楽天爺さんの気まぐれ日記

・田舎暮らしを楽しんでいます。

心に響く!!名経営者の言葉No.079

2015-05-20 | 先人の知恵に学ぶ

  PHP『心に響く・名経営者の言葉』
        第5章 挑戦する言葉・No.002
「堅固な戦略を背景に、計画をきちんと
 立てて経営する時代は終わったようだ。
  今や出たとこ勝負で、積極的に試行錯誤を
    やる方がいいのではなかろうか」
             菊池庄次郎  元日本郵船社長・会長(1912~84)
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菊池庄次郎は宮城県仙台市で生まれた、
昭和9(1934)年に東京帝国大学経済学部を卒業し、日本郵船へ入社。
 四七歳の若さで取締役営業部長に就任。さらに、常務取締役、取締役副社長
などを歴任し、昭和46年に同社社長に就任した。
 だが、菊地が社長に就任したのはニクソンショックで円レートが一気に2割近く
も高くなり、さらに92日にもわたる海員ストライキが発生した深刻な時期。
 日本の海運事業の国際競争力は低下し、日本郵船さえ先が見えない状況だった。
このとき菊地は、仕組船を大幅に増やそうと考えた。仕組船とは、コストの安い外国
の法人が所有する船を日本の海運会社が自社の船のようにコントロールするというもの。
 当時は「まっとうな海運業者がやるようなことではない」といわれていたというから、菊地
の考えは当時としては非常識以外のなにものでもなかった。
 だが菊地は、国際競争力を再び取り戻すためにはこの方法しかないと考えたのだ。
さらに、保有タンカーの削減や電力用炭の輸送業への進出など、考え得るかぎりの合理
化を進めた。その最たるものは、海運業を営んでいながら「海上貨物輸送が航空貨物輸
送に変わる」と考えたことだろう。
 他の大手海運業者とともに全日本空輪と組んで「日本貨物航空」を設立したのである。
海運業者だちからは「裏切り者」とそしりを受けることもあったが、菊地は「貨物を追いか
けていくという自衛の行動である」とキッパリ語った。
 だが、当時は航空先進国のアメリカにも貨物専用航空会社など存在せず、運輸省(当
時)の認可も簡単に下りなかった。
 日本貨物航空は昭和53年に設立されたものの、東京とニューヨーク問の貨物航空事
業が認可されるまでにはさらに五年の歳月が必要だった。
 このような菊地の合理的な経営手腕は「菊地商法」と呼ばれ、不況時における経営者
の手本とされた。だが冒頭の言葉を見ると、菊地も完璧な勝算があって推し進めたわけ
ではないことがわかる。

計画的な行動、が基本であるのはいうまでもないが、ピンチに立
                だされたときには直感で勝負することも必要なのだ。
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莫妄想(まくもうそう)
あれこれ妄想して思い悩むのをやめる。
他人と比べて嫉妬したり、過ぎたことをくよくよ考えたり、
先のことをあれこれ思い悩んだりしない。不安や疑念はすべて妄想から始まる。
                          :気持ちが楽になる禅の言葉より 



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