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はじめに
1. 欧州と欧州以外での異端排斥/ユダヤ教徒迫害問題状況の違い再考
2. テオドシウスの「テッサロニキ勅令」: ローマ帝国でのキリスト教国教化
更新履歴
はじめに^
「キリスト教世界における「反ユダヤ主義」の起源について」関連メモ書きをもとに、改めて、
ヨーロッパのキリスト教世界での異端排斥/ユダヤ教徒迫害問題について考えたことを書く。
1. 欧州と欧州以外での異端排斥/ユダヤ教徒迫害問題状況の違い再考^
数年ほど前の放送大学で、「パレスチナ問題」の講座(講師:高橋和夫)が開講されていた。
(放送大学の学生になったわけではないが、テキストは買った)。
参考:高橋和夫さんが著者のWeb ページ
https://ameblo.jp/t-kazuo
https://twitter.com/kazuotakahashi
https://blogmura.com/profiles/10109877
https://webronza.asahi.com/authors/2011050900003.html
https://news.yahoo.co.jp/byline/takahashikazuo (有料記事)
同講師の「国際政治/国際関係」の講座(時勢に合わせて内容が時々変わる)では、過去にも
パレスチナ問題が取り上げられていた。筆者がナクバという言葉を知ったのは、国際関係論の
講座から。ただ、今回の本ブログ記事で取り上げたいのは、「パレスチナ問題」自体ではなく、
前記テキスト中で述べられている、ユダヤ教徒迫害とシオニズムについての論点である。
個々の論点について目にする機会はそれなりにあるのだが、まとまった形で提示されることは、
あまり多くない印象がある。
まず、近代のユダヤ教徒迫害とシオニズムの関係についての論点。
- パレスチナ問題の基本的原因はシオニズム(によるユダヤ教徒のパレスチナへの移民)。
- 古代の地中海世界では、ユダヤ教は布教に熱心であり、多くの改宗者を得ていた。
- 東欧のユダヤ教徒の大半は、パレスチナから「ディアスポラ」で流れてきたのではなく、
改宗者(例えば、10世紀末まで南ロシアに存在したカザル王国の国民)の子孫が13世紀頃に
モンゴルに追われる形で移住してきたもの。この事実はシオニストたちも知っていた。
- 19世紀に民族主義/ナショナリズムが高まったことが、ユダヤ教徒迫害を激しくした要因。
- 当初、シオニズムは必ずしも多くのユダヤ教徒から支持されていたわけではなく「ある国の
国民として、ユダヤ教徒」という「ユダヤ民族主義としてのシオニズムとは相反する認識」を
持つ人が大多数だった。
- シオニズムを助けたのは、アメリカの移民制限政策とナチスドイツ。
- シオニズムの源流は、民族主義+帝国主義+社会主義。帝国主義要素が侵略につながった。
次に、古代から中世のユダヤ教徒迫害を含めての、下記の基本的な問題提起。これは、全ての
差別問題に共通する論点=「差別は「される側」ではなく「する側」の問題」の一例なのだが、
なぜか「反ユダヤ主義(=ユダヤ教徒迫害)」問題に関しては、指摘されることが少ない。
「... よく発せられる問いに、「なぜユダヤ教徒は迫害されるのか」がある。しかし、これは
発想が逆ではないだろうか。... 問題は、なぜヨーロッパで多数派のキリスト教徒が、少数派の
ユダヤ教徒を迫害したかである。非難されるべきは、キリスト教徒の方であって、ユダヤ教徒
ではない。
たとえば、ユダヤ教徒はキリスト教徒が多数派ではない社会でも生活してきた。中東のイスラム
世界でも、中国でも、あるいはヒンズー教徒が多数派のインドでも生活してきた。...
しかし、ヨーロッパのキリスト教社会以外では、ユダヤ教徒だけを対象とした大規模な虐殺など
といった事件は例がない。...
ユダヤ教徒はヨーロッパ以外では平和裏に他の宗教の信徒と共存してきた。強調しておきたい点
である。」
なお、前記教科書には「なぜヨーロッパで多数派のキリスト教徒が、少数派のユダヤ教徒を迫害
したか」という問いへの解答は書かれていない。「自分で考えろ」という事だろう。筆者の答は
「キリスト教と不寛容」および「キリスト教世界における「反ユダヤ主義」の起源について」で
述べた。簡単に言ってしまえば、*キリスト教の教理に迫害を引き起こしやすい何かがある*と
いうことになる。もっとも「「キリスト教の教理」に「固有/不変の性質」として「迫害ないし
異端への敵意を引き起こしやすい」という属性がある」という(下記記事で言及した「常見」に
なってしまう)主張はしない。
ウクライナ紛争関連の言説に多く見られる認知バイアスへの対応策
少なくとも、ヨーロッパの政治風土/社会風土/ヨーロッパ人の精神風土との相互作用は、考慮
する必要がある。もちろん、個々の迫害事件については、発生した際の政治/社会状況の影響が
最大の直接要因のはずだが、それだけ見ては、前記*ユダヤ教徒はヨーロッパ以外では平和裏に
他の宗教の信徒と共存してきた*事と*ヨーロッパの長い歴史的時間を通じての状況*との差を
説明できない。
この問題を考える手がかりになりそうな事として、中世までの東西ヨーロッパ間での「異端者」
迫害状況の違いと、前記「19世紀以降「民族主義」の影響により、ユダヤ教徒迫害が激化した」
という2つを、まず取り上げる。つまり、後者の現象は東西ヨーロッパ間で共通している。
一方、中世までの状況には、異端審問や魔女狩りは、東欧あるいは正教圏には見られなかった
という違いがある。魔女狩りはプロテスタント諸国でも見られる社会現象だが*「異端審問」の
形式を借りた*事実は無視できないので「異端審問」の背景を掘り下げて見たい。
「異端審問」が「裁判」の形式を取るのは、カトリック教会が「裁判権を持つ体制側政治主体」
だったから。ローマ帝国でのキリスト教国教化以前にも「教派間や既存宗教との間での暴力的
抗争」が存在した件は、下記記事で触れた。
- キリスト教と不寛容
- 哲人皇帝ユリアヌス
- キリスト教世界における「反ユダヤ主義」の起源について
つまり、根源的問題は*政治勢力としての行動パターンが排外的*なことで、「異端審問」や
「ユダヤ教徒迫害」という現象は、カトリック教会が*世俗的権力主体と拮抗し、裁判すらも
行う(=司法権を行使)するほど政治的な組織*だったから、そういう形で問題が表面化した
と考える。正教の教会は、カトリック教会のような意味での政治組織にはならなかったので、
東欧の正教世界では、裁判としての「異端審問」は生じず、その派生物である「魔女狩り」も
なかった。プロテスタントで唯一のカルヴァンによる異端審問は、カルヴァンの教会が地元の
政治を掌握していたから。つまり、*教会が排外性の高い極度に不寛容な政治勢力になった*
ことが、西欧での中世以前の「異端/ユダヤ教徒迫害」の直接原因と考える。
ユダヤ教のラビやイスラム教の神学者も、カトリック教会のような独自の政治組織を形成して
いない(カトリック教会の政治性は過去のものではない。「バチカン市国」という国家の存在
からも明らかだろう)。さらに言えば、そもそもカトリック教会は、(正教では、現在もそう
であるような)「各管区での総主教は対等」という、初期の教会間での暗黙の合意を否定した
「ローマ教会が全教会の上に立つ」という*極めて政治的な「権力」の主張*から始まった。
カール=シュミットという法学者が、著書の一つで「政治権力とは、敵と味方を決めること」
という趣旨のことを述べている。そういう側面は事実としてありそうだが、問題は「敵と判定
する際の基準」のありようだ。ある種の*その主体にとっては重要なのだろうが全人類に共通
する水準で普遍性があるとは言えない特異な価値*を判断基準とする政治主体は問題を起こす。
キリスト教徒しかり、ナチスしかり。この問題を避けるには、「全人類共通レベルの普遍性か」
について「合理的な疑い」の余地がある価値に関する政治的判断では「寛容」を旨とすべきと
結論しておこう。西欧流の「人権」や「民主主義」も、「全人類共通レベルの普遍的価値か」
という問題設定をすれば「合理的な疑い」を持つべき状況はあり得るので、これらの価値観を
上から目線で振りかざす外交方針/国際政治戦略については、極めて慎重であるべきと考える。
個人レベルでの思想/信念についても、「全人類共通レベルの普遍性」があるか否かを意識
することには大いに意味がある。ちなみに、筆者が「国学」を「有害」と判断する理由は、
「全人類共通レベルの普遍性」のある価値を頭から否定する考え方に基づくからだ。例えば
本居宣長が、「からごころ」なる言葉をデッチ上げて否定しようとしたものには、「全人類
共通レベルの普遍性のある価値」が含まれているように思われる。例えば、所論を見る限り
仏教思想が分かっているようには全く見えないのだが、仏教も「からごごろ」に含めている。
仏教や儒教に「全人類共通レベルの普遍的価値」が含まれることは確実である一方、彼が存在
すると主張する「日本固有の価値」は、はなはだ曖昧で存在自体が疑わしい。こんな、妄想の
産物でしかない思想が流行ったのは、外国との文化交流制限による「井の中のかわず」現象と
でもいうか、「洞窟のイドラ」の最悪の実例というか。「国学」なる妄想の蔓延は、明治期の
「元勲」を筆頭に、*日本文化の価値をフェノロサなどの外国人に指摘されるまで気づかない
情けない社会状況*の一因いや主要原因だろう。
2. テオドシウスの「テッサロニキ勅令」: ローマ帝国でのキリスト教国教化^
本節は、1. での考察の材料にした、「「キリスト教世界における「反ユダヤ主義」の起源に
ついて」関連メモ書き」の抜粋を編集したものである。
https://sekainorekisi.com/glossary/テオドシウス1世/
ローマ帝国皇帝。東西に分裂していたローマ帝国を再統一し、一人で支配した最後の皇帝。
コンスタンティヌス1世以来、はじめてコンスタンティノポリスに常住した皇帝である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/テオドシウス1世
古代ローマ帝国の皇帝(在位:379年 - 395年)。テオドシウス大帝とも。
-------------------------以下の年代記は、上記の両ページの記述をマージ-----------------------
380年、テオドシウスとグラティアヌス、ウァレンティアヌス2世の3人の東西ローマ皇帝は、
「使徒ペトロがローマ人にもたらし、ローマ教皇ダマスス1世とアレクサンドリア総主教
ペトロス2世が支持する三位一体性を信仰すべきであり、三位一体性を信仰しない者は、
異端と認定し罰する。」という「テッサロニキ勅令」を発した。
381年、テオドシウスは非キリスト教の神に捧げる犠牲を禁じ、「誰も、聖域に行くことはなく、
寺院を歩いて通り抜け、人の労働で作成された像を見てはならない」と定めた。当時流行して
いたミトラ教の集会場として使用されていたカタコンベを破壊、その上に教会を建てようとして
いたアレクサンドリア司教テオフィロスの要求に応じた
388年、キリスト教を(事実上の)国教とする。
テオドシウスは元老院議員に対し古代ローマ宗教の廃絶を求める決議を提起。元老院側はほぼ
全会一致で賛成。キリスト教(三位一体派)は事実上、ローマ帝国の国教となった。
# 19世紀後半のプロイセンで偶然「国民教会の定立運動」というアナクロかつ非現実的な政治
# 運動が流行している時に「憲法調査」に行ったことが「明治憲法」が制度的規定を軽視した
# 欠陥の多いものになる一因になる。
392年、キリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、のちに西ローマ帝国においても同じくした。
死に際してテオドシウスは、テオドシウスの下で既に正帝を名乗らせていた2人の息子に、
それぞれコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国とメディオラーヌムを首都とする
西ローマ帝国とを分担統治させた。
393年、古代オリンピック廃止
テオドシウスは、すでに衰退しつつあった古代オリンピックを廃止。同時に、オリンピックの
開催年を1周期にしたオリンピアードも廃止
テオドシウス勅令は、テオドシウス本人が考えたものではなく、ミラノ主教(司教)で
三位一体派であったアンブロジウスの影響が強く現れていた。キリスト教の下では相手がたとえ
皇帝であろうとも、主教(司教)の命令には信者は従わなくてはならないという規則がある。
# 東ローマ帝国(+後の正教)に、そんな「規則」はない。後のカトリック(=ローマ主教区)に
# 特徴的な政治性による「ゴリ押し」が通っただけ。他宗派の事を無視する(or 単に宗派間の差を
# 知らない)人が解説を書いている場合があるので「キリスト教は...」で始まる説明は要注意。
アンブロジウスはこれをテオドシウスを御するための手段とする。
# 経緯を見る限り「皇帝が「危険なカルト」の信者になっていた」状況
https://www.y-history.net/appendix/wh0103-110.html
「Episode テオドシウスの懺悔
テオドシウス帝は390年、ギリシアのテサロニケで暴動を起こした住民7000人を殺害
した。ミラノ司教アンブロシウスは、皇帝がその罪を懺悔しなければ聖餐式(キリスト教の
重要な儀式)を許さないと申し渡す。
やむなくテオドシウスはアンブロシウスに従ってミラノの教会で懺悔し、その後その影響を
強く受けるようになった。その結果が、キリスト教国教化につながる。
なおアンブロシウスは、教父アウグスティヌスの師としても有名。
息子のホノリウス(16歳)を西ローマ皇帝に、同アルカディウス(18歳)に東ローマ皇帝に
指名し、ローマの東西分裂が確定。テオドシウス自身はローマには一度も行ったことがなく、
あくまで中心は東のコンスタンティノープルにおいて統治していた。当時まだ国制上は一つの
国家と考えられていた
https://bushoojapan.com/world/roma/2014/01/16/12791
「「キリスト教を信じない奴はブッコロされて当然だからな!」という制度になってしまった
...
テオドシウス1世が格別信心深かったからではなく、既にキリスト教の聖職者が世俗における
権力を確立し始めていたからという理由が大きい
...
ローマ帝国では「神様に認められたから皇帝様はエラいんだぞ!」という柔軟なのか屁理屈
なのかわからない建前を掲げていた。
...
「テッサロニカの虐殺といわれる事件
元々ギリシャのテッサロニキという町で、キリスト教徒の一部が役人を殺してしまった ...
テオドシウス1世は軍を派遣 ... 現地の部隊がヒャッハーしすぎてしまって虐殺 ...
...
破門宣告
「この時代皇帝の位は世襲でもなんでもなく、ふさわしい人物を元老院(政治家)や市民
(有力者や役人)が選んで認める ... 「神様から認められなくなったとなると一大事」
https://kotobank.jp/word/キリスト教-53666
「ローマ帝国ではネロ,ディオクレティアヌス帝らによる信徒迫害後,
# 「迫害」というより「危険なカルト/反社会勢力の取締り」と解釈すべきかと ...
313年コンスタンティヌスとリキニウスの両帝が出した〈ミラノ勅令〉によって公認され,
392年テオドシウス1世時代に国教となった
https://kotobank.jp/word/ミラノ勅令-139854
キリスト教の信教の自由の認可,教会の没収財産の返却など
# 前後の経緯
https://ja.wikipedia.org/wiki/キリスト教の歴史
「キリスト教の教派間の暴力抗争を解決するため、ローマ皇帝コンスタンティヌスはニカイア
公会議(325年)を開いた。
# いわゆる「内ゲバ」が、皇帝自らの対処を要する社会問題だった...
なお、ローマ皇帝がキリスト教に介入したのはこのときが最初コンスタンティヌスは公会議の
時点はキリスト教徒ではなかった
(洗礼を受けたのは死の直前)。あくまでもローマ帝国の求心力低下の課題解決に図るため
キリスト教の勢力を利用することがコンスタンティヌスの意図
# ユリアヌスは「どの宗教の信徒も互いに寛容であれ」と言っただけ。それを「キリスト教への
# 迫害」扱いするのは「他派を攻撃する事」が「キリスト教の宗旨の一部」と自認している事に
# なります。^^;
https://www.y-history.net/appendix/wh0103-154.html
「宗教への不寛容を戒める」
「ユリアヌスの意図とは反対に、各地でキリスト教徒による神殿破壊や、それに対する報復と
して教会焼き討ちなど」
「何ものかの放火で神殿が焼き落ちる事件がおこった。キリスト教徒の仕業に違いないとして
将軍たちはこの際、キリスト教を禁止すべきだとユリアヌスに迫った。しかしユリアヌスは、
ローマの正しい伝統は宗教の寛容にあるとして、キリスト教禁止には踏み込まなかった」
# 当時のキリスト教のあり方は、どう見ても「テロを行う危険なカルト」なので、
# ネロ時代のローマ大火も、実際にキリスト教徒のしわざだった可能性は十分にある。^^;
https://kusanomido.com/study/history/western/20570/
「近年の研究により「大火災の犯人がキリスト教徒であった可能性がある」というのが
分かっている。」
# 何度も禁止令が出た事自体、「危険なカルト」と見なされたためかと。
https://true-buddhism.com/religion/kami/
キリスト教やイスラム教に共通する旧約聖書の神は、
「他の土地に行って他民族を討ち取るとき、彼らに何の憐れみも示さず完全に滅ぼさなければ
ならない」(申命記第7章1-2)
と指示しています
# この主張については、下記などで確認できます。
https://ja.wikisource.org/wiki/申命記(口語訳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/申命記
旧約聖書中の一書で、モーセ五書のうちの一書で5番目に置かれてきた。
# このように、「不寛容の勧め」が「聖書」に明示されているのは事実。
# どの程度、どう解釈するかは司教の間で見解に差があったようなので、「過激派」の司教が
# 何を言っていたかが問題になりそう ....
https://ja.wikipedia.org/wiki/古代末期のキリスト教
「一度棄教して改心した信者(棄教者)の処遇をめぐって教会では意見の対立が生じて、ローマ
司教コルネリウスやステファヌスは棄教者に寛容だったが、ノヴァティアヌス教父は神の真理を
ないがしろにすることとしてこれに反対し、棄教者は排除すべきであると主張」
# 文脈的に排除=抹殺と推定すれば、後の異端審問制度につながる ....
# イスラム教は、初期に帝国を形成したため、異民族統治上の必要性から「啓典の民」という
# 「方便」を導入し、ある程度「寛容性」を持った。なお、「統治上の方便」であったことは
# やがて仏教徒まで「啓典の民」扱いになったことが示している。一般に、教祖を「預言者」と
# 位置付けることで、他宗教の信徒を「啓典の民」に含めていた。
# ちなみに、近現代におけるキリスト教の基本的問題は、常識的に見て、下記の特性。.
https://true-buddhism.com/religion/christianity/
キリスト教では、イエスの意義を論じるとき、復活を頂点とする奇跡の証拠に依存しています。
科学が発達し、ニュートンなどによって、世界が機械的な法則によって動いていると明らかに
なるにつれ、キリスト教は疑問を持たれ始めました
# よって、ある程度は過去の解釈を変更して、近現代の「宗教的寛容」を取り入れようとする
# 動きはあります。
http://dettalant.hatenablog.com/entry/christianity/01
「カトリックあたりだと、
「キリスト教以外の道でも救われる。けど、キリスト教が一番確実な道」
って譲歩を見せだしてたりするんだけど」
# ちなみに、原始仏教の経典に「お釈迦さま自身が「他の宗教を信じていても、振る舞いが
# 道理にかなうなら、その人は仏道の実践者であるから敬いなさい」と教えた」との記述が
# あるそうで(出典は書名が記憶にないが中村元の著書)、キリスト教は「遅れてる」(笑)。
更新履歴^
2022-05-22 10:16 : 年代記部分を整理。一部の用語説明に記述を追加。リンク追加。
2022-06-07 14:57 : 字句修正、リンク追加
2022-09-25 23:35 : 節へのリンク追加
2022-11-25 13:28 : 先頭へ戻るリンク^追加