籠を思へば好し)乾隆帝の「御碑」だのも立つていれば、兎に角荘厳なるに近かるべし。

たしかに、施設内にはお堂がたくさんありました。
おそらく、100年前に芥川が見たものとほとんど同じだと思われました。
きれいに使って丁寧な手入れをしているのだと思います。

雍和門をくぐると、お堂の前には一帯に線香の煙と香りがもくもくと立ちこめます。一人に対して一束の線香をもらうことができます。



信仰の深い参拝者は、この線香を小分けにして様々なお堂の前で焼香します。



信仰心のない僕は、最初のお堂(狭義の雍和宮)の前ですべて焼香しました。

これが永祐殿です。



法輪殿です。



万福閣です。施設内で最大の大きさがあります。



万福閣の中には北京最大、高さ18メートルの弥勒仏が3階部分まで貫くように建っています。





すごい迫力です。

しかし、芥川はこの仏像については言及していません。なぜでしょうか。

1750年に製造したものだとか。ギネス記録の証明も飾っていました。
18メートルの高さは奈良の大仏(東大寺大仏)と同じです。これは偶然でしょうか。



綏成殿です。
今は一部博物館のような使われ方をしていました。

これが乾隆帝の「御碑」です。



日本にはこんな煌びやかでたくさんのお堂がある寺はありませんので、芥川は驚いたことだろうと思います。



それにしても、雍和宮では熱心に、本気の祈りを捧げる参拝者が多いことが印象的でした。参拝者の顔つきも振る舞いも、日本の初詣のそれとはだいぶ違いました。



中国人は全体的にみてそれほど宗教への関心は高くないように感じますが、悩みや苦しみから解放されるために仏にすがりたい人は一定程度いるのだということを改めて認識しました。
いろいろと難しい時代ですから、わかるような気もします。
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玉泉山と両山公園

2023-11-06 | 北京を歩く
玉泉山はかつて、北京を代表する景勝地でした。

場所は頤和園の西側、香山の東側です。

金朝の時代(12世紀)から清の時代まで、燕京八景のひとつとして知られました。
戦前、たくさんの日本人が北京で暮らした時代も、代表的な観光地として市内から観光バスが運行されました。古写真にもたくさん出てきます。



域内には乾隆帝の時代につくられた静明園という離宮があり、天下第一泉とよばれた泉が湧き出していました。

高さ約50メートルの山の頂上には玉峰塔とよばれる清代に建てられた7階建て八角形の仏塔がそびえています。

しかし、残念ながらこの玉泉山は現在、軍事管理区になっていて対外開放されていません。
頤和園や香山などからは玉峰塔の美しい姿がよく見えるのですが、立ち入ることはできません。

一番近くまで近づける場所はどこだろうと思い、一度自転車で山の周囲を走ってみました。

玉泉山の軍事管理区には国家主席の私邸があるそうですが、それも頷けるほどの厳重な警備が敷かれています。高い壁に沿って屈強な警備員が100メートル間隔ぐらいで配置されていて、あたりに目を光らせています。それ以外の場所にも監視カメラが所狭しとこっちをにらんでいます。サドルの上から玉峰塔が割と近くで目視できるのですが、おいそれと自転車を一時停車してスマホを取り出したりしたら警備員が飛んできそうです。

頤和園と玉泉山の間にある、両山公園という水辺の多い場所に自転車を置くことができました。

ここを歩いていると、玉泉山の稜線と宝峰塔が目に入ってきました。





玉峰塔は北京で最も標高の高い場所にある塔と言われるだけあって、迫力があります。塔の高さは48メートルあるそうです。

公園内には北京では珍しい水稲が栽培されていました。
この乾燥地帯の北京で水稲栽培ができるのは、ひとえに玉泉山の湧水の恵みがあればこそです。

稲穂越しに宝峰塔をのぞみます。



調べてみると、この地での水稲栽培の歴史は古く、雍正帝の時代にはこの水田を管理する機関を置いていたのだとか。つまり、ここは伝統的な御料農場というわけです。

水田栽培も一度途絶えたものが2000年代になって再開されたようです。歴史を伝える取組というわけです。

ここから玉峰塔まで400メートルぐらいでしょうか。塔はおそらくこの公園が一番玉泉山と玉峰塔に近づける場所ではないかと思います。
近づけないと思うと、ますます近づきたくなるものです。



芥川龍之介は、1921年に北京を訪問した際にここを訪問しています。そのときの記録をこのように記しています。

玉泉山。山上に廢塔あり。塔下に踞して北京の郊外を俯瞰す。好景、萬壽山に勝ること數等。尤もこの山の泉より造れるサイダアは好景よりも更に好なるかも知れず。

この記録によると、芥川が訪れたときには玉峰塔は荒廃していたのでしょうか。いずれにしても山に登って夏の景色を眺めたようです。
また、泉でつくった美味しいサイダーとはどこで飲んだのでしょうか。山の麓に茶店があって、そこで売っていたのでしょうか。

いろいろと想像が膨らみます。
玉泉山は、北京では最も神秘的な景勝地のひとつです。
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頤和園 十七孔橋と昆明湖

2023-10-30 | 北京を歩く
頤和園の昆明湖にかかる十七孔橋は北京を代表する美しい景観のひとつです。



北京の歴史ある橋の代表といえば、これと盧溝橋と紫禁城内の金水橋でしょうか。

十七孔橋は乾隆帝時代の1750年に初めて架けられました。昆明湖の東側の岸から橋を渡っていきつくのは南湖島とよばれる小さい島です。

アーチ橋で文字通り17か所の穴があります。長さは150メートルあります。



欄干の柱には石造りの獅子がさまざまなポーズで彫られています。盧溝橋と同じです。540以上あるそうですが、どれも違う形をしています。この辺りの懲り方はさすがで、いかにも乾隆時代の庭園建築芸術という感じです。



橋の東端と西端には、山獣の大きな石の彫刻が鎮座しています。盧溝橋も同じですが、これもこの手の石橋の定番なのでしょうか。

頤和園はさまざまな施設がアロー戦争や義和団事件で破壊攻撃を受けましたが、この橋は被害を免れました。

1986年に修復が施されたようですが、基本的には当時のままの姿です。

多くの旅人や行商人が行き交った盧溝橋と違って、この橋は高貴な皇室関係者しか使わなかったはずですから、摩耗が少なかったのだと思います。

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頤和園 蘇州街

2023-10-27 | 北京を歩く
頤和園には蘇州街とよばれる、華北の光景とはだいぶ趣の異なる一角があります。



ここは乾隆帝が好きだった江南の水郷の街並みを再現したのだとか。

長さ300メートルほどある谷状になったエリアに水を張り、周囲に江南地方らしい店が並んでいます。





水辺の店舗は実際に営業しているわけではありません。皇帝がここを訪れたときには宮仕えの下部官吏たちが店員になりきって皇帝を喜ばせたのだとか。

あくまで皇帝を喜ばせるための皇室庭園の一角です。商売をしようと店開きをしたとて市井の人々が入ってこられる場所ではありません。

さしづめ、原寸大のジオラマといったところです。

ここもアロー戦争で英仏連合軍に破壊されたものを再建したそうですが、石組みなどの基礎は当時のままでしょう。

たしかに江南の水郷らしい感じはします。

そっくりそのまま、というわけではありませんが、写真のなかった時代によく観察して作ったものです。
今も蘇州や嘉興や湖州、紹興はこんな風景の老街がありますが、乾隆時代から同じ景色だったことがわかります。

しかし、その規模に驚きます。いくら皇帝様の趣味だったからといって、こんな大規模に作るでしょうか。道楽にしては壮大すぎるように思います。

これぞ清朝最大の隆盛を誇った乾隆帝時代ならではなのでしょう。今の常識で考えてはいけないのかもしれません。



当時は今のように便利な交通機関がなかったので、皇帝とてそうそう江南に足を運ぶこともままならなかったでしょうから、好きな街並みを再現したい、という気持ちになるのも理解できなくもないですが、とはいえこの規模には驚きしかありません。

ここで遊んだ乾隆帝はどんな気持ちだったでしょうか。満足したでしょうか。叶うものなら当時の乾隆帝にインタビューしてみたいものです。
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北京魯迅記念館 / 旧居

2023-10-24 | 北京を歩く
阜成門近くの魯迅博物館/旧居に行ってみました。



紹興生まれの魯迅が北京で暮らしたのは1912年から26年までの14年間です。

狂人日記や阿Q正伝や孔乙己などの代表作を書いたのは北京です。

ここは北京での最後に住まいとなった場所だそうです。





旧居の西側に博物館があり、魯迅の生涯が生い立ち順に展示されていました。



魯迅がここで暮らしたのは1924年から26年までの比較的短い時間でした。
住んでいたのはごく普通の小さな四合院でした。



魯迅はこの小さな部屋で、「野草」などの作品を書き上げたのだとか。







これは上海で暮らした晩年に書いた手紙だそうです。
虹口の日本租界にあったの横浜橋という地名が記されています。

施設の一角には藤野厳九郎の銅像が立っていました。





僕は中国で初めて日本人の銅像を見たように思います。少なくともこの北京で日本人の銅像は唯一ではないでしょうか。

魯迅といえば、僕は紹興の咸亨酒店に何度も行きましたし、上海虹口の魯迅記念館にも何度か行きましたし、神田神保町の内山書店にもよく行きました。何かとご縁を感じます。

この訪問を機に、若いころに読んだ狂人日記や阿Q正伝などの代表作を改めて読み直してみました。

魯迅の作品は読みやすくてそもそも普通の小説として面白いのですが、あの時代のこの国でよくこんな波紋を呼びそうな作品を書いて堂々と社会に問題提起をしたものだと思いました。

魯迅が訴えかたったメッセージは、現代になってもこの国に変わらずに鋭い問いかけを続けているように思います。



よい訪問になりました。
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朝外THE BOX − 斬新な空間デザインのショッピングエリア

2023-10-21 | 北京を歩く
この夏、朝陽門内大街の東岳廟の向かいに新しい商業施設がソフトオープンしました。

その名も、「THE BOX」といいます。



これまでのショッピングモールとはだいぶ趣が異なり、アート感覚があふれていて斬新な空間デザインです。単なる買い物や食事をする場所ではなく、体験や交流を複合的に楽しむ空間になっているようです。ショップとショップとの間が曖昧だったり、二階の道路に面した部分にバスケットボールのコートがあったりと、なかなか実験的なつくりになっています。







いわゆるZ世代向けの施設なのだと思います。

とはいえ今の中国はネットショッピングの隆盛と国民の消費意欲の鈍化を受けてモールやリアル店舗はどこも集客に苦しんでいるので、新機軸としてこういう複合型の施設を打ち出したのでしょうか。



報道によると、ここには蔦屋書店が入ることになっているようですが、今回は見当たりませんでした。今後オープンするのでしょうか。

かつてここは昆泰商場というビルでした。僕はこの地下一階に入っていたウォルマートを日々の食料品を調達するスーパーとして重宝していたのですが、2021年に閉店したと思ったらビルが取り壊されてしまい、今年になってこんなおしゃれスポットに生まれ変わりました。

20年近く前の中国ではショッピングモール自体が珍しかったわけですが、こうした商業施設の進化はもはや日本を超えているかもしれません。





今後も注目してみようと思います。

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頤和園 石舫 - 芥川が酷評した大理石の船とは

2023-10-18 | 北京を歩く
頤和園に行ったことがない人でも、昆明湖に浮かぶこの船の写真に見覚えのある方は多いと思います。



たしか、北京首都国際空港の国際線到着ターミナルにこの大きな写真があったと思います。

大理石でできています。本当の船ではありません。水上の建造物です。石舫または清晏舫とよばれています。



乾隆帝時代の1755年に建てられました。当初船の上には中国風のキャビンの部分があったそうですが、アロー戦争で英仏連合軍によって破壊され、それを1893年に外国遊覧船を模倣して2階建のこんな豪華絢爛なデザインにして作り直したのだとか。

2階部分は大理石と木材を組み合わせて使っているようです。

西太后が夏に昆明湖の景色を楽しんだ後の休憩場所として利用されたそうです。



これは1936年ごろの写真です。

1921年に北京を訪問した芥川龍之介は頤和園を訪ねていますが、この石舫について、著書「北京日記抄」では次のように表現しています。

柳の垂れたる池の邊に醜悪なる大理石の畫舫あり。これも亦大評判なるよし。石の船にも感歎すべしとせば、鐵の船なる軍艦には卒倒せざるべからざらん乎。

いかがでしょうか。

池には今も柳が垂れています。

芥川は機嫌でも悪かったのかこの船がお気に召さなかったようで、かなりの酷評ぶりです。
芥川がこれを見たのは西太后による再建から30年そこそこでしたので、まだ再建当時の装飾が色濃く残っていたと思います。

今はそこからさらに100年が経過していることもあってほどよく風化して、「醜悪」という印象は感じません。





中国では公園などでときどき池に浮かぶ石の船を見かけますが、たぶんこれが一番有名な石舫かもしれません。

これは北京の日壇公園で見かけた石舫です。日壇も歴代皇帝が祈祷した場所でしたが、この船はいつ造られたものなのかわかりません。

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頤和園 万寿山/仏香閣

2023-10-09 | 北京を歩く
万寿山と仏香閣は、頤和園のシンボルといえるスポットです。

乾隆帝の時代に昆明湖をつくるために採掘した土砂を積み上げた高さ59メートルの築山である万寿山は、およそ人工のものとは思えません。



この山の湖側・南側斜面に張り付くように仏香閣がそびえます。



あまりに有名なのでここでの説明は省きますが、清朝の皇帝の力を示すのには十分な景観と規模感を今に伝えます。

仏香閣はその後アロー戦争で英仏連合軍に破壊されたのち、西太后が莫大な再建費用を投じて1894年に再建しました。清朝末期の混乱の時代です。

高さ36メートルの八角形三層の仏閣の姿は手が込んでいてかなり複雑に作り込んでいることがわかります。





あまり見かけない形ですが、破壊される前からこの形だったのでしょうか。



皇帝建築らしく緑と黄色の瑠璃瓦で覆われています。

再建から180年近くが経過しますが、近くで見るとそんなに古さは感じません。

世界遺産ですので国が関与してきっちり手入れが施されているのだと思いますが、ともあれ、見応え十分です。

西太后は毎月1日と15日にここに来て焼香して、誕生日のお祝いをしたのだとか。



1599年製とされる千手観音像です。



北京市内は平地なので、こうやって高低差がある景観に出くわすとより美しさを強く感じます。

広大な昆明湖を1周してみましたが、ほとんどの場所から仏香閣は視界に入りました。
湖越しに見る万寿山の景色はなんとも美しく、歴代皇帝を楽しませたことでしょう。

北京の中心地からここまでは約20キロほどあります。
歴代皇帝たちは水路を船に乗ってここまで来たのだと思います。

頤和園はかつて日本軍が北京を支配していた時代にも日本人向けの定番観光地としてにぎわいました。当時の文献や古写真にもよく出てきます。









日本人は頤和園より万寿山という呼称で頤和園全体を表していたようです。

西太后による頤和園造営計画はちょうど日清戦争の頃で、当時の北洋海軍の戦費を流用して頤和園再建に充てたことが清国の敗戦の一因になった、と伝わります。

歴史的にみればそんな微妙な側面を持つ頤和園ですが、1948年に発行されたこの国初の20元札のデザインにはこの頤和園の万寿山/仏香閣が採用されています。

今の20元札デザインは桂林ですが、かつてはここでした。



頤和園は英語にすると、Summer Palaceです。
いつからこういう言い方をしているのか知りませんが、たしかに夏に来るのが一番美しい景色を楽しむことができそうです。



一番上まで登ると、西側には玉泉山と香山が見えます。







仏香閣は、浅田次郎の小説「蒼穹の昴」の最後の場面で出てくる場所です。

主人公の春児はこの仏香閣で西太后と2人きりになって言葉を交わします。
西太后から、自分の持っているものすべてをくれると告げられた春児は、初めて西太后に向かって自分の田舎言葉を使って、こんな糞まみれの手にお宝なんかもらっちゃいけないのだと断り、西太后もまた自分の本音を語ります。

とても印象的な、感動的なシーンです。

頤和園は、今や世界文化遺産として北京を代表する人気観光地です。
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北海公園 小西天 - 母親のためにここまで?

2023-07-08 | 北京を歩く
北海公園の北西角に、小西天とよばれる大きな宮殿建築があります。





これは、清朝の第六代皇帝・乾隆帝が母親である孝聖憲皇后の祝寿を祈って建てたものだそうです。
孝聖憲皇后の母親は、五代皇帝・雍正帝の側室でもあります。



ずいぶん立派な建物です。総面積は1200㎡もあるとか。
方亭式とよばれる伝統的な宮殿建築スタイルで、この方式では中国最大とされています。

建物の四方は水路で囲まれ、東西南北にそれぞれ瑠璃の大きな牌楼が設えられています。





この牌楼ひとつとっても相当手が込んでいて豪華絢爛です。

1768年に建築が始まり、1770年に完成したそうです。
孝聖憲皇后は1692年生まれですから、この宮殿が完成したときにはすでに78歳だったことになります。これを贈られた皇后はどう思ったのでしょうか。

なんとも派手な母親へのプレゼントです。
乾隆帝はことのほか母親を大事にした皇帝だったらしく、しかも元来派手好きだったとされていますが、それにしてもこの公私混同ぶりは驚きます。

なにかと剛腕ぶりが伝えられる今の国家主席もここまではやらないでしょう。

乾隆帝の時代は清朝の最盛期です。当時の皇帝の財と権力が偲ばれます。

中国はこの70年後に英国からアヘン戦争を仕掛けられて衰退への道を辿るわけですが、この辺りからほころびの兆しが見えてくるようです。

今の派手派手な姿は最近修復されたもののようです。

宮殿の内部には多くの普陀像や羅漢像が収められているそうです。願わくば、一度入ってみたいものです。



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扶桑館のあった場所 - 100年前の芥川龍之介の足跡を訪ねる 

2023-06-26 | 北京を歩く
前回に続いて、芥川龍之介の足跡を訪ねます。

扶桑館は、日本人が経営する和式旅館でした。

設立は1906年で、和式のホテルとしては北京では随一だったと伝わります。



1921年の夏、北京を訪れた芥川龍之介はこのホテルに約1か月間滞在しました。



この植え込みのあたりに、2階建てのホテルがありました。客室数は19部屋だったそうです。



北京最高の和式旅館ですから、北京を訪問した多くの日本の要人がここを利用したことでしょう。軍部の利用もあったと思われます。

芥川は滞在中、ここに胡適(1891-1962、学者・哲学家・思想家)を招いて和食の夕食をともにしています。

その際、胡適はこのホテルのダイニングで靴を脱いであぐらをかいて座り、初めて日本食を食べたことを明かしています。

そして、旧劇などの話題について熱心に語り合ったと述べています。北京滞在中の芥川は、熱心に旧劇の劇場に出入りしたといいますので、相当に演劇熱が高まっていたのでしょう。当時はまだ京劇が確立していなかった時期です。

日中の気鋭の若き文化人が熱く文化議論を交わしたというわけです。

その一方、中国の旅の間体調を崩していた芥川は北京滞在中にも腹の調子を悪くして、医師にもかかったというエピソードを手紙を残しています。

扶桑館は設立当時は個人資本のホテルでしたが、1925年に満鉄が資本参加して、1931年には満鉄の直営ホテルになりました。つまり、ヤマトホテルグループです。



東単牌楼のあった場所に架かる歩道橋からの眺めです。
左側のバス停や植込みのある場所が扶桑館のあった場所です。



歩道橋から逆側(南側)をのぞみます。長安街と東単大街が交わります。

惜しむらくは、扶桑館に関しては残されている記録が少ないことです。公開されている写真もほとんどありません。

いつ頃取り壊されたのかもわかりません。

歴史上はなかなか重要な場所なだけに、この辺りは今後の研究課題にしようと思います。
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