HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

藤沢 聶耳記念広場

2024-10-12 | 東京を歩く

藤沢市の湘南海岸公園にある聶耳記念広場に行ってみました。






聶耳は中国の国歌である義勇軍進行曲の作曲者です。

中国で暮らしたことのある者なら何度も聞いてきたあの抗日ソングです。

聶耳に関する情報は検索すればたくさん出てきますので省略しますが、1935年春に来日して日本であの曲を作り、同年に鵠沼海岸で海水浴中に行方不明になり、この世を去りました。

23歳でした。

僕は長く中国と関わってきましたが、あの曲が日本で生まれたとか、作曲者が日本で死んだというエピソードを知ったのは最近のことです。

一昨年の夏のこと、北京の自宅にて、この広場で行われた追悼式典の様子を紹介するCCTVのニュース映像を見かけました。

ニュースでは藤沢市長や駐日中国大使館員をはじめ日中の関係者が717日の命日に合わせて故人を悼んでいる様子が紹介されていました。

いやはや驚きました。

今まで知らなかったこともそうですが、なんで我が国の市長さんが超有名抗日ソングの作曲者の功績を讃えるかのような式典に参加しているのか、なんでこんな広場をつくったのかということに戸惑いました。

もちろん前途ある若者が外国の地で若くして命を落としたことは気の毒に思います。

ともかく、帰国したら一度訪ねてみようと思っていました。

今回、それを実行しました。

僕は20台前半の頃にこの近くに住んでいたので、この公園にも何度か足を運びましたが、存在に気が付きませんでした。もっとも当時は関心もなかったのですが。

今やこんな若者でにぎわう風光明媚な場所で、89年前にそんなことがあったとは。

潮風に当たりながらしばらく海を見つめます。水面がキラキラと眩しく輝いています。




献花台と思しき石の上に、折りたたんだ新聞紙と10円硬貨が7枚並んでいました



新聞の余白には中国語で「新聞2部を買うために7枚の銅板」と書きこんであります。

これはどういう意味があるのでしょうか。

調べてみたところ、1933年に聶耳が作曲した「新聞売りの歌」という曲にこの一節があるようです。

当時の新聞売りの貧しさを表現した曲で、80年代や90年代生まれの中国人なら誰でも知っている有名曲なのだとか。

おそらく在留中国人が供えたのでしょう。

石碑はビニールで覆われています。いたずら防止のためでしょうか。

日本ではほとんど知られていないけれども、中国で暮らしたから知ることのできた日本国内で起きた中国の歴史的エピソードというものが、たまにあります。

この広場もその一つです。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 久しぶりの中山競馬場 | トップ | 中山法華経寺 蒋介石の胸像 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿