ある日の気づき

哲人皇帝ユリアヌス

節へのリンク
1. 「統治理念」の観点からの中立的評価の例
2. 中立性に明らかな問題のある記述の例
2.1 キリスト教固有の異分子への極端な攻撃性を伴う偏見に基く記述
2.2 ユリアヌス死亡時の状況についての奇妙な「伝承」への言及
更新履歴

キリスト教と不寛容 - ある日の気づきで言及したユリアヌスについての Wikipedia の記事
には記述の中立性の観点から問題が多い。↓中立的な記事とは、例えば、こんな感じかと。
パリに暮らしパリを愛した、ローマ皇帝ユリアヌス
「「背教者」という呼び方は、あまりにキリスト教中心でありますので、フランスでは、
「哲学者ユリアヌス」と呼ぶのが好まれています。」

1. 「統治理念」の観点からの中立的評価の例^

背教者云々とか書くなら、↓下記のような見方も書かないと中立的ではない気がする。
背教者と呼ばれた改革者!ローマ皇帝ユリアヌスについて語る!
「彼は「ミラノ勅令」に従い信教の自由を認め、キリスト教への優遇を辞めたに過ぎない」
「コンスタンティヌス帝こそ自ら出したミラノ勅令を守らず法令に違反した」
「ユリアヌスは一度足りとてキリスト教徒になったことなどない」
「歪められたキリスト教史観において彼は背教者」
「彼はローマをもとの元老院重視の政体に戻そうと努力していたが、結局はキリスト教徒の
官僚たちによってそれは阻まれることになる。」
「官僚システムの欠点は、現代日本においてそうであるように、肥大化してしまうことである。
この頃のローマの国家財政は官僚制によって逼迫してしまっており、首が回らない状態で
あった。これも現代日本と共通することである。」
「ユリアヌスのなそうとした改革は悉くキリスト教官僚によって潰された。
既得権益を持つものは全力でそれを守ろうとする。」

主にユリアヌスの内面史を追っかけた人による下記のような見解もあるようだ。
ユリアヌスの宗教復興と〈真の愛智〉―その構想と帰結―
ただ、何と言ってもユリアヌスは「皇帝」なので、政治家として何をしたかと切り離して内面を
追いかけるという方針は、個人的には、どうもしっくりこない。

http://historia1945.blog44.fc2.com/blog-entry-16.html
「彼の死後、彼の政策だった「信仰の自由」は無かったことにされ、再びキリスト教が
覇権を握る」
# ユリアヌスは、驚くほど近代的な精神を持っていたように思える。専制君主の多くは、
# 国教の制定を典型として「思想統一」が支配の強化につながると考えるのが通例。
# ユリアヌスは多様な意見を「容認」に止まらず「促進」しようとした。仮に彼が本当に
# キリスト教を敵視していたなら、彼にはキリスト教を弾圧することもできたはず。
# 暴力的な弾圧を一切しなかったという態度は、中世(いや近世においても)ヨーロッパの
# 多くの君主により暴力的な弾圧がされたことと対照的。
# ユリアヌスはキリスト教が盲目的に不合理な考えを含む「信仰」を押し付けようとする傾向に
# よる文化の停滞(中世ヨーロッパに典型的な「暗黒時代」到来)を感じとり恐れただけで、
# 彼の死後、彼の恐れていた通りになったかと ...

2. 中立性に明らかな問題のある記述の例^

以下、Wikipedia 記事の問題箇所の引用にコメントをつけて見る。

2.1 キリスト教固有の異分子への極端な攻撃性を伴う偏見に基く記述^

フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス - Wikipedia
331年/332年 - 363年6月26日)ローマ帝国の皇帝(在位:361年11月3日 - 363年6月26日)
「コンスタンティヌス朝の皇帝の一人で、コンスタンティヌス1世(大帝)の甥に当たる。
最後の「異教徒皇帝」として知られる」
「異教復興を掲げキリスト教への優遇を改めたため、「背教者(Apostata)」とも呼ばれる」
# そう呼んだ人物がキリスト教徒固有の偏見に囚われていたことは明白。
# 近代思想の視点からすると「「信教の自由」を推進した」ようにしか見えない。
# 全体に、Wikipedia の記述は、キリスト教、特に「異端」を許容しないカトリック的な
# 偏見を感じさせる。例えば、...
「ユリアヌスは「異端」とされた者たちに恩赦を与え、キリスト教内部の対立を喚起」
「彼は弾圧などの暴力的手段に訴えることなく、巧妙に宗教界の抗争を誘導」
「異教祭儀の整備を進めたのも、ユダヤ教のエルサレム神殿の再建許可を出したのもそのため」
# 近現代の感覚では「意見が違う→異端→罰するべき」なんてこと言う方が言語道断なわけで、
# 単に「平和的に共存」すればいいだけ。内ゲバの責任を寛大な為政者に転嫁するとは?!
# このエントリの著者は*他宗教・他宗派信徒迫害が「いい事」だと思っている!*(呆)
# 「ユダヤ教のエルサレム神殿の再建許可」=「ユダヤ教徒の存在を許容すること」。なお、
# こういう寛容政策は、アケメネス朝ペルシャ以来、西アジアの大帝国にしばしば見られる。
# 多くの民族の平和的共存が、こうした寛容政策の下で、実際に達成されていた。それが
# 「抗争の誘導」だという言い草は、「他宗教/宗派との平和的共存はできない」と
# 前提していない限り、論理的にあり得ない。
# 「キリスト教世界における「反ユダヤ主義」の起源について」および
# 「歴史ノートその3:キリスト教世界の「異分子排斥」傾向について」を参照。
「これらの行動により、永くキリスト教徒からは「背教者 (Apostata)」の蔑称で呼ばれる」
# Wikipedia の記述は、典拠にした文献がキリスト教、特にカトリック系著者のものに
# 偏っているから?意図して選んだいうより、存在している文献の多くが、そういう傾向を
# 持っている可能性が高そう。∵ kotobank の説明でも似たような感じなので。
「勅令で、教師が自らの信じていないものを教えることを禁じた」
# 素直に解釈すると、教師に知的誠実を求めているだけ。これで攻撃されていると主張する
# なら、つまり知的ないし精神的に不誠実である事を認めていることになるだけ。むしろ、
# 自分で信じていることなら何であれ教えることを禁止していないという寛容性が注意を引く。

2.2 ユリアヌス死亡時の状況についての奇妙な「伝承」への言及^

「ペルシア遠征(363年)
ユリアヌスが皇帝となったとき、コンスタンティウスの治世に持ち上がった懸案は解決して
おらず、ローマの東方国境は再びサーサーン朝の攻勢に晒されていた」
「363年3月5日、ユリアヌスは8万から9万の兵を率いてアンティオキアを発った」
「クテシフォン近郊に留まることを断念したユリアヌスは、艦隊を焼き、撤退」
「プロコピウスとセバスティアヌスの部隊を目指してティグリス沿いに北上したが、6月26日、
敵襲に対して指揮をとっている際に投槍を受け、陣中で没した」
「死に際して「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」との言葉を遺したという伝承」
# 客観的に見ると、ユリアヌスに勝ったのはゾロアスター教徒 ^^;でキリスト教徒じゃない。
# 死の状況とガリラヤ人(当時のキリスト教徒の事を指す言葉)とは、全く関連がないので、
# 近代人の視点からは「キリスト教徒の著者による馬鹿馬鹿しい/見え透いた作り話」なことが
# 明らか。しかし「神の思し召し」という言葉さえ出せば分かった気になれる精神構造を作り話
# =「伝承」の作者および、その読者の多くは持っていた ... ということだろう。

 確認可能な事実は、彼は「(ゾロアスター教を国教とする)サーサーン朝ペルシャとの戦争で
 戦死した」ということ。
 偶然に助けられ偶然に殺されたローマ皇帝・ユリアヌス 最期は投げ槍で……
 「流れ弾」ならぬ「流れ槍」?....

# 以下は、ユリアヌスを倒したササン朝の説明。
サーサーン朝 - Wikipedia
ゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝ペルシャの復興を目標とした」
「ペルシアを支配した勢力の中で、ゾロアスター教を国教とした最後の国」
「ローマ軍との戦いでは、363年にクテシフォンの戦いで侵攻してきたユリアヌスを戦死させ、
アルメニアの支配権を握るなどした」
「対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に
要塞と城壁を築いて外敵の侵入に備えた。」
「また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨ててゾロアスター教の教会制度を整備」
「キリスト教やマニ教への圧力を強めた」
https://www.y-history.net/appendix/wh0101-127.html
「ササン朝の勃興に関しては不明な点も多いが、最も信憑性の高い説では、ササン家は
パールス地方(ペルシア人の故郷)のイスタフルという町にあるゾロアスター教の大寺院の
世襲の守護者であったという」
# 繰り返すが、ユリアヌスに勝ったのはゾロアスター教徒 ^^;でキリスト教徒じゃない。

更新履歴^
2022-05-20 10:10 : 字句修正、Wikipedia へのコメント追加、リンク追加
2022-05-26 13:25 : タグ #ローマ帝国 を付与。
2022-05-28 23:55 : 改行位置変更、タグ #歴史 を付与。
2022-10-08 01:58 : 記事のレイアウト変更、記述追加

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