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はじめに
1. そもそも、ネロは「暴君」の定義に当てはまるだろうか?
「真相はこうだ!」みたいな記事その1
「真相はこうだ!」みたいな記事その2
2. シャカとイエスの史的実在の確実度の比較
3. 対抗宗教改革
4. キリスト教は起源からして、政治がらみだったとの説
更新履歴
はじめに^
「ウクライナ紛争関連の事実確認」の記事で、以下のような事を書いてみた。
「各学問での「事実」の確実度は「査読済論文の内容が後で間違いと分かる割合」が一つの
指標になる。」
この基準に照らすと、歴史学での「事実」の確実度は、非常に低いと言わざるを得ない。
比較的資料が豊富な近現代史についての記述も、新資料1つの発見で覆ったりするわけで、
中世さらに、それ以前に至っては、事実と物語の境界が、かなり曖昧。そうなる原因として、
主に次の2点が挙げられるだろう。
(1) 非常に少ない資料(データ)から、無理に確定的な結論を引き出そうとする傾向がある。
(2) 元となる文献資料(特に歴史書)の著者の偏見を、それを利用する歴史家が批判しない
どころか、自らの偏見に合わせて増幅してしまっている場合すらある。
1. そもそも、ネロは「暴君」の定義に当てはまるだろうか?^
ネロについて、良くあるタイプの記述って、例えば、こんな感じ。
https://biz.trans-suite.jp/23873
「「皇帝ネロ(37年~68年)」とは、16歳でローマ帝国の第5代皇帝となった、”暴君”として
知られる皇帝です。
邪魔になった周囲の人間を殺害する冷酷非情なふるまいに加えて、キリスト教徒を弾圧し、
残酷な仕方で処刑したことから、「暴君」と呼ばれる悪名高い皇帝として知られるように
なりました。
なお、「暴君」の意味とは、「人民を苦しめる君主」です。比喩的な意味で、「横暴にふる
まう人」のことを指すこともあります。」
<さて、まず上で本当に「「人民」を苦しめている」のか、考えてみよう。「周囲の人間」って、
実際は「政敵」なのでは?「キリスト教徒を弾圧」って言うけど、処刑されたキリスト教徒が
無罪だったという証拠あるの?そう言えば、豊臣秀吉が「キリスト教徒を弾圧」していたとも
言うけど、キリスト教の宣教師が日本人を奴隷として売り飛ばす連中に手を貸していたという
事実については、なぜか言及されないことが多かったりするし ... 「初期キリスト教徒集団」の
実態については「キリスト教と不寛容」や「哲人皇帝ユリアヌス」の記事でも言及した。
そう言えば、
「1613年 - 江戸幕府2代将軍徳川秀忠が2回目の「キリシタン禁令」を全国に布告。
https://ja.wikipedia.org/wiki/禁教令
慶長の禁教令 / 教会の破壊と布教の禁止」
という話ほど、「キリシタン大名」の領地で、神社や寺院が「キリシタン」により破壊された
事実には、言及されないし。
ローマ時代に話を戻すと、「残酷な仕方で処刑された」として、古代から中世の「処刑」で、
現代目線で「残酷じゃない」例があったら、教えて欲しいもの。近代で「以前より残酷でなく
なった」はずの「ギロチン」の例もあるし、中世の異端審問や、その処刑方法は残酷でないと
でも??
あと、「政敵」であれば、兄弟あたりまでなら、「名君」とされる人物でも結構殺している。
(名君とは言えない)史上最悪の身内殺しは源頼朝だと思う。なぜか歴史家の中に、彼を妙に
持ち上げる人が多いような気がするが、正直言って、私には理解できない感性の方々だ。
ネロの話に戻って、仮に母殺しが事実だとして、かって、尊属殺重罰規定を違憲と判断した
裁判官が、「親を殺す子供は「とんでもない」かも知れないが、子供に殺されるような親も
「とんでもない」」とか言った話とも、合わせて考えないと。
というあたりを前振りに、定番の Wikipedia を見てみよう。
ネロ - Wikipedia
「ネロの治世初期は、家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや
近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの教えや政治の補佐を受け、
名君の誉れが高かった」
「55年のブリタンニクスの殺害に始まり、59年に母(アグリッピナ)、62年に妻
(オクタウィア)、65年にセネカを殺害、加えて64年に発生したローマ大火の犯人として
キリスト教徒を迫害したことから、後世からは暴君とし知られるようになる」
# 元老院派の歴史家タキトゥスの歴史書とキリスト教文献による評価が「暴君」なだけでは?
# e.g. ローマ大火の犯人は本当にキリスト教徒であったかは不明というなら、ネロ自身が犯人
# との説は(「アリバイ」が成立してて)事実無根。という事で「ヨタ話」は排除すると ....
# 一般民衆を苦しめるような「暴政」の気配すらないような....「悪行」とされているのは、
# 身内を含む政敵殺しが主で、「名君」と言われるような君主にも「よくある話」なので、
# そもそも、「暴君」という呼称は疑問。
「ネロの後半生の悪行は、親友オトの前妻で再婚相手の皇妃ポッパエアによるものとする説も
多い。」
# というか、政敵や反社会勢力に対する「悪行」ではなく、人民への「悪政」の記述は?
# ...全く見当たらない。近現代の暴君たち(レオポルド2世、ポルポト、ピノチェト...)
# などとは全く違って、かなり立派な君主だったような....
「自殺
68年3月、ガリア・ルグドゥネンシスの属州総督・ガイウス・ユリウス・
ウィンデクスによる反乱が勃発
属州総督のガルバ、オトがこれに同調した」
元首の支持率低下を機にネロと対立していた元老院は、ネロを「国家の敵」としガルバを
皇帝に擁立する。ネロは逃亡しローマ郊外の解放奴隷パオラの別荘に隠れたが、騎馬兵が
近づく音が聞こえるに及び、自らの喉を剣で貫き自殺した。」
「本人の自殺後、その墓にはローマ市民から花や供物が絶えなかった」
「ネロの死後皇帝となったガルバはネロ派の軍や都市と敵対し粛清した」
「しかしガルバから離反し皇帝になったオトはネロ派の復職を認めた。ネロの銅像やドムス・
アウレアの建設再開を許可し、ネロを裏切った護衛隊長ティゲリヌスを処刑し、民衆の人気を
買った。オトの次の皇帝ウィテリウスはネロの慰霊祭を催して民衆を喜ばせた」
# つまり、ネロは、その死後も民衆に大人気だったと。「あっれれー?」(名探偵コナン)
「政策
「ローマの大火後にネロが陣頭指揮した被災者の救済やそのための迅速な政策実行、
ローマ市の再建は市民に受けがよかった。ネロに批判的だったタキトゥスも、「人間の知恵の
限りをつくした有効な施策であった」と記している」
# 敵対派閥に属する人間に、ここまで言わせるのは、「ただごとではない」のでは?
「真相はこうだ!」みたいな記事その1^
https://globe.asahi.com/article/14439296
世界史で「暴君ネロ」と習ったけれど……実は名君だった? 古代の落書きが示す別の顔
#ここでも、*考古学的な証拠*が登場。
ポンペイの他の落書きにも、ネロの名は多いという。また、ローマでは、いたずらで描かれた
ネロの似顔絵も残されている。
実は、こうした落書きこそが、ネロに対する庶民の意識を示す。タキトゥスら歴史家が記した
公式の記録とは大きく異なる人物像だ。
「エリートによってつづられた公式記録がネロを悪者扱いしているのに対し、落書きは彼の
大衆人気の高さを物語っています」と、オッパー上席学芸員は語る。
...
■ ネロが汚名を着せられたわけ
オッパー氏によると、皇帝としてのネロの業績は、税制・通貨改革や古代コンクリート
による街づくり、東方への領土拡大など、実際には多岐にわたっている。ネロの死から28年後、
ローマではネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、
マルクス・アウレリウスと続く「五賢帝」の黄金時代が始まるが、その際に称賛された政策の
多くは、ネロの治世に基盤が用意されたという。
「もし事情が少し異なっていたら、ネロは偉大な改革者として語り継がれたかもしれません」
ルッソ所長もオッパー氏と同様に、ネロの業績を高く評価していた。
...
ネロには、大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていたなど、皇帝にある
まじき逸話が残る。しかし、その多くは創作の可能性が高いという。出火の際にネロは
ローマにいなかったにもかかわらず、「火を付けたのはネロ自身」との話も信じられた。
#最初に信じたのは、純真無垢な「中世キリスト教徒」の歴史家の方々だけだったはず。
「現代のフェイクニュースと同じです。極めて一方的で、しかも政治的な目的に基づいて
いた」とオッパー氏はいう。ネロのイメージは、このようなつくり話が積み重なり、事実に
取って代わったのだった。
#今だと、「ロシア」や「プーチン」のイメージの由来を、よくよく考えて見るべきかと。
「真相はこうだ!」みたいな記事その2^
https://kusanomido.com/study/history/western/20570/
「近年の研究により「大火災の犯人がキリスト教徒であった可能性がある」」
「そもそも、最初にネロの伝記を書いたスエトニウス(政治家、歴史家であり著書「皇帝伝」の
なかでネロのことを記す)とタキトゥス(ネロを糾弾した政治家、歴史家)は、ともに元老院
とのつながりが強く、ネロの治世を批判的に記したとみられる。」
「ネロにとって最大の障害は元老院(外交・財政などの決定権を掌握する実質的な統治機関)で
あった。
皇帝よりも権力は弱いが、そこでは様々な人物がそれぞれの思惑を張り巡らせていた。その
影響力は、皇帝といえども無視できない。
そのようなしがらみの中で、自分が行わなければいけないことに対し、率直に取り組んだのが
皇帝ネロの素顔なのかも知れない。
ネロが暴君だったと確信できる資料は今でも存在しない。」
# 「誰が何のために書いた資料なのか、考えて読む」のは基本。ちなみに、私の記事について
# 自己申告しておくと、「根っからの天邪鬼なので、通念である言説をひっくり返したい」と
# いう心情が最大の動機かも。いや「事実を見極めたい」っていう動機もありますよ、一応は。
2. シャカとイエスの史的実在の確実度の比較^
例えば、今では、仏教の開祖であるシャカの史的実在は事実と考えられるようになっているが、
それは、シャカの名前と直接結びつく*考古学的証拠*(いわゆる「仏舎利」を収めた壺に、
「シャカの真骨である」と書いてあって、複数の方法で特定された年代が、文献にある記述と
矛盾しない)が出てきたためで、それ以前の西欧の歴史学では神話上の人物扱いが主流だった。
ところで、イエスの史的実在は歴史学の主流では疑われたことがないが、*考古学的証拠*が
ないどころか、新約聖書以外には、「イエスの名前と直接結びつく記述のある文献」すらない。
「新約聖書以外にも記述がある」という話で持ち出される文献は、「新約聖書での記述と共通
する部分がある、氏名不詳の宗教指導者について断片的記述がある文献」に過ぎないのが実情。
どう考えても、西欧の歴史家の多くがキリスト教徒だったことで「偏見」が事実認定を歪めて
きたとしか思えない。
2022-07-06 追記:「新約聖書以外でイエスに言及する文献」全てに後代の創作/編集疑惑あり。
個人的には、イエスの史的実在がシャカの史的実在と同程度の確実度で示される可能性は低い
だろうと考えている。理由は、イエスはシャカがそうだったような「大教団の指導者」だった
とは考えにくい(新約聖書にすら、「直接付き従っていた人物」が大勢いたとは書いてない)
ので、普通に考えると、無名のまま歴史に埋もれて、関連史料が残る条件は、なさそうだから。
イエスが有名なのは「パウロが作った「神話」の中でのヒーローとして」に過ぎないと思う。
後代のイスラム教の開祖も、生前に大教団の指導者になったからこそ、史的実在に疑問の余地が
ないわけで ....
3. 対抗宗教改革^
私見では、「カトリック」の異様なまでの「政治性」は、宗教教団組織として、類例がない。
教理では大差ない{ギリシャ、ロシア、ブルガリア、日本、...}正教会、プロテスタントの
諸教会、あるいはイスラム教や仏教と較べ、あそこまで「世俗権力と同レベルで張り合った」
教団って、他に思いあたらない ... 強いて言えば、織田信長と張り合った石山本願寺あたりが
似てないとは言わないが、持続期間や規模が、まるで違う。
1545年 - トリエント公会議が招集される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/トリエント公会議
プロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にし、対抗宗教改革と
いわれるカトリック教会の刷新と自己改革の原動力となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/対抗宗教改革
# 上記2つのWikipediaの項目は、カトリックへの評価が甘い。下記などの方が常識的。
https://www.y-history.net/appendix/wh0903-060.html
カトリック教会側の改革運動
教皇パウルス3世(在位1534~49)は、改革派を枢機卿に任命、まず教会の腐敗の
原因として、聖職売買の禁止を勧告した。王妃との離婚を強行したイギリスのヘンリ8世を
破門にした。さらに1542年にはローマに宗教裁判所を設置して異端の取り締まりを行った。
異端を取り締まり、カトリックの改革を進めるためには、改めてカトリックの正統となる
教義の確認をする必要が生じ、そのために1545年からトリエント公会議が始まった。
1563年まで断続的に開催され、あらためてルターなどの考えを否定し、さまざまな教会の
悪弊を廃止することをした。さらに1559年には『禁書目録』を定め、思想統制を強めた。
# 「刷新と自己改革」の成果が、宗教裁判制度や禁書目録 ...
グレゴリウス13世(1572~85)はそれまでのユリウス暦と実際の暦日のズレを修正
した「グレゴリウス暦」を制定した(1582年)。サンバルテルミの虐殺事件の報せを聞き、
祝賀行列を行わせたとも言われる。
https://www.y-history.net/appendix/wh0904-078.html
サンバルテルミの虐殺/聖バルテルミの虐殺
パリでは約4000人が殺害され、さらに虐殺は全土に及んで数万人が死んだ。
# こういう出来事の祝賀行列を行わせたのが、「改革教皇」の一人 ....
https://kotobank.jp/word/対抗宗教改革-91098
〈反宗教改革〉あるいは〈対抗宗教改革〉という表現は1776年にゲッティンゲン大学の
法制史家ピュッターJ.S.Putterが,プロテスタント化された領地に対するカトリック領邦
君主の実力による再カトリック化の試み,という意味で初めて用いた。
https://www.wordoflife.jp/bible-747/
例えば,教皇パウルス3世がイタリアの君主など指導者へのプロテスタント信仰の侵入を
防ぐため1542年に設置したローマ宗教裁判所は,その大審問官から教皇となったピウス5世の
時代に,プロテスタント君主らをイタリアから組織的に排除することに成功した.
# もともと、そういう政治的な意味か ....
https://kotobank.jp/word/反宗教改革-118104
当時の教会と政治の密接な関係から新旧両陣営とも内部に宗教的改革と政治的反動の混交が
みられる。これは一方では両陣営の対立を固定化し,他方では教会の世俗権力への従属
(国教化) を促進した。トリエント公会議の開催やイエズス会の創設などを通して勢力を
回復し、海外布教を進展させたが、その反面、宗教戦争の一因ともなった。
https://rekisi.info/taikousyuukyou.html
免罪符はルターが「おかしいだろ!」とつっこんで宗教改革の始まりとなった出来事ですね。
お金を出せば、罪を軽くしてもらえたり、罪をなかったことにできる訳ですから、確かに
宗教としてちょっとおかしい・・・。それをカトリックは自らおかしいと認めたんです。
# 指摘された事実を「しぶしぶ」認めたのは、別に「手柄」ではない。
一方で新教に対抗するために宗教裁判や異端審問も強化していくことになります。この
宗教裁判で濡れ衣を着せられるのが魔女と呼ばれる人たち。魔女狩りです。
# 魔女狩りは、宗教裁判や 異端審問の形式を借りてはいたが、異なる側面もある社会現象。^^;
# 宗教裁判や異端審問は、あくまで(一時期のカルヴァン派を例外として)カトリックの制度
魔女といっているくせに実は男性もその対象でした。男性で狙われるのは、いわゆるお金持ち。
お金持ちが魔女であるとされ火刑にされたら、その財産はどうなるのか?もちろん、没収です。
王たちはこれを利用して財源拡充政策として、これらの裁判を行っていたわけです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/魔女狩り
魔女狩りが起きた地域はカトリック・プロテスタントといった宗派を問わない強力な統治者が
安定した統治を行う大規模な領邦では激化せず、小領邦ほど激しい魔女狩りが行われていた。
https://kotobank.jp/word/魔女狩り-136189
12世紀頃から異端弾圧と重ねて積極的な魔女取り締まりが行なわれるようになり,1484年の
教皇インノケンチウス8世の教書や同時期のドミニコ会士による体系的な悪魔学の書を基礎に,
フランス,ドイツなどを中心に大規模な迫害が行なわれた。
魔女狩りは,カトリック,プロテスタントを問わず,集団ヒステリーとして広がり,アメリカ
新大陸にまで持ち込まれ 18世紀まで続いた(→セーレムの魔女裁判)。
https://rekisiru.com/6101
源流としては、12世紀末ごろから起こった異端審問の流れから始まりますが、教会主導
ではなく主に民衆の主導で行なわれた、実質的な私刑に近い制度
# しかし、教会は止めようとした形跡がない ... 止めようとしたのは、一人の医師。
http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/dot/life/dot-2020121700081
5万人が処刑…「魔女狩り」に異を唱えた実在の医師が根拠とした病気とは?
AERA dot.2020年12月24日17時00分
彼の主張は次のようなものだった。魔女と言われている者たちは一般的に老女であり、
老化にともなって体内に蓄積される黒胆汁過多の影響により、ありもしないことを
想像しているにすぎない。それらは黒胆汁過多によって引き起こされるメランコリー
(憂うつ)の症状で、魔女は火炙りにするべきではなく、医師の手に委ねるべき患者
であるとした。
4. キリスト教は起源からして、政治がらみだったとの説^
# まあ、「キリスト教の教義」自体、もともとパウロがデッチ上げたものらしいし ...
https://www.amazon.com/dp/B007Q1H4EG
CHRIST'S VENTRILOQUISTS: The Event that Created Christianity Kindle Edition
Paul perpetrated in Antioch in the year 49 or 50 against Jesus’s brother James
in Jerusalem, whom Jesus in Jerusalem had appointed in the year 30 as his
successor to lead the Jewish sect that Jesus had started. The Gospel accounts of
‘Jesus’ reflected Paul’s coup d’etat, not actually Jesus, who would be appalled
at the Christian concept of ‘Christ.’ That concept was radically different from
the Jewish concept of the messiah, and Paul knew this when he created it.”
# 最初の最初から、政治的な宗派活動...?プロテスタント諸国も「魔女狩り」については
# カトリック圏と同様で「キリスト教文化の底流にある胡散臭さ」の起源は「政治性」??
# もっとも、正教圏には「魔女狩り」はなかった。ユダヤ人への「ポグロム」はあったが、
# 正教会がポグロムに関与した形跡はない。一方、カトリックは「異端審問」の形式整備を
# 通じて「魔女狩り」の枠組み形成に貢献した。
更新履歴^
2022-04-29 20:20 : リンク追加
2022-04-29 20:25 : カテゴリーを歴史に変更
2022-04-30 13:40 : 誤変換修正、リンク追加
2022-04-30 15:00 : リンク追加
2022-04-30 15:10 : リンク追加
2022-05-04 12:10 : リンク追加(キリスト教禁令関連)
2022-05-05 08:37 : リンク追加(キリスト教禁令関連)
2022-05-05 09:22 : リンク追加(セーレムの魔女裁判)
2022-05-21 08:43: フォント変更、「その2」のリンク先からの引用文追加
2022-05-26 13:22 : タグ #ローマ帝国 を付与。
2022-07-06 22:09 : 「聖書外のイエス実在証明」創作/編集疑惑へのリンク追加
2022-07-08 00:57 : 他記事からの参照可能位置にid付与
2022-09-05 20:23 : 節へのリンク追加
2022-10-08 04:57 : 先頭に戻るリンク追加、外部リンクはタブ/ウインドウを開く