alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

ショコラ

2014年03月08日 | サードプレイスとしてのカフェ

 今年から英語をちゃんと勉強しようと思った私は
色々と努力してみたものの、フランス語も続けながら
英語もさらにというのはかなり厳しく
今年になって2度も体調を崩してしまう。
もうだめだ、正攻法の英語は無理だ・・・
でもToeicが、、でもここまでやったのに、、、
そうはいってももう身体が無理だ、またしても
英語を捨てるしかないか・・・と
絶望的な気持ちになっていたとき
息子と一緒にTSUTAYAに行ってふと気がついた。

 そうだ 正攻法がだめなら映画でいけばいい。
それは私がフランス留学時代にどうしても正攻法の
フランス語学習に馴染めずに 自分で編み出したやり方だった。
さんざん映画館に行き とりあえず耳を慣らした私は
聴き取りは少し得意になった。それなら英語も
それでいったら?そう考えたら世界がふっと広がった。


 今まで私にとっての映画というのは語学学習法の
1つという位置づけで TSUTAYAにどんなに映画があっても
時間のない中自分に許した映画はフランス映画のみだった。
ところが英語もOKとなると、学生時代から観たかったような
映画もついに借りられる・・・もういいや、好きなのを見よう。
カフェに関係するだとか フランス語であるだとか
歴史がちょっとわかるとか そんな要素はなくていい。
ただ見たかったものを見よう。英語だったらそれでいい・・・

 そう思って手にとったのが 何故だか「ショコラ」という選択で
その選択は偶然にしてはできすぎている程に 私が観るべきものだった。

 「ショコラ」という題名からも 有名なポスターからも
それがフランスで撮影された英語の映画という程度の知識からも
まさかその内容が まさに私にうってつけの そして
チョコレート店 というよりも 実はカフェなんじゃないかという
そんな世界が待っているとは想像だにしていなかった。


 母一人、娘一人。赤いマントに身を包み 吹き荒れる北風とともに
旅をしながら住む場所を探す主人公。そして彼女はカトリックの
ガチガチの価値観の村の中で 断食中にチョコレート店を開くわけだけど。
そこには激しい価値観のせめぎ合いが待っていた。

 言葉にするのは難しいけど 私はこの映画の世界に入って
なんだか本当に救われた。私が体験してきた世界と似たような世界が
この映画には描かれている。昔ながらの価値観で がっちりと守られた世界。
犯してはならない規律があって 少しでもそこからはみ出していたら
見て見ぬふり で なんとか通す。表面的には何事も起こっていない村。
英語の中でもtranquillité というフランス語があえて使われていたけれど
トランキリテというのは波風のたたない というイメージでもあるのだろう。
守らなければいけない見た目、世間体、価値観が強くある中で
自分の想いは押し殺す。圧倒的なトランキリテの中で自分を持ってしまうこと
それは少し 狂気に近い。「ショコラ」の中で村の人から
ちょっとおかしい人だと思われている女性がこんな風に述べていた。
「夫の3度のご飯を作って掃除に洗濯、ここではそれが人生最大の
喜びであるべきなのよ。それ以上のことを望むと気が狂っていると思われるの」


 そんな彼女は本当は他の人より少しだけ 自分に正直なだけだった。
周りの人たちが押しつぶしている感情を 押しつぶせないままでいて
でもどうすればいいかわからず途方にくれて
苦虫をかみつぶしたように 泣きそうな顔をするしかなかった。
そんな彼女を主人公のチョコレート屋の女主人は受け入れた。
その店にはカウンターがあり、そこから主人は人を招いた。
"Please, please come in!" と彼女は通りに向かって笑顔で叫ぶ。
ちょっと入って、お願いだから、ほら、チョコを差し上げますよ。
よかったらホットココアはいかが?お代はいいから。
彼女が受け入れ、話しかけて来た人たちは ほとんどみんな
その村で ちょっとおかしいと思われていたり
ちょっと自分の感情に 気づいてしまった人たちだった。
だけどそこには激しいカトリックの規律と「こうあるべき!」という姿があって
彼女の店は標的になる。それでも彼女は笑顔を忘れず
少しでも店に顔を向けた人たちを受け入れ、話をきいた。


 やがてはその店はかたくなだった村を変えるきっかけとなっていく。
まずはおかしいと思われていた女性から、そして意固地で我を通しているおばあさん。
その店に集まった人たちは 言って見れば逸脱者たち。他に行く場所の
なかった人で、他では自分の気持ちを表現できず、受け入れてももらえなかった。
世間からは顔をしかめられるような人たちを 顔をしかめることなく笑顔で
受け入れる。扉を固く閉ざすのではなく 自ら開けて"Please come in!" とすら言う。
その店にあるチョコレートは人の心の扉を開けるという。
そうして少し 一瞬だけでもお客さんの顔に笑顔が見える。
いつの日かその人の笑顔が増えて、誰かの手をひっぱってくる、
そのうちにそんな仲間が増えていき その店はかけがえのない存在になる・・・

 それってまさに 私が求めていたカフェであり
歴史の舞台となったカフェに おそらく共通するのだろう。
私の本を読んでくれた方が一言で本を要約し「つまり主人が大切だってことですね」と
語ったそうだ。沢山のことを書いた私はそうだったかしら、と思っていたけど
まさにその人の言う通り、で 主人が本当に大切なんだ。
彼らは「他の場所では受け入れらなかったような人たちを受け入れた。
しかも一人の人間として受け入れた。」これに尽きる、と私は思う。
顔をしかめ、扉を閉ざすのはよくあることだ。でもその真逆をいった人たちもいた。
他の場所では受け入れられないような人 というのはそれなりにそんなオーラを
出している。「人は見た目が9割」というのであれば、一瞬で
「見てみぬふり」をされてしまうかもしれない。けれども
それを受け入れた人がいる。その理由は様々だろうけど
その1つに自分と彼らを重ね合わせたこともあるのだろう。

 ショコラの女主人は自分もノマドでおそらく何度も
迫害の目に合っていた。非難の的になることだって慣れっこだったから
多少悪く言われるくらいでは笑っていられたのだろう。
それでも自分の生き方に自信をもっている彼女は
自分らしく生きたいけれどもその一歩が踏み出せない人に
チョコレートを通して手を貸した。けれどもそのもどかしさや
悔しさや難しさがわからない人にはそんなことはできないだろう。
ダダイストが初期に集まっていたカフェ、セルタでは
世間で恐れられているダダイストの彼らを「彼らは
髪の毛が栗毛色の方 というような調子でダダイストの方」
とお店で呼ばれるのだとルイ・アラゴンが書いていた。
世間の見方ではなくて、一人の様々な想いをかかえた人間として
その想いや方向性が たとえ今の世の中に合致していないとしても
同じ人間として受け入れる。そしてそっと飲み物を出す。
それが素晴らしいカフェであり そこから何かが変わるのだろう。

 カフェから時代はつくられる、カフェから街は変わってく。
カフェがきちんと人を受け止めることができたなら。
カフェはただ、飲み物を飲んだりお菓子を食べる場所じゃない・・・
人がちょっと心を開き、次第にまわりの世界が変わっていく場
あなたはあなたのままでいい たとえ世間と違っても
そこの価値観にそぐわなくても。「ショコラ」の最後
神父さんがこう言っていた。「今日は神の神聖さについて
ではなく、人間性について語りましょう。神が偉大だったのは
何かを禁止することではなく、許したことにあったのではないでしょうか。」
禁止して、無理矢理規制の価値に当てはめようとするのではなく
そうでもいい、と許すこと。そうでもいいのかもしれない、と
思える場が1つでもあるということ。世界にはまだまだこの村のような
問題が満ちあふれているけれど、カフェやサードプレイスという
場所は 解決の糸口になるかもしれない。
「ショコラ」はそう気づかせてくれた、本当に素晴らしい物語。

フランスに行くなら

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