楽天爺さんの気まぐれ日記

・田舎暮らしを楽しんでいます。

心に響く!!名経営者の言葉No.080

2015-06-08 | 先人の知恵に学ぶ

  PHP『心に響く・名経営者の言葉』
        第5章 挑戦する言葉・No.003
「人には”天下一品の使命”といって、
  その人でなければ持ち合わせていない
     特性あるいは才能がある」
             倉田主税  元日立製作所社・会長(1889~1969)
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 倉田主税は福岡県宗像郡神興村(現在の福津市)に生まれる。
生家は造り酒屋を営み、たいへん裕福な暮らしぶりだった。
 県立小倉工業学校卒業後、仙台高等工業学校(現在の東北大学工学部)機械科に入学。
明治45(1921)年に同校を卒業し、久原鉱業所に入社。
 だが、この年の末に徴兵され兵役生活を送ることになった。
兵役を終えて同鉱業所へ戻った倉田は、大正9(1920)年に日立製作所独立とともに同社に
転じ、創業者の小平浪平に自社の鉱山から産出される銅を用いて電線を製造するよう求め
られた。まったく自信がなく最初は断わったものの、小平に「お前ならできる」と言われ、それ
以降20年間、電線ひとすじに取り組むことになった。
 倉田は電線部長などを経て、昭和16(1942)年に日立製作所取締役に就任。
終戦後、小平が公職追放指教を受けたため、その跡を継いで昭和22年に日立製作所
二代目社長に就任した。
だが、日立製作所はアメリカ軍の爆撃によってほとんどの工場が破壊されてしまい、しかも
重工業分野への進出も禁止され、戦前の事業を再開できるような状態ではなかった。
 そこで倉田は、鉄道用車両の修理や製作に手を広げ、同社の再興を図った。
その後、公職追放解除を受けた小平に「社長に復帰してほしい」と懇願したというが、小平は
倉田の努力によって復活した工場の様子を見て、それを断わったという。
 倉田は自らのことを「生涯一技術者」と言ってはばからなかった。
小平から電線事業を任されたときには寝食を忘れて研究に没頭したという。
 これこそが倉田の「天下一品の使命」だったのだろう。
そしてこの経験があったから、適材適所に人を配置すること、人の才能を伸ばすことの大切さ
がわかっていたのだろう。
 ちなみに倉田は、日本の科学技術振興の重要性を常に力説し、日立製作所の会長退任時
には受け取った退職金を投じて財団法人国産技術振興会(現在の倉田記念日立科学技術財
団)を設立するなどして若い科学技術者の育成に尽くした。
 これも、自らが技術者だったからこそ成せる業だろう。
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明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)
ほんとうに大切なものは、あなたのすぐそばにある。
あまりにも身近にあって、自分の持っている宝物に気づいていないだけ。
あなたの周りには小さな幸せや大切なものが満ちていることを知る。。
                          :気持ちが楽になる禅の言葉より 



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