HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

柏樹胡同と東単牌楼 - 100年前の芥川龍之介の足跡を訪ねる

2023-06-23 | 北京を歩く
芥川龍之介は北京に滞在したことがあります。

1921年(大正10年)、当時29歳の芥川は大阪毎日新聞の特派員として中国各地を取材して回りました。

北京を訪れたのはこの旅の後半で、6月から7月にかけての約1か月間でした。

芥川は北京での訪問記を「北京日記抄」として残しています。発表したのは旅の4年後となる1925年です。

このほか、さまざまな文献から芥川の北京での足跡や訪問当時の心境が明らかになっています。



芥川は中国の長旅で心身を病み、嫌気がさしていたようですが、北京の印象はことのほかよかったようです。

今回は、この「北京日記抄」に記されている辜鴻銘(1857—1928、学者・翻訳家)を訪問した時の足跡をたどってみました。

まずはその部分の原文を記してみます。

この原稿は、国立国会図書館デジタルコレクションで芥川の手書き原稿を閲覧することができます(ココ)。

コマ番号8ページから始まります。なんとも便利でありがたいことです。

二 辜鴻銘先生

 辜鴻銘先生を訪う。ボイに案内されて通りしは素壁に石刷の掛物をぶら下げ、床にアンペラを敷ける庁堂なり。ちょっと南京虫はいそうなれど、蕭散愛すべき庁堂と言うべし。
 待つこと一分ならざるに眼光烱々たる老人あり。闥を排して入り来り、英語にて「よく来た、まあ坐れ」と言う。勿論辜鴻銘先生なり。胡麻塩の辮髪、白の大掛児、顔は鼻の寸法短かければ、何処か大いなる蝙蝠に似たり。先生の僕と談ずるや、テエブルの上に数枚の藁半紙を置き、手は鉛筆を動かしてさっさと漢字を書きながら、口はのべつ幕なしに英語をしゃべる。僕の如く耳の怪しきものにはまことに便利なる会話法なり。
 先生、南は福建に生れ、西はスコットランドのエディンバラに学び、東は日本の婦人を娶り、北は北京に住するを以て東西南北の人と号す。英語は勿論、ドイツ語もフランス語も出来るよし。されどヤング・チャイニィイズと異り、西洋の文明を買い冠らず。基督教、共和政体、機械万能などを罵る次手に、僕の支那服を着たるを見て、「洋服を着ないのは感心だ。只憾むらくは辮髪がない」と言う。先生と談ずること三十分、忽ち八九歳の少女あり。羞かしそうに庁堂へ入り来る。蓋し先生のお嬢さんなり。(夫人は既に鬼籍に入る。)先生、お嬢さんの肩に手をかけ、支那語にて何とか囁けば、お嬢さんは小さい口を開き、「いろはにほへとちりぬるをわか……」云々と言う。夫人の生前教えたるなるべし。先生は満足そうに微笑していれど、僕はいささかセンティメンタルになり、お嬢さんの顔を眺むるのみ。
 お嬢さんの去りたる後、先生、又僕の為に段を論じ、呉を論じ、併せて又トルストイを論ず。(トルストイは先生へ手紙をよこしたよし)論じ来り、論じ去って、先生の意気大いに昂るや、眼は愈炬の如く、顔はますます蝙蝠に似たり。僕の上海を去らんとするに当り、ジョオンズ、僕の手を握って曰いわく、「紫禁城は見ざるも可なり、辜鴻銘を見るを忘るること勿れ。」と。ジョオンズの言、僕を欺かざるなり。僕、亦また先生の論ずる所に感じ、何ぞ先生の時事に慨して時事に関せんとせざるかを問う。先生、何か早口に答うれど、生憎あいにく僕に聞きとること能わず。「もう一度どうか」を繰り返せば、先生、さも忌々しそうに藁半紙の上に大書して曰、「老、老、老、老、老、……」と。
 一時間の後、先生の邸を辞し、歩して東単牌楼のホテルに向えば、微風、並木の合歓花を吹き、斜陽、僕の支那服を照す。しかもなお蝙蝠に似たる先生の顔、僕の眼前を去らざるが如し。僕は大通りへ出ずるに当り、先生の門を回看して、――先生、幸に咎むること勿れ、先生の老を歎ずるよりも先に、未だ年少有為なる僕自身の幸福を讃美したり。

以上です。いかがでしょうか。

辜鴻銘の住まいがあったのは今の東城区柏樹胡同です。





当時の邸宅はすでに取り壊されていますが、場所は柏樹胡同26号という情報と30号(旧王府井旅館)という情報があります。
両者は30メートルぐらい離れていますが、どちらでしょうか。あるいは、両方そうなのでしょうか。



ここが26号です。





この建物が30号です。今は「人民小酒文化館」というレストランになっています。

芥川はこの辺りで辜鴻銘と段祺瑞やトルストイについて論じました。

当時29歳の芥川に対して、辜鴻銘は64歳になろうかという年齢です。

芥川は辜鴻銘との面会を終えた後、ここから歩いてホテルまで戻りました。

僕もその道をたどってみることにします。



日記では斜陽に照らされたことが記されているので、時間は日没前の18時台といったところでしょうか。

夏至の頃ですから日は長かったはずです。

柏樹胡同を東側に向かって歩きます。幅は7メートルほどの道です。

さて、紀行文によると、芥川は道中で合歓(ネムノキ)の花を愛でたようですが、その木は今もあるでしょうか。

丁寧に見て回りましたが、ネムノキらしい木は見当たりませんでした。この辺りは槐(エンジュ)が多いようです。



この槐の老木は樹齢100年は越えていそうです。おそらく芥川が訪ねたときからあったのではないでしょうか。



ひょっとしたら、芥川は北京市内の別の場所で見たネムノキの記憶をここに重ね合わせて表現した、という可能性もあるかもしれません。

なにしろ紀行文を発表したのは帰国から4年後のことです。取材メモを見ながらの執筆だったはずです。

北京では今もネムノキをよく見かけます。6月ごろに咲く白と紫の花はとても可憐で美しいものです。



この老建築も古そうです。リノベーションしていますが、元々は当時からあったものでしょう。



柏樹胡同を300メートルほど歩くと、東単北大街に出ました。



芥川が紀行文で「大通り」と説明しているのはこの突き当りの通りです。

芥川はここで西側の胡同を振り返っています。



これが振り返った景色です。芥川と同じ目線で見た景色です。

紀行文では「先生の門を囘看し」とありますが、ここから辜鴻銘邸までは相当距離があります。

一直線ですが、本当に門が見えたのかは疑問です。
あるいは景色の中に溶け込む門を心で見た、という意味なのかもしれません。

芥川はこの東単大街を右折し、南側にある「東単牌楼のホテル」に向かいます。



東単牌楼とは、芥川は地名として用いていますが、その名のとおり東単にあった牌楼でした。

牌楼とは、ちょっと乱暴なたとえですが、いかつい鳥居みたいなものと思えばよいと思います。

場所は長安街と東単大街の交わる場所です。当時北京最大の繁華街のひとつだった東単大街の南側の入口に構えられていたランドマークでした。



牌楼は交通の妨げになったため、1923年に取り壊されました。芥川の訪問の2年後のことです。

芥川が宿泊していたホテルは扶桑館という名前だったことが分かっています。これも建物は残っていません。



10分ほど歩くと、扶桑館があったと思われる場所に着きました。





古地図で照合すると、ホテルはこの植込みのある場所に建っていたようです。



東単牌楼が建っていたのは、この歩道橋のあたりだと思われます。

歩道橋に登ってみます。



芥川は向こう側からこちら側に歩いてきました。中央奥の植込みが扶桑館のあった場所です。

この通りを中華服を着た29歳の芥川が歩いたと。

扶桑館の話は次回に続きます。
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北海公園で再び遭遇 - 北京特別市公署?のマンホール蓋

2023-06-17 | 北京を歩く
北京の北海公園で、再び「あの」マンホール蓋を見かけました(2020年12月19日の日記)。



日本の「名古屋市型」とよばれるデザインのマンホール蓋です。

場所は北海の西側湖岸の歩道の中央付近です。30メートルぐらいの間隔で数個が連なっています。



このマンホール蓋の正体探しは、北京での暮らしを始めてすぐの2020年11月に西単付近で見つけて以来、ずっと研究テーマにしてきました。

いつの時代に、どの行政自治体によって設置されたのか、中央の「京」の文字をアレンジしたと思しき意匠はどこの機関のシンボルマークだったのか、さまざまな資料を当たって探してきました。

昨年一時帰国をしたときには国立国会図書館にも行って調べてみました。もうこの探し物にはずいぶん時間を費やしました。

しかし、遺憾なことになかなか突き止められません。

1937年以降の日本占領時代に日本企業によって製造されたものである可能性が高いと推測します。仮にそうでなかったとしても、日本企業が何らかの形で関わっていることは間違いないと見立てます。

今回、この場所で見つかったことで、2つの点でより確信に近づきました。

まず、北海公園は日本占領時代の日本人に指折りの人気観光地だったという点です。

当時発行された書物には北海公園の写真がよく出てきます。
1938年に北京特別市公署が発行した北京の日本語周遊観光バス案内によると、バスが訪れる観光地は4か所あり、北海公園がその最初です。その後、頤和園、玉泉公園、故宮を周っています。

そのような人気の観光地であれば、管理側は優先的に整備を進めるはずです。



マンホールの場所からは湖越しの白塔がきれいに見えます。

もう一つは、現在、北海公園管理者は来場者に対して、このマンホール蓋を踏まないように注意喚起をしている点です。経年劣化で壊れる可能性があるからです。
すなわち、この蓋は相当古いということを示しています。

この蓋が撤去される日はそう遠くなさそうです。

ここまで調べてきた段階での僕の見立てをご紹介しておきます。あくまで仮説です。

株式会社大連鋳造所、あるいはその協力工場が製造したという可能性です。



1937年から40年代前半までに日本国内で発行された企業名簿を調べていくと、中国大陸で北京(北支)を販路にしていたことが確認できる日本資本の鋳造会社はここしかありません。

当時、北京で鋳造を行っていた日本企業は文献からは確認できません。したがって、このマンホール蓋は北京以外の場所で作られた可能性を優先して考えます。

株式会社大連鋳造所は1920年創業です。会社が所在したのは大連市三春町(現在の鞍山路と東北路の交差点付近)でした。

同社は水道ガス関連用品、鉄道車両用品、線路信号用品、船舶部品などを製造したそうです。
マンホール蓋を作ったと直接的に書かれている文献は見つかっていませんが、取扱製製品のひとつに「鉄蓋」ともありますので、マンホール蓋を製造していた可能性があります。

文献によると、販路は関東州、満洲国、北支とあります。
主要取引先は関東州庁、満鉄、南満州ガス、満洲電業などのほか、華北交通株式会社の名前もあります。

同社の取引先だった関東州庁と満鉄は、今回発見のもの同じデザインとのシンボルマーク入りのマンホール蓋が実在するので、取引があったことが分かります。



しかし、分かっているのはここまでです。
まだ断定できるだけの情報には届いていません。あと一歩です。

どなたか、手掛かりになる情報をお持ちの方はぜひご一報ください。
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蔡元培旧居

2023-06-05 | 北京を歩く
東城区東堂子胡同にある蔡元培旧居です。



蔡元培(1868-1940)は、民国時代の教育家、革命家、政治家でした。
紹興生まれです。

民国の初代教育総長であり、国民党の四大元老の一人であり、北京大学の学長も務めました。
ドイツとフランスに留学して様々な学問を習得・研究し、男女共学など西洋式の教育制度を取り入れた国民教育や思想教育に大きな影響を残したとされます。

満洲事変後は、抗日運動にも力を尽くしました。

米国の哲学者だったジョン・デューイとも交流があり、デューイをしてこう言わしめたそうです。

「見渡す限り、今日の有名な大学には、学術的に卓越した学長がいる。しかし、自分の力で国家や民族に深い影響を与えることができたのは、蔡元培が初めてだった」





蔡はここに1917年から1920年まで暮らしたとされています。

北京大学学長だった時代で、五四運動(1919年)の頃です。

蔡は五四運動にも大きな影響を与えた人物で、五四運動の「精神的指導者」とも呼ばれています。

すなわち、この国にとってここは五四運動の聖地という意味で重要なのだと思います。

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左安門値房 - 現存する城門守備隊の詰所

2023-06-02 | 北京を歩く
北京外城の左安門に、小さな平屋建ての老建築がポツンと残っています。



これは、「値房」とよばれた北京城の城門の守備軍が駐屯し、宿直するための家屋だったそうです。面積は150㎡ほどです。

北京城には、内城で9つ、外城で7つ、皇城で4つと、計20の城門がありましたが、「値房」が残っているのはここだけだそうです。

左安門値房は明代の1553年に建てられたとされていますが、この木造建物はその後再建されたものでしょうか。





いずれにせよ、建築物としての価値というより、地理的な価値が注目されているとのだと思います。

全国重点文物保護単位になっています。



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北平中法大学旧趾

2023-05-22 | 北京を歩く
かつて北京に存在した中法大学の校舎跡を見学してきました。

東城区の皇城跡がある東皇城根北街です。





ここでいう「法」とはフランスのことです。すなわち、中国フランス大学です。

中仏大学は中国共産党早期活動地の一つとされていて、いわゆる革命文物、愛国主義基地です。



西洋建築と中華趣味の混合建築です。
建設から100年近くが経ちますが、今も良好な状態を保っています。おそらく修復工事も行われたのだと思います。

中法大学は、20世紀初めのフランス留学勤続運動に由来していて、その前身は民国時代初期に蔡元培らが組織した留法勤倹学会が創設した法文予備学校だそうです。

1920年に中法大学西山学院と改称され、蔡元培が初代学長を担いました。

1925年に一部の学部がここに移転し、中法大学校本部の所在地となりました。

ここで学んだ学生たちがマルクス主義者となって近代中国の革命に重要な貢献を果たした、というわけです。

中法大学は1950年に北京工業学院に編入されました。





一般公開はされていません。

北京市文物保護単位です。

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天津解放北路 光明大楼 - 「34 LUX」の謎

2023-05-10 | 北京を歩く
近代歴史建築が連なる天津の解放北路でみかけた洒落た6階建て(一部は7階建て)の洋館です。

これは1932年に建てられたという光明大楼とよばれる鉄筋コンクリートのビルです。



建築当時はアパートでした。
当時、リトルビクトリアビルともよばれていたようですが、これは当時、今の解放北路がビクトリアロードとよばれていたことに由来するでしょうか。

場所は旧フランス租界ですので、住んだのはフランス人だったのでしょうか。
1932年の天津で7階建ては珍しかったはずなので、目立っていたと思います。

現在、建物は住宅や商業施設として利用されています。
建物の面積は約300m²あるそうです。

建物内にはエレベーターが備えられているそうですが、30年代前半のエレベーターはどんな感じなのでしょうか。

ところで、玄関の格子に「34 LUX」という文字が嵌め込まれています。
これは建築当初からあったような雰囲気ですが、これは何を指しているのでしょうか。

LUXといえばユニリーバの石鹸のラックスを想起します。ラックスの事務所がここに入っていたのでしょうか。
調べたところ、ラックスの石鹸は1924年には中国に進出していたようですから、そうであっても不思議はありませんが、結局分かりませんでした。

では、34はなんでしょうか。当時の番地なのか、1934年を指しているのか、これも判然としません。

ネットで調べたところ、2020年に地元の天津日報がこの謎解きに挑戦したようですが、彼らも突き止められず、読者にヒントを求めたようです。
まあ、そういうミステリーはすべて解き明かさず、残しておくのもおもしろいものです。

プレートは見当たりませんでしたが、天津市重点保護建築になっているようです。
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大柵欄 裕豊烟舗

2023-04-22 | 北京を歩く
前門大柵欄のこの建物は、民国時代の1920年代に建てられたものです。



かつて裕豊烟舗とよばれた有名な嗅ぎタバコ店だったそうです。

二間続きの3階建てです。



黒レンガ積みで凝った彫刻が施されていて、いかにも民国時代の北京の建物らしい風格です。



この一帯は中華老字号の酒楼や茶楼や商店、娯楽施設がひしめていて、往時の賑わいをそのまま残しています。

最近、大柵欄一帯はいつ訪問しても多くの人出で賑わっています。

さすが北京有数の観光地だけのことはあります。
コロナの時期とは比ぶべくもありません。

これが本来の街の姿なのだろうな、と思います。
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西城区 北新華街110号建筑

2023-04-19 | 北京を歩く
北新華街を歩いていたら、こんな2階建てのレンガ造りの洋風近代建築を見かけました。



民国時代の建築のようです。1920年代でしょうか。





この後ろ側は后細瓦廠胡同で、この建物が胡同への入口のようになっています。西交民巷のすぐそばです。

西城区から文物に指定されているようですが、当時はどんな用途で使われていたのでしょうか。

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北京中軸線 - 左右対称の大都の中央を貫く800年の道

2023-03-23 | 北京を歩く
北京の城内は京都や奈良のように街が碁盤の目のように規則正しく区画されています。こういう都市づくりを条坊制とよぶそうです。

その中央を南北にまっすぐに貫く道があります。中軸線といいます。

北京城内の街は左右対称になっていて、その中心にあるのが中軸線です。

すなわち、北京市街を1枚の大きな紙に見立てて、中軸線を折り目にして半分に折ると、道路や城壁がぴったり合う、というわけです。

この左右対称の街づくりが始まったのは元の時代の1267年です。

中軸線の距離は約7.8キロあります。現在、中国はこの中軸線をユネスコ世界遺産に登録する動きを進めています。

世界遺産になる前の中軸線を歩いてみようと思います。

南から北に向かって歩きます。

南端は永定門です。北京城の南の玄関口です。





永定門は1553年に建立されました。1957年にいったん解体され、2004年に再建されたものだそうです。
今の迫力ある城台の姿は当時の姿をそのまま復元したのでしょうか。

永定門から北側は永定門公園になって市民に開放されています。



これは城門の外側(南側)です。



これは内側(北側)。





この敷石はいかにも古そうです。元代か明代かわかりませんが、いにしえの人々が踏みしめてきた敷石なのでしょう。



2キロほど北上すると、前門大街の賑やかな商店街に到達します。



かつてはここに路面電車が走っていたそうです。



前門大街は北京の下町で、いわば上野や浅草みたいなところです。
さまざまな老子号の老舗が立ち並びます。街並みは2000年代以降に大規模な修復が行われたらしく、壁の色調がグレーに統一されています。

前門大街を過ぎると、前門と正陽門が縦一列に並びます。往時には北京内城の城壁が東西に伸びていました。

ここから北は天安門広場です。

長安街を越えると天安門です。故宮です。



東側から迂回します。

故宮の北側の出口、神武門です。





景山です。

景山公園を過ぎると、地安門内大街です。



向こう側に見えるのは景山です。

什刹海公園が近づいてきます。



萬寧橋も中軸線の一部です。

こんなに長い直線道路は日本ではなかなか見かけません。東京のJR中央線が新宿から八王子に向かって真っすぐ伸びていますが、あれにちょっと近いかもしれません。



鼓楼と鐘楼が見えてきました。ここがゴールです。



こういう区画の大きい条坊制の都市は、便利なところと不便なところの両方がありますが、こういう楽しみ方は北京ならではといえます。

現在、北京中軸線は2013年にユネスコ世界遺産の暫定リストに登録されているそうです。
今年はそこから10年になるわけですが、正式登録のニュースが届くでしょうか。
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大観楼 - 中国映画発祥の地

2023-03-11 | 北京を歩く
大柵欄のメインストリートに大観楼とよばれる映画館があります。



ここは「中国映画発祥の地」とされています。1905年にここで初めて中国映画が上映されたのだとか。

1902年、「中国映画の父」とされる任慶泰は、ここにあった茶屋を買い取り、大観楼と名付けました。そして1905年に「定軍山」という中国初の京劇映画を上映したと。

2005年には100年間映画を上映し続けたため、世界ギネス記録として登録されたのだとか。



今も現役の映画館として活躍しています。

レンガ積みの建物は清代末期らしいつくりですが、2000年代に復元されたようです。一度全部を壊して再建したのか、修復したのかはわかりません。



ホワイエも古い映画館らしいレトロな雰囲気があります。

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西海 / 積水潭

2023-03-08 | 北京を歩く
北京の西海は什刹海公園の3つの池のうち、もっとも西側です。

積水潭ともよばれる場所です。







水路で后海につながっていて、北側は二環路を隔てて北護城河に接続します。



北海、中海、南海の「前三海」に対して、この西海、后海、前海は「后三海」とよばれます。

周囲には古刹が連なり、緑豊かで美しい湖畔の風景を見せてくれます。

西海は、元の時代には西側の玉泉山や永定河と水路で繋がっていて、さらに京杭大運河の一部として開削された通恵河にも分水されていたそうです。

往時はここを南方から食糧などを積んだ船がたくさん往来しました。

この元代の歴史的な土木工事の設計や指揮を担ったのは郭守敬(1231-1316年)という元代を代表する優れた科学者でした。

西海の北端にある北西小島の築山の頂上に、匯通祠という明の永楽時代につくられた寺院の跡があります。





ここは今、郭守敬記念館としてこの一大土木事業の成り立ちの展示をしています。



元の時代の積水潭は今より西側に向かってかなり広かったようです。
積水潭医院の敷地内にその頃の名残りの水溜りがあります。

この人が郭守敬だそうです。



とても勉強になる展示でした。

清乾隆匯通祠詩碑です。



乾隆帝の時代だった1761年、匯通祠の修復の際に建てられた石碑です。高さ2.43メートル、方形の台座に竜頭が乗っています。



かつては匯通祠の玄関の正面(南側)にあったようですが、今は北側の二環路沿いの麓付近に移動しています。
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北海公園 五龍亭

2023-03-05 | 北京を歩く
五龍亭は、北海の北岸に接してせり出すように並ぶ5つの東屋です。







歴代の皇帝たちが月見や釣り、花火を楽しむ場所だったそうです。



眼前には美しい北海の湖面が広がり、中央に瓊華島と白塔が浮かびます。壮観です。



1602年につくられ、修復を繰り返してきたそうです。
ここで湖面に写った月を愛でながら酒を飲んだら、それは最高だろうな、と思います。

南側を向いているので、満月や上弦の月が瓊華島の上にきれいに見えそうです。そういう月の出入りと満ち欠けも計算に入れての、ここだったのでしょうか。



5つの東屋のうち、真ん中の一番湖の奥までせり出したものが皇帝用だったと。
たしかに、これだけ一回り大きいようです。

乾隆帝時代の1763年に木製だった橋を石橋に替え、欄板と柱を取り付けたそうです。乾隆帝は月見が好きだったそうですから、ここはお気に入りの場所だったのではないでしょうか。





船着き場の跡らしきものが残っていました。皇帝はここで船を乗り降りしたのでしょうか。



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大観楼 - 中国映画発祥の地

2023-02-27 | 北京を歩く
大柵欄のメインストリートに大観楼とよばれる映画館があります。



ここは「中国映画発祥の地」とされています。1905年にここで初めて中国映画が上映されたのだとか。

1902年、「中国映画の父」とされる任慶泰は、ここにあった茶屋を買い取り、大観楼と名付けました。そして1905年に「定軍山」という中国初の京劇映画を上映したと。

2005年には100年間映画を上映し続けたため、世界ギネス記録として登録されたのだとか。



今も現役の映画館として活躍しています。

レンガ積みの建物は清代末期らしいつくりですが、2000年代に復元されたようです。一度全部を壊して再建したのか、修復したのかはわかりません。



ホワイエも古い映画館らしいレトロな雰囲気があります。
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北海公園 鉄影壁と鉄影壁胡同

2023-02-18 | 北京を歩く
北海公園内に、鉄影壁とよばれる元朝時代に製造された珍しい影壁があります。



影壁とは住宅や施設の玄関前に置いて通行人や部外者の視線から遮るための壁です。かつての北京にはたくさんあったそうです。



鉄影壁とよばれていますが、鉄製ではなく火山岩を削ってつくられたものです。
鉄のように見えたからそのように名付けられたのだそうです。



片方の面には刺繡の玉を転がす4頭の獅子が、もう一方の面にはユニコーンが描かれています。



北京城の形成初期につくられた貴重な遺構です。

もともとは徳勝門の外側の古寺の前にあったそうですが、後に徳勝門の内側にある鉄影壁胡同に移され(これが鉄影壁胡同という地名の由来になったと)、さらに現在の場所に移設されたと伝わります。

この影壁にはこんな伝説があるそうです。

昔、北京の幽州に二匹の龍がいました。北京に城壁が築かれた後、龍は龍公・龍婆と名乗る老人と妻に姿を変え、平和な生活を送っていました。
ある年、北京では突然北西の風が強く吹くようになりました。ときには3、4日続き、そのたびに数センチの土砂が積もりました。心配した心優しい龍公と龍婆は、このまま風が吹き続ければ、北京は遅かれ早かれ土に埋もれてしまうと心配しました。相談した結果、二人はどこから風が吹いてくるのか、探してみることにしました。
二人が元朝の古い城門である建徳門(現在の徳勝門)に来たとき、奇妙な光景を見ました。
城壁の下に、50代とおぼしき老婆と15、16歳の幼い子どもが座っていました。二人とも黄色の袋を手に持っています。老婆はその袋に砂と土を、子どもの方は綿を入れていました。そして彼らは「我々にこの北京を埋められないわけがない」と話し合っていました。そうです。北京を悩ませてきた大風はこの二人の仕業だったのです。二人は風婆と雲坊で、どうやって北京の街を埋めようかという計画を話し合っていました。
これを聞いた龍公と龍婆があわてて止めに入ると、風婆と雲坊は手に持っていた袋をひっくり返し、砂と黒い雲が勢いよくこちらに向かってきました。これを見た龍公と龍婆は、二人で力を合わせてそれぞれくしゃみをして清水を吹き出し、砂と雲が飛び散るのを食い止めました。
これ以降、北京の風と砂は少なくなりました。
龍神を祀り、風婆と雲坊が再び災いを起こさないよう、この美しい影壁が建てられました。

いかがでしょうか。
北京の人々はこういう寓話を作るのがなかなか得意なようです。

かつて、北京には「金、銀、銅、鉄、錫」の五大影壁とよばれる影壁が各地に点在していましたが、数百年の時を経て、現存しているのはこの鉄影壁だけだそうです。

元々鉄影壁があったと言われる鉄影壁胡同にも行ってみました。



こんなに狭い胡同です。



胡同の中央付近に護国徳勝庵という古刹の跡地があります。



鉄影壁はこの寺の山門の前にあったそうです。



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北海公園 九龍壁

2023-02-03 | 北京を歩く
北海公園内の九龍壁です。



乾隆帝時代の1756年の製造だそうです。
文字どおり、片面に迫力のある9匹の大きな龍のレリーフが施されている迫力ある照壁です。



高さが5メートル、幅は27メートルあるそうです。
北海公園の九龍壁の特徴は、両面に龍が描かれている点です。





すなわち、表裏それぞれ9匹で、計18匹です。
9匹の龍は表情も動きも色も違います。黄、紫、白、藍、赤、緑、青とさまざまな染料が使われているようです。



大きな龍以外にも、小さな龍が所狭しと描かれています。紹介文によると全部で635匹が描かれているそうです。よく数えたものです。

完成から約270年が経過して、雨風にさらされてきたはずですが、壁面のレリーフは瑠璃タイルの鮮やかな色をとどめています。

乾隆帝の権威をこれでもかとばかりに見せつけているようです。

中国大陸には三大九龍壁というのがあるそうですが、そのひとつです。ほかの2つは、山西省大同のもの(1392年製)と紫禁城の中にあるもの(1772年製)です。

明代や清代には各地でたくさんの九龍壁がつくられたそうです。流行だったのでしょう。

この北海公園の九龍壁は特に大型で価値の高いもののようです。



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