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パウロの伝道旅行(21)
エペソでの集中伝道
「使徒の働き」18章23節から第3回伝道旅行に入ります。
時はA.D.53年春から56年春までと考えられています。
パウロは、まず小アジア内陸地方(ガラテヤ、フリュギア地方)の諸教会を訪問して励ましながら、エペソに着きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/8b/bafe1a0f405aba7b8a1ba198633fb820.jpg?1738804809)
(新改訳2017の巻末地図より)
赤い実線が第3回伝道旅行の旅程
パウロは、エペソをアンティオキア教会とヨーロッパを結ぶ拠点として考えていたらしく、ここで約2年3ヶ月の間、腰を据えて、伝道しています。
エペソ伝道は「使徒の働き」では19章がそれに当たります。
19章全体は大きく3つの部分に分けられます。
第1部(1〜8節)は、洗礼問題と聖霊体験について。
第2部(9〜20節)は、イエス・キリストの圧倒的な力を表しています。
第3部(21節以下)は、エペソで起こった騒動について書かれています。
今回は第1部と第2部について、解説いたします
洗礼問題と聖霊授与
パウロがエペソに入ると、そこで何人かの弟子たちと出会いました。
以下は会話形式で。
パウロ「信じたとき、聖霊を受けましたか」
弟子「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」
パウロ「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」
弟子「ヨハネのバプテスマです」
パウロ「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」
"これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。"
以上、使徒の働き 19章 1〜6節より
パウロが来る前に、すでにエペソの人達はイエス・キリストのことを知っていました。
(誰が伝道したのかは分かりませんが、福音が正しく伝わっていなかった。)
パウロは、エペソ教会の信徒たちがキリスト教が正しく伝わっていないことに気づきました。
問題は2つ。
①彼らは洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)の名によるバプテスマ(洗礼)しか受けていなかった。
つまり、イエス・キリストの名によるバプテスマを受けていなかったのです。
②聖霊の存在を知らされていなかった。
以上の2点です。
洗礼について
かつて、ペンテコステの日に、使徒ペテロはこう説教しています。
「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」 (使徒の働き 2章 38節)
そもそも、洗礼者ヨハネのバプテスマは、ヨハネの後にやって来られるキリストを受け入れるための心の準備をするためのものに過ぎなかったのです。
そしてペンテコステ以降、イエス・キリストの名によるバプテスマを受けるようになると、
次第にヨハネの名によるバプテスマは、イエス・キリストの名によるバプテスマに吸収され、行われなくなってきます。
しかし、ヨハネの名によるバプテスマは、地中海東部沿岸一帯にすでに広まっていたので、キリスト教が伝わった後でも行われ続けていたようです。
聖霊のバプテスマ
使徒19章2節で、パウロが弟子たちに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、
弟子たちは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えました。
しかし、パウロが主イエスの名によってバプテスマを授けて、手を置いて祈ると聖霊が降りました。
これは、かつて洗礼者ヨハネが
「"私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、
この方(イエス様)は聖霊によってバプテスマをお授けになります。(マルコ1章8節)」
と言っておられたのと合致しています。
また、ペンテコステの日に、使徒ペテロが
「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒の働き 2章 38節)
と言っていたのとも合致しています。
私たち現代のクリスチャンも同じなのです。
しかし、聖霊派の教会では、聖霊体験を強調し過ぎています。(きよめ派の教会でも聖化体験を強調し過ぎる教団もあります。)
だから、特別な(神がかり的な)体験をしていないと、聖霊を受けていないかのような誤解を与えてしまいます。
しかし、使徒ペテロは「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と言っています。
イエス様を救い主として心から信じて、イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けた人には、
体験や感情や気分に関係なく、すでに聖霊が与えられているのです。
私たちは時々「今日は神様がそばにいてくださる気がする」とかしないとか、その日の気分に左右されてしまうことがあります。
しかし、神様がそばにいてくださる気がしなくても、神様はいつでも私たちのそばにいてくださいます。それと同じです。
聖霊を授かったような気がするとかしないとか、感情に関係なく、キリストを信じて洗礼を受けたときに聖霊が与えられています。そのことを信じましょう。
また、聖霊は「みことば(聖書や説教)」と「聖礼典(洗礼と聖餐)」と共に働くということも覚えておきましょう。
聖霊が働かれるときに、聖書のことばも説教も、洗礼や聖餐式も、深くて、生き生きとした、意味あるものになってくるのです。
イエスの御名の勝利
その後、パウロはユダヤ教の会堂で3ヶ月間、伝道しますが、ユダヤ教徒たちが聞き入れようとせず、ののしったので、会堂を出て、講堂を借りて、そこで2年間ほとんど毎日伝道をしました。
この力の入れようから見ても、パウロがエペソを重要視していたことがうかがえます。
ここには大きく分けて三つの出来事があります。
①パウロが身に付けていた手ぬぐいや前掛けにまで、神様の力があふれ出していた。それらを触っただけで癒された。(12節)
②イエス様の御名を私利私欲のために利用した(悪用した)祈祷師が、かえって我が身に禍を招いた。(13〜16節)
③主イエスを信じた人たちが,魔術や呪いの習慣を捨てた。(19節)
クリスチャンでない人たちが、占いやお守りに頼ったり、仏壇や位牌を拝んだりするのは、「何が起こるか分からない」と思うと、不安になるからです。
でもクリスチャンの場合は、神様が愛の御方であると信じて、この神様に信頼して、未来のことは神様にお委ねしているから、それらのものにすがる必要はないのです。
もちろん、イエス様を信じていても、希望する進路に進めなかったり、好きな人と結婚できないこともあります。
しかし、神様は私たち1人1人のために最善の道(本当に幸せになれる道)を備えていてくださっておられます。
その神様に信頼していきましょう。
──主のことば──
わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。"
エレミヤ書 29章 11節
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