100年後の君へ

昔書いたブログですが、時折更新しています。

時間への問い4 「今」の二大流派 現代哲学VS禅・日本刀

2024年06月22日 | 100年後の君へ
 自由意志派 ベルクソン 岡本太郎 一目山人 
 時間を意識として捉え、哲学的意味を求めたのはベルクソンだった。彼は時間を意識の持続と定義した。そう考えると、時間は意識を有する個人各々に与えられている事になり、時間には個別性がある事になる。ヘーゲル的に言えば推理の形式たる{特殊性‐個別性‐普遍性}の個別性に注目した考え方だ。
 ベルクソンの考え方によると、個人の意識として現象する個別的な時間こそが自由の根拠であり、自由意志に他ならない。その自由意志と化した時間の持続が個人を特殊性ある人格へと進化させ、かかる自由で特殊な個人が同じ条件を持つ他者と協同で作り上げているものが社会であり文明という事になる。
 そして時間の持続とは空間のように均質な状態が続くという意味ではなく、特殊な時間が瞬間ごとに生起しているとされる。時間が瞬間ごとに意識を創り、世界を創っているという考え方である。その瞬間がベルクソンにおける「今」である。
 これは彼自身が後に展開した『創造的進化』に通ずる考え方と言えるが、哲学的にはもっと深い考え方である。瞬間ごとに新たな時間即ち意識が生起するのだから、そこには自らの過去を悔い改め、誤りを正す自由も存在するからである。
 ベルクソンの考え方は、時間と自由意志を結び付け、科学的決定論を克服しようとしたものだった。人間主義的なその思想は実に魅力的である。「瞬間は永遠だ」と喝破した岡本太郎の言葉も、ベルクソンに通じるものだろう。また株価の分析に使われる一目均衡表もベルクソンの考え方と同じだ。一目均衡表においては、株価を変化させるのはファンダメンタルズでも需給関係でもなく、時間だからである。一目均衡表の作者・一目山人の天才に驚くしかない。

 無時間派 ヘーゲル 道元 日本刀
 一方、「今」は無であるという考え方がある。
 ヘーゲルも、「今」は意識としては即自的な意識、即ちそれ自体では内容空虚な無でしかないと規定していた。時間的な存在を持たない無である。これをヘーゲルとは無関係に追求した思想が禅である。道元はそのような今を「而今」と呼び、そこに仏の実相を観じた。道元の而今を時間的な無と理解しても決して間違いではないであろう。
 今とは無の時間なのである。
 しかし時間が存在しないのは恐ろしい事だ。とても衆生の欲するところではない。
 そこで禅では、公案を使ったり、絵画を使ったりして、無の時間を示そうとして来た。禅的世界を表した水墨画は時間なき世界の景色と見る事ができる。
 今はまだ私以外知る者は少ないが、日本刀にはそんな無の時間が、これ以上ない形で表されている。
 日本刀作りにおいてはどの瞬間も間違いが許されない「今」である。一振りの刀身にはそんな今が無数に凝縮している。それが焼き入れを終え、日本刀として完成した時、作者の意識は否定され、無数の今も消滅する。今という無の時間が個人の意識を離れて客観的な時間に帰ると言うべきか。代わって刀身に「無の時間」としての「今」が示現するのである。永遠の今だ。
 従って日本刀の景色は、水墨画のそれ以上に、而今の実相を表しているのである。
 現在の刀剣鑑賞においては、ことに刃紋の研究が遅れている。日本刀は初心者ほど地鉄に目が行きやすい。確かに日本刀の地鉄はそれだけで宝石以上に美しいものではある。しかしそれは日本刀の質料に過ぎない。日本刀を日本刀たらしめているのはその形相、即ち姿と地刃の働きだ。特に刃紋は水墨画と同じ時間無き世界の山水として見る事ができる。映りも地沸も刃紋がなければ刀の形相にはならない。
 質料より形相を上位に置くのは、古代ギリシア以来、哲学の王道である。そのような見方で日本刀に接すると、無の形相とでも呼ぶしかないヘーゲルや禅における無の時間、代替不可能な「今」を体験できる。
 このように無の時間としての「今」は、言語的に知解されるよりも、実践的に経験されるものなのである。
 



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時間への問い3 相対性理論の「今」

2024年06月21日 | 100年後の君へ
 時間的判断力
 ヘーゲルの時間論は、「今」と「ここ」は主観的な意識の状態であるというものだった(「今」とは何か?)。主観的な「ここ」は自他を区別する機能であり、他者からも認識可能な客観的な位置、即ち「場所」になる。一方、主観的な「今」は人類共通の物理的共通事項として客観的世界に時間を現象させている。
 時間については更に説明が必要だ。「今」は主観的な意識状態だが、他者の今と自分の今は、客観的世界で全く同じ「今」として現象しているのである。それが客観的世界における時間の原因となっているのだ。アリストテレス的に言えば主観的な「今」が客観的な時間の形相因なのである。更に言えば、客観的な時間の目的因は主観的な今を再措定する事である。
 これは認識論ではなく、物理学として議論されねばならない。
 相対性理論では時間の運動量は、重力が大きいほど少なく、重力が小さいほど大きい。だから地球の重力の影響を大きく受ける地表より上空の方が時間が早く進む。また重力は速度に比例して大きくなるので、高速で移動している宇宙船の中では地球より時間が遅く進む。そのため光速で移動する宇宙船の乗組員が地球に帰って来た時には、地球人は数十年歳を取っているのに、乗組員はほとんど歳を取っていないという現象が生じる。この場合、乗組員が経験している今と地球人が経験している今は、同じ今なのか違う今なのか?
 答えは同じ今である。
 ではなぜ同じ今を経験しているのに、乗組員の時間と地球人の時間が数十年も違うのか?
 それは時間とは「今と今の間の量」だからである。
 相対性理論の遅延効果で延びたのは今と今の間の量であり、主観的な今は全く変化していない。物理学的には、時間とは地球の自転や原子の振動やレーザー光の周波数といった物理的共通事項で計られる量である。そして主観的な今は客観的世界の共通事項である。という事は、主観的な今こそが絶対時間という事になる。主観的な今が絶対時間だからこそ、相対性理論における客観的時間の変化が可能なのである。

 相対性理論が証明したのは主観的な今が客観的な時間を創り出しているという宇宙の構造であり、主観的な今の絶対性だったのである。宇宙船乗組員と地球人との間でズレたのは客観的な時間であり、今は変わっていない。即ち人類が個人の主観としか思っていない「今」とは宇宙の絶対時間による意識の規定なのである。
 相対性理論はニュートンの絶対時間を否定したのではなく、よりパワーアップした形で蘇えらせたのである。




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時間への問い2 「今」とは何か?

2024年06月16日 | 100年後の君へ
 「今」と「ここ」に始まるヘーゲルの世界
 今とは何か? ヘーゲルはそれを意識であるとしている。意識は「今」と「ここ」から始まる。「今」と「ここ」は通常考えられているような客観的世界の時間と空間における位置関係ではなく、主観の始まりなのである。『精神現象学』では「今」と「ここ」は感覚的確信と呼ばれている。感覚的確信は自然的意識であり、彼の哲学体系では即自的意識とされる。即自的意識は自己内反照し、対自的意識に転化する。この自己内反照は自然的意識の否定だ。それが自己意識である。そして自己意識が他者を規定し、世界を創り出している。他者とは個別的な他人だけでなく、自己以外の全ての対象である。つまり世界とは「今」と「ここ」から始まる「現象」に他ならない。
 この世界現象過程は「推理」と呼ばれており、{特殊性‐個別性‐普遍性}と表記される。「今」と「ここ」に埋没している自然的意識が特殊性、自然的意識を否定して現象する自己意識が個別性、他者関係に目覚めた意識が普遍性である。

 無の時間
 「今」と「ここ」から始まるヘーゲルの世界においては、時間と空間も客観的な形式ではない。彼は「時間の内にあらゆる存在が生じては消えて行くのではなく、時間そのものが存在のエネルギーである」と言い(『エンチュクロペディ』258節)、そのエネルギーの目的は精神を創り出す事であるとしている。世人はそれを絶対精神の自己発展と呼ぶが、ヘーゲルの哲学体系では上記の「推理」と呼ばれている。即ち時間は推理なのである。そして自己意識によって対象化され、規定された時間が、現在、過去、未来という時間の三態となるのだ。
 更にヘーゲルは、時間的な過去と未来こそが空間の概念であるとも言い、エネルギーとしての時間が自然界に存在する空間に及ぼす作用に言及している(同259節)。
 一方、「今」はそこから全てが始まる起点であり、何ものにも干渉されていない純粋な時間である。その意味で「今」は「無」である。
 ヘーゲルはニュートンの絶対時間と絶対空間を否定していたが、時間に対する彼の考え方は現代物理学の5次元に蘇ったニュートンの絶対時間と一致する(甦るニュートン)。そしてヘーゲルの「今」はエンゲルスのナンセンスなレトリックたる「認識できるような変化が全く起らない時間は時間でないどころではなく、これこそが時間そのものなのである(『反デューリング論』国民文庫 P.78)」への反証的証明となっている。




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時間への問い1 甦るニュートン

2024年06月08日 | 100年後の君へ
 甦るニュートン
 世の中には様々な時間がある。幾何学では二次元化された抽象的な量。古典力学では物理的な量。熱力学ではエントロピーの増大。相対性理論では時間と空間を一体として捉えた時空の曲率。量子力学ではプランク定数を最小単位とした波動関数。いずれも時間を計測可能な量として捉えている。
 ニュートンの絶対時間は相対性理論によって否定されたとされているが、相対性理論では重力が空間に曲率を与え、それが時間を規定しているとされる。ならば重力が空間に作用し続けている間の時間は、何に規定されているのか? 時間が空間の曲率に規定されるなら、空間を変化させている重力は時間とは別の物という事になる。映画『インターステラー』ではそのような解釈を採っている。映画では5次元の概念が持ち出され、その矛盾に応えているが、要するに重力には相対性理論とは別の時間が作用しており、それが重力の動力因となって空間を歪曲させていると解釈できよう。
 ならばこれこそがニュートンの絶対時間という事になる。5次元で蘇ったニュートン。幾何学的な時間論、熱力学的な時間論、量子力学的な時間論でも同じ事だ。時間を物質の変化・運動として捉える限り、その動力因は何かが問われるからである。相対性理論によって否定されたはずの絶対時間が、あたかも機会原因論のごとく、一段とパワーアップして甦ったと言えよう。

 アリストテレスの定義
 時間を量として定義した最初の人物はアリストテレスだった。彼の定義では「時間とは変化と変化の間の量」「時間とは前後に関する運動の数」「時間は連続的で不可逆である」とされる。それが現代科学の時間概念の基礎となっている。量子力学における観測者効果も、アリストテレスは「運動とは可能態から現実態への変化である」という確率論的な発想で先取りしていた。現代科学の時間論はアリストテレスの時間論を発展させたものに過ぎない。

 時間とは変化なのか?
 ではアリストテレスは時間を変化・運動として捉えていたのだろうか? 時間とは事物の変化・運動なのか、時間があるから事物は変化・運動するのか? そもそも時間は存在するのか? 事物の変化・運動が時間なら、時間はその付帯現象に過ぎず、時間そのものは存在しない事になる。一方、時間があるから事物が変化・運動するならば、変化・運動の動力因としての時間とは何かという新たな疑問が生じる。
 ニュートンの絶対時間はアリストテレスへの回答だった。
 相対性理論で相対時間が現象可能なのも、事物の変化・運動を絶対的に規定する絶対時間があるからと考えられる。

 エンゲルスの言葉
 かかる絶対時間を端的に言い表しているのがエンゲルスの言葉だ。エンゲルスは「時間とは、変化とは別のものだからこそ、変化によって計る事ができるのである」と言い、「だから認識できるような変化が全く起らない時間は時間でないどころではなく、これこそが時間そのものなのである」と言っている(『反デューリング論』国民文庫 P.78)。エンゲルスの言葉はデューリングを揶揄するためのナンセンスなレトリックだが、時間の実相を考える上では極めて重要な考え方である。
 エンゲルスもニュートンもかかる絶対時間が事物の変化・運動にどう関係しているのかまでは考えていないが、当ブログではそこから先を考えてみよう。



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