思うまま!

人生つれづれ、時の過ぎるに任せて
風きよし 月はさやけし
いざともに 踊りあかさん

湯河原

2008-02-29 09:39:36 | Weblog
茅ヶ崎に続いて湯河原に導入することになった
当時湯河原は他に大きなスーパーが無かったので良く客が入っていた
鶴見からは1時間半ほどかかっただろうか
湯河原には良く通った
POS設置の手順は先ずバックヤードに機器を仮設置する
そこに各種のプログラムをセットアップしていく
基本は磁気テープにあるシステムの環境一式をロードすることから始まる
店舗毎の分類コードである部門コードとクラスコードをセットアップする
次はあらかじめ調査してあった店の品揃えの商品マスターをセットアップする
商品数は1万から1万5千アイテムほどあった
一通りのセットアップが出来るとレジ操作をチェッカーにコントローラーの操作を店担当社に教育をする
一番の山場はPOS機器の本設置だ
通常店は1日の休みを取る
閉店後に旧レジを撤去して新しい機器を搬入し設置する
設置はフィールド担当の技術者が数名きて担当する
ソフト担当はSEと呼んでいた
全機器の設置が完了した段階で動作確認をする
これらの作業が終わるのは夜中頃だった
翌日には最終の大きなイベントが待っている





茅ヶ崎

2008-02-28 10:25:25 | Weblog
三店目の店舗は神奈川の茅ヶ崎だった
安城の店舗はシステムを改造したソフト会社の人がついていた
茅ヶ崎は地元のソフト会社の担当者と二人だけで立ち上げることになった
これ以降全国の数十店舗のセットアップすることになる
営業中の店舗のバックヤードに新しいPOS機器を仮設置し商品マスタのセットアップとチェッカーのレジ教育を実施した
閉店後には店長等と酒盛りになることがたびたびだった
これまで東京ではホテル住まいだったがN電気の主任の希望もあり東京での宿舎を借りることにした
これも短絡的に余り考えることもなく交通の便利なところと考え鶴見の駅前のワンルームマンションを借りた
駅から一分の所だった
ここでは一から家具をそろえた
最初は近くの商店街から布団一式を買った
次に買ったのは目覚まし時計だった
小さな炊事場があったが瓦斯の契約はしなかった
食事は出張の続きと考え外食を考えていた
当初からもう少し慎重に考えるべきだっただろう
小さな電気ポットがあったのでお湯だけは沸かせた
冷蔵庫も小さなのを買った
朝食は出来る限る火を使わずに出来るものを心掛けた
宿舎はあくまでもホテルの代わりだったので毎週のごとく大阪には帰っていた
五月一日には茅ヶ崎店の無事オープンを迎えた





改造

2008-02-27 09:38:38 | Weblog
新装オープンの店舗は売り上げも特別に多くなる
POSレジは特に問題が無かったが事務所のコントローラの売り上げ集計が大幅な遅れが生じた
顧客のレシートの情報を部門別に集計していた
これを集計するプロセッサーはBGPというコンピュータが組み込まれていた
当時では最新だったかも知れないが8026と言うプロセッサーだった
鹿児島で実績があったので大丈夫と思っていた
翌日の開店時間がきても終わらなかった
やむを得ず名古屋の事務所で集計処理を追っかけてやることになった
開店日からの3日間は大変な騒動だった
東京の事務所に帰ってプログラムを分析するとレシートの各売上を部門別に集計するのに時間が掛かっていた
鹿児島では12分類で部門コードが01から12と連続していた
安城では部門数は25分類でコード体系が01から99まで飛び飛びにつけられていた
一日で売れるアイテム数は客数が2000人とすると20000アイテムを超える
これを01から99までを分類するのに時間が掛かる仕組みだった
とりあえず応急的にプログラムを改造して何とか使用に耐えるようにした
開店日から20日ほど掛かったが新しいプログラムをリリースすることが出来た


安城

2008-02-26 09:11:38 | Weblog
N電機では事業部単位で顧客に対応していた
契約したのは公共事業部だった
農協系の金融と流通を対応しており契約した主任は流通担当だった
農協のスーパーとしてAコープがあった
鹿児島でも公共事業部の最初の店舗として桜ヶ丘店にPOS端末が導入されていた
機種はN6855で流通で使用していたPOSシステムの部門数を99分類まで拡大したのが導入されていた
POSレジの情報をN6855コントローラでリアルタイムに売上を集計する仕組みだった
これ以降農協系の店舗システムと長く付き合うことになる
年末頃に今度は愛知県の安城の店舗に同じPOSシステムが導入されることになり準備に入った
安城にはホストコンピュータとしてF社製のコンピュータが導入されていた
そのホストと今度導入するPOSと通信で接続する必要があった
急遽プログラムの作成を依頼された
JCA手順と言ってそのころ流通業界では標準の手順だった
調布の工場とも打ち合わせしてプログラムを作り通信専用のシミュレータでテストを実施した
主任からの指示で綿密な接続テストの仕様書も作成した
翌年の2月初めにF社のコンピュータと接続テスト実施した
最初の一回のテストで接続テストは完了した
これ以後機会ある事にプログラムを作成することになる
2月下旬開店の為名古屋にホテルをとり毎日準備に通った
オープン日は順調に稼働したが大きな問題が発生した


上京

2008-02-25 10:40:29 | Weblog
それはあるソフト会社の部長さんだった
流通に詳しいSEを探しているとのこと
そこにたまたま居合わせたので直ぐに紹介して頂いた
週末だったので早速週明けの月曜日に上京しN電機の本社で課長さんと担当の主任さん達に会った
翌日には契約の返事があり直ぐに上京して欲しいと連絡が入り水曜日から上京した
最初は月曜に上京し金曜日に帰阪する出張のような感じだった
仕事の内容は農協向けの流通システムの対応だった
これが結果としてこれから20年続くとは予想できなかった
実際もしその都度仕事を探す生活だったらどうだっただろう
しかしそれは結果の話で契約は仕事単位の細切れだった
すぐに鹿児島経済連の対応で鹿児島に出張した




ヨセミテ

2008-02-24 10:11:11 | Weblog
販売を計画しているシステムのデモンストレーションに米国から2人きてくれた
システム開発の工程を半減する画期的なシステムと考えていた
思った通りデモも完璧と思った
週末には鬼怒川温泉と日光に一緒に行った
サンフランシスコでユーザーを交えてカンファレンスがあるというので出席することにした
カンファレンスの前にサンフランシスコからヨセミテへ一泊のバスツアーに行った
ヨセミテは国立公園で大昔の氷河の後の広大な谷間で千メートルほど高い滝がいくつもある
公園内はシャトルバスで行き来が自由だ
トロッコのような遊覧バスで公園内を観覧できる
20センチもする松かさを土産として持ち帰った
カンファレンスも色んな意見が出て大丈夫と確信した
年末頃まで案内文書も作りDMなど発送し10社ほどから返事が来た
順次各社をまわりセールスしたが芳しい返事はなかった
年末になり手持ち資金も底をつきかけやっと夢から覚める思いがした
何と無鉄砲なことを始めたものと
その年の年末は最悪だった
年を明けてプログラム作成の経験を生かし仕事を始めた
京都の部品生産管理やクラブの請求書発行などをやりかけた
8月の終わり頃事務所にいると思いがけない出会いが出来た




待兼山

2008-02-23 10:29:33 | Weblog
D社を退職するためには社内融資を返済しなければならない
確認したことはないがそれが当然と思っていた
当時は住宅融資の借り換えは一般的ではなかった
取引している銀行に相談したが駄目と言うことだった
他の金融機関ならどうだっただろうか知らないが確認はしていない
新聞の折り込み広告で2,3度見た待兼山のマンションを見にいった
かろうじて予算に合う部屋は道路の音が気になり止めることにした
帰りかけると営業マンがキャンセルの部屋があると案内してくれた
道路側の棟の裏の棟でで一戸だけのマンションだった
4階だったが傾斜地のため1階のような立地だった
玄関が広くバルコニーも1階のように広くとても気にいった
裏は山で木々が多くとても市内とは思われなかった
電車の駅から5,6分の所でとても静かだった
部屋数は4LDKで窓も全室あった
価格は3千万以上したが購入を決めた
30年ローンを組むと完済は75歳ぐらいになるが気にしなかった
実のところローンの詳細は覚えていない
一旗揚げて返済するつもりだったのか
当時住んでいたマンションの倍以上の価格だった
退職する勢いだったのだろうか
7月頃には引越をした
引越もお任せ引越で荷造り一式も頼んだ
最初の一年はD社の退職金をあてにしていた




再渡米

2008-02-22 10:43:03 | Weblog
本論に行く前に再度渡米した
今度はI社の招待で本部長から私だけが指名された
確かロサンゼルス経由でヒューストンに行った
ある百貨店の大型商品管理システムの研修だった
ビッグチケットと言って4連ぐらいのカードをコンピュータで作成し商品管理をしていた
詳細は忘れたがロケットの発射施設を見学したり週末にはニューオリンズまで小旅行したのを想い出す
ニューオリンズではバスで市内観光したりプリザベーヨン・ホールでジャズを聞いたりミシシップ河クルーズなどの観光は鮮明に覚えている
帰りはやはりハワイに寄った
ワイキキではイエローページで見つけたある海岸までの半日ツアーに行った
シュノーケルで海の中を見ると熱帯魚が沢山泳いでいるのが良く見えた
またホテルのサンセットクルーズのヨットに乗りディナーを食べた
色々とI社には世話になったがシステムを導入するときはN社のコンピュータを決めた
罪作りなことをしたと今は反省している
そんなわけで特に仕事面は問題は無かったがやや個人的な問題でまた会社を辞めようと思った
本部長からも次期部長に推すとの話もあったが止めることにした
システムを作成するツールを販売すれば絶対に往けると確信していた
あたかも清水の舞台から飛び降りるようなものだった


マンション

2008-02-21 09:03:53 | Weblog
そのころ社宅に住んでいたがたまたま同じ町内にマンションが立つことになった
冷やかしのつもりで内示会に行くと7階で72へーべー3LDKの部屋があった
とても気に入りその場で手持ちの現金で申し込んだ
リビングが広く壁一面に新しい家具を買った
借入は社内の財形融資と住宅公団だった
社内融資は57歳の定年には完済する計算だった
今から思えばあのころが人生で一番輝いていたときだ
妻もマンション内にたくさん友だちが出来ケーキ作りや造花などを作り楽しんでいた
また取引先の人と北新地など時々行くことがあった
取引先の社長の誘いで会社を辞めることにして辞職願を提出した
その時は人事部長からの説得で辞職を思いとぞまった
そんなこともあり食品センターのEDPから本社の情報企画部に異動になった
そこでは2,3年以上いたと思うが詳細は思い出せない
子供も大学と高校生になるときまたまた事件が起きた



事件

2008-02-20 10:32:58 | Weblog
ある朝礼時に事件が起きた
全体朝礼で100人以上いたと思う
部長の訓辞が長く何か個人的なことを指摘していたと思うが詳細は記憶にない
余りにもくどく話をされるので私はたまらず「止めて下さい」と発言した
全員の前での発言でその場は気まずくなった
後で言い過ぎましたと誤ったのは覚えているがその後は良い関係では無くなった
それからしばらくして本社の商品管理部に転勤が決まった
私はコンピュータの仕事から離れるのはまさかと思ったが仕方が無かった
この時三田から豊中に引っ越すことになった
豊中は今も住んでいる
商品管理部では部長も替わり非常に個性のある人になった
ある問題に関しねちねちと追求し部下を血祭りに上げる人だった
他の部員なら冷ややかに見ておられるがある時私がその立場になった
いくら説得しても箸にも棒にも掛からない典型的な人だった
そんなとき茨木に食品センターが新設されEDPシステムを新しく導入されることになりそこに移動が決まった
そこには情報処理部から私同様に転勤になっていた者が集結するような人事だった
開発が進んでいたが機器の増設など色々と提案した
1年ぐらいたった後だっただろうか所長とEDPの課長が会わなかったのか課長の移動が決まり所長から後任の課長に推されることになった
食品センターのEDPは情報処理部からは独立しており商品部の食品部門に所属していた
一国一城の主になったのだからそれで満足しておけば良かったがそれでは収まらなかった