もっとミニマムな暮らしがしたい
結局の処ダンボール一つを送ってそれで生活しているのだから
大事なものだけを身につけて シンプルに簡単に暮らす
そんな生活もできるのでは?とちょっと思って
とにかく整理をしてみよう、と 実家の大掃除をすることにした。
そしたらやっぱり手紙がでてきてつい読んでしまう
そうすると 以外な人からの手紙が出てきて
あーあのころは なんだか文化が違ったんだと思わされる。
大学一年のころに届いた手紙には 「私の春休みの予定はね
いついつから いつまで旅行で、、、」といったことが書かれてて
今のメールのやりとりみたいで そういうことを手紙でしていた
そんな時代が懐かしい。 どうしてこの人が?という人からも
手紙はいくつか届いてて 今ではすっかり会うことのない
連絡先もきれてしまってる そんな人が 実家から実家へ
手紙を出してくれていた。今はどうしているのかな
なんであのとき 便せんをもち 筆をとってくれたのだろうか
先日私が悩んでいたとき 真っ先にあってくれた友達は
「これね 何だと思う?玉手箱!」と大きな菓子箱を渡してくれた。
そこには私が彼女に送った10年分の手紙がぎっしり詰まってて
「みきちゃん人生に悩んでるみたいだから 何かの
ヒントになるかと思って持ってきたの!貸してあげるね」と
渡してくれた。おそるおそる彼女の前であけてみると
カラフルな封筒たちが目に入る。フランスから送った手紙
色んなトーンの手紙があって 彼女の前で少し読む と
書いてることが恥かしい。
なんだか内的独白みたいだ。 自分の想いをひたすら
つらつら書いていて だけど彼女は読んでてくれて
それを大事にとっててくれて 今ここにある
彼女が私に書いた手紙は それに対するコメントや
愛がつまってた。こうして二つの手紙をみると
本当にキャッチボールで 徐々に2人は進んでいって
「こうしてみたい」と書いてたことが 今になったら
実現されてる それにもなんだか驚かされる。
こうして進んでいったんだ、、、
部屋を整理して整理してみーんな捨てようと思っても
写真は捨ててもいいかななんて 思えても
書いたものだけは 捨てられなくて それが全ての
記憶になってて 日記や手紙が存在するから
自分が何を思っていたかがよくわかる
だけどそれらがなかったら 部屋はがらーんとするだけで
今の自分があるだけで 私にはそれはしんどいだろう
私にとって 書くというのは大切で
それが残って また読み直せる 10年経っても
開封できる そんな手紙は大切だ。
コミュニケーションツールが発達したから
より密なコミュニケーションになったのかって
かつての日記や手紙を読むと どうもそうとは思えない。
ブログがあるから コミュニケーションするかといえば
なんとなく知ったような気分になるから 実際に
会うことは減ったような気がするし
電話の前に メールをするのが当たり前になったから
電話をするのが大がかりな気がするようになって
直接のコミュニケーションが減ってしまった
携帯のメールだと 手紙ほど深い内容にはならないし
たくさんのツールのお陰で ダイレクト で
人の心を動かすような それで巻き込まれてしまうような
そんな出会いが減った気がする
もっと 人と会いたいなあ
もっと語っていたいなあ
れんちゃんが生まれたお陰で
この一年は色んな人に再会したけど
それでも昔にくらべてみたら
なんと希薄になってしまったか
あの頃私も熱くって まわりのみんなも熱気があった
あの頃たしかにまわりの人は「仲間」だった
それが今でも 手紙を読むと伝わってくる
あれから10年 状況は大きく変わってしまったけれど
もう違う人かもしれないけれど
あの熱気 が 「仲間達」という そんな言葉が懐かしい。