語るに足りる、 ささやかな人生

所謂、コロナ以前、コロナ以後、コロナと共に生きていく
というテーマで、自身の病気のこと、体調、雑文、日記、備忘録

Live Under The Sky

2020-08-18 09:55:53 | 日記
やっと、これを書く気になった。

時を経て、

1980年代の後半。

たった一音でその場の空気、いや万博公園いや北摂いや大阪中、いや日本中、いや地球上、いや宇宙空間までもの、雰囲気を変えたミュージシャン。

「マイルス・デイヴィス」



JAZZ界の帝王は言うまでもなく、その時、私はマイルスを”神”のような存在に見えた。

オープンニングから、緊張感に包まれ異様な雰囲気が辺りを漂っていた。

そして、夕景迫るその瞬間、マイルスの存在が見えた。

マウスピースに唇を当てた、しかし、吹かない。

緊張感は頂点に達した。

その瞬間、マイルスは”一音”を鳴らした。

その瞬間、

空気が変わった。

灼熱の太陽が降り注いだ日中、夕刻からはそよ風が吹いたような感じもあった、しかし、この一瞬・一音は違う。

あれだけ騒いでいたオーディエンスも鎮まり、静けさのなかの、一瞬、一音で、変えてしまったトランペッター。

それが、

帝王「マイルス・デイヴィス」だ。



その光景は多くの居合わせたオーディエンスが証人だ。

私だけではない。

ジャズライブ・ハウスのマスターも、居合わせた友人も、全く見ず知らずの人達も、異口同音に、それを語りだす。


言葉(文字)では言い表すことが出来ず、

30数年経って、書き起こすというかキーボードに打ち込むことを決心した。

もっと、はやく伝えることも出来たかもしれない。

多くのジャズ評論家や似非評論家達はこぞって書いている。

やはり、自分の体験を、感じたことを、ストレートに打ち明けたほうがよいと思った。

だから、30数年の熟成が必要だった。


「たった、一音で空気を変えたトランペッター」


私には、それしか、表現することができない。




それが、マイルス・デイヴィスだ。





※ライブ・アンダー・ザ・スカイ (Live Under the Sky) は、1977年(昭和52年)から1992年(平成4年)にかけて毎年夏(7月)に催されていた、日本のジャズフェスティバル。

多くのジャズミュージシャンを招聘・集めて開催された野外コンサート。東京都大田区田園調布の田園コロシアム(スタジアム、テニスコート)にて始まった。騒音問題により、会場をよみうりランドオープンシアターEAST(野外音楽堂)に移す。ジャズのライブということで、アドリブ/インプロヴィゼーションの掛け合いをファンは楽しんだ。ハービー・ハンコックのV.S.O.P.クインテットなど、ファンが「伝説」と呼ぶ演奏を残した。

また、全国各地をツアーする年もあり、札幌・仙台・富山・名古屋・大阪・福岡・香港などで開催された事もある(札幌など地方ではホールでの開催例もある)。

メインスポンサーである日本たばこ産業の方針変更により、1992年(平成4年)をもって終了となった。

正式なイベントの名称は「Select - Live Under The Sky」である。「Select」の語は当時の日本たばこ産業の製品の宣伝コピーを元にしたもの。
















遠い日の夏

2020-08-09 09:56:27 | 日記
カメラは一瞬で今を切り取ってしまい、その瞬間から過去になる。

今は小さな画面ですぐに見れ、
「これいいね。」
と言って、微笑んでいる。

そして、何年か経って、
「ああ、あそこ行ったんだよね。」
と懐かしむ。

もっと年数を経て、
「こんなに、空と海は輝ていたんだ。」
と幼き自分を見つめている。

そして、
「こんなにも、素敵な時を過ごしていたんだ。」
と思う。

と、今回は写真ブログのようにして、いろいろ思慮してみる。

夏の戯れ

私はこの写真を気に入っている。
偶然、撮ったワンショットだが、子供たちの戯れを、自分の幼き日を思い浮かべる。
海があった故郷ではなかったのだが。



真昼の灯り

想像すると創造の明かりが灯る時がたまにある。



廊下

小学3年生まで木造の校舎でこんな廊下だったろうか。

海が見える教室

きっと自分なら流れ行く雲や小舟を眺めて、先生に注意されるのだな。


島のオルガン

あの音色が今でも耳に残る。



これは先生の机かな



かなり古い時代の教室だったことがわかる


カメラがある


映画の撮影があった


木造校舎


路地①

路地②

路地③

物干し

お分かりのように映画のセットですね。
ここは。

ここを目的に訪れたのではないのだが、
たまにはフェリーに乗りたいと、近くで気まぐれ旅

この場所を舞台にした映画を思い起こす。

お分かりだと思いますが、


です。

小学校の時なのかな?
テレビでの放送なのかな?
涙が出て止まらなかったな。

『二十四の瞳』(にじゅうしのひとみ)は、1952年(昭和27年)に日本の壺井栄が発表した小説である。
第二次世界大戦の終結から7年後に発表された小説で、作者の壺井栄は、自身が戦時中を生きた者として、この戦争が一般庶民にもたらした数多くの苦難と悲劇を描いた。
発表の2年後の1954年(昭和29年)に映画化された『二十四の瞳』を含め、これまで映画2回、テレビドラマ7回、テレビアニメ1回、計10回映像化された。

多分、映画のほうだろう。

広島・長崎から75年の今年、核兵器・戦争の文字はこの世からはなくなってない。

いや、なにかを伝える機会が徐々に失われてる感じがする、

令和の時代。

先日のベイルートでの化学薬品工場の爆発のキノコ雲をTVの映像で見て、
一瞬、小型の原子爆弾かと恐怖を覚えた。場所が場所だけに、人間は三度、愚かな方向へと行くのかと危惧した。

より一層の混乱と混迷の時代、

「未来をどう生きる」

を常に我々に問われている。


未来への灯台



オリーブの花言葉は、
「平和と智慧 」
だそうである。


2020年8月9日(日曜日) 猛暑の夏

人生の3時間

2020-08-06 08:51:36 | 日記
今日は8月6日。

ちょっと、いつもと趣向が違いますが、

「人生の3時間」

について考えてみたいと思います。

人生のうちの3時間はそんなに大した時間に感じない人もいるかも知れません。
一年のうちの3時間もごく僅かな時間かも知れません。
一か月ではどうでしょうか。
一日のうちの3時間は、非常に貴重な時間だと感じる人もいるでしょう。

会社の3時間の会議はつらいなぁとか。
主婦(主夫)の朝の3時間なんて、子供のお弁当作り、送り出し、掃除、洗濯、家事で、
余裕なんかないわよと思われます。

3時間もあれば、小説・本を読めるし、
映画の1本も観れるなぁ、
ギター・ピアノの練習には十分だ、
フィットネスクラブで汗を流せば爽快に感じる人もいるでしょう。

そういう時間軸の感じ方は人それぞれですが、
貴重な時間には間違いありません。

では、あなたに24時間+3時間自由に与えることができたとしたら、
どうしますか?
何に使ってもいいです。

自分の為でもいいですし、
人に施すものもいいでしょう。

*****************


「あ~昨日の病院の3時間待ちは辛かったなぁ~」

いろいろと3時間もあれば何が出来るだろうかと、
考えた待合室の空間でした。








写真は小学校の修学旅行でいった広島です。

何年前だろう。





哀悼 鈴木常吉/思ひで

2020-07-28 12:07:23 | 日記
鈴木常吉/思ひで

ミュージシャンの鈴木常吉さんが今月6日に食道がんで亡くなっていたことが27日、分かった。65歳だった。 鈴木さんのスタッフがツイッターで明らかにした。すでに家族葬が執り行われたという。 同ツイッターでは「【報告】」とし、「かねてより食道がんの病気療養中でした鈴木常吉は令和2年7月6日に自宅より天国に旅立ちました」と死去を伝えた。「あまりに突然だったことと、社会状況が大変だったこともあり、お知らせが遅れましたこと心よりお詫び申し上げます。家族葬を滞りなく相済ませ、鈴木も今はSTAY HOMEいたしております」と報告した。 また「生前様々な方より賜りましたご厚誼、また音楽を愛して下さった皆様へ厚く御礼申し上げます」と感謝し、「snsでのご報告になりましたこと、お赦し下さいませ」とつづった。 鈴木さんは1954年、東京都生まれ。80年代に「セメントミキサーズ」のボーカル兼ギターとして、TBS系「イカすバンド天国」に出場した。90年に「笑う身体」でデビューし、06年リリースの初ソロ作品「ぜいご」に収録された楽曲「思ひ出」がTBS系ドラマ「深夜食堂」のオープニング曲に採用された。俳優としても活動し、オダギリジョー主演の映画「オーバー・フェンス」(16年)、柳楽優弥主演の「夜明け」(19年)になどに出演した。 

生前の鈴木常吉さんのLIVEで