今年でこの施設は約束の20年の研究期間を終える。同様の施設が岐阜県瑞浪市に『超深地層研究所』という施設がある。県知事や瑞浪市長、瑞浪市議会の埋め戻し要求により、4~5年をかけて埋め戻されることに決まっている。しかし北海道幌延町のこの施設は雲行があやしいままだ。原子力機構は今年度中に決定するといいながら、その原案も示しはしない。多くの道民は原子力機構の原案もしめさず、対話もない、こういった姿勢に漠然たる不安を訴えている。近隣町村の議会では反対決議が上がっており、早くこの施設の閉鎖を望んでいる。7月21日の参議院選挙までは沈黙を続けて、これから政治用語や官僚用語が飛び交うことになるだろう。
「強制連行から逃れて13年」という衝撃的なタイトルと「徴用工」問題が日本と韓国との間でとりだたされているので読んでみることにしました。
終戦を知らずに13年間も厳冬の北海道で逃げ回った中国人徴用工の劉連仁(りゅうれんじん)さんがいたとは衝撃でした。 強制的に連行された中国人の苦闘を早乙女勝元さんが直接取材して書かれた生々しい文章に引き込まれました。
戦争末期の日本は、男たちが兵隊にとられ、大変な労働力不足だったのです。 勤労動員で、女性も子どもたちまでも狩り出されていたことは知っていました。 日本軍は、その労働力を補うために韓国や中国からの若者を「拉致」して日本の炭鉱や工事現場に送っていたのです。 これを日本軍は「兎狩り」とか「労工狩り」と呼んでいたといいます。 生産現場では、食事も十分に与えられず長時間の重労働と日本人現場監督による虐待で飢餓、疫病で死に追いやられる実態が語られています。 劉さんは、1945年終戦直前に「虫けらみたいに使われて死ぬよりは」と仲間と現場から脱走したそうです。 戦争が終わったのも知らず、捕まればまた炭鉱に引き戻され、散々な目に合うと必死に逃げまどっていたそうで、残ったのは劉さんだけ。 私は、1958年3月に発見されるまで極寒の北海道13年間も生き延びられたのか、強靭な生命力に驚くとともに、日本政府が過去に犯した過ちを素直に認め、謝罪すべきであるとおもいます。 「徴用工問題は終わった」「なかった」とする日本政府には納得できません。 みなさんもぜひ一読願いたい本です。
朝は16℃くらいでした。日中は26℃まで上がった。日曜日で選挙の投票日ですが、私はいつもの牛乳を運んでいました。農家の庭にあった花🌷と、ドイツ製トラクター、フエントが置いてあったので、し写真を撮りました。このトラクター150馬力ですが、値段が2000万円以上します。早く仕事を終えて帰ったら、豊富町の友人が訪ねてきました。
朝9時で21℃。日中は25℃まで上がった。いつもの牛乳を取りに歩いていました。ちょうど豊富町の牧場を走っていたら、今日は自転車祭りで、牧場の道路は自電車でいっぱいでした。追い抜くこともままならず,ノロノロ運転でした。曇ってはいるけど、結構湿度も高くてムシムシしました。夕方からは涼しい風が吹いてきました。日中の家の中は30℃まで上がっていました。クーラーなどない我が家は汗がいっぱい。せめてシャワーを浴びることぐらいです。