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パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

子育てと疎外

2015年08月31日 | 日仏子育て事情
 「子供がいると子供中心の生活になるっていうよね」と
子育てをしている私に対して共感を示すように独身の子が言うことがある。
それに対して私はいつも思っていた。
「いや、中心どころじゃないよ。8割くらい子供だよ・・・」


 実際日本で子供を育て、かつ専業主婦になってしまうと
生活や感心ごとの8割くらいは子供になっているように思う。
産まれて数ヶ月の時は子供の鳴き声に追われ、誰かが
訪ねて来てくれたとしても実際には気が気ではなく、
子供に目をやっていると話の半分も耳に入らない。
(これは子供が7歳になった今もあまり変らない)
そのうち孤独に嫌気がさしてママサークルや児童館にでも
足を伸ばしてみようものなら、「れんちゃんママ」と
呼ばれるようになり、話の中心は全て子供で、
気がつけば「私は」という主語は消え、「れんたろうはね・・・」
と子供が主語になっている。次第に自分のアイデンティティが母になり、
子供を産んだ友人たちのFacebookの写真といえば
子供と映る自分であったり、子供の顔が「自分の写真」の
代わりになっていたりする。



 子供を産む前からしっかりとした仕事があって、産んでも1年以内には
職場に復帰・・・そういう人は同じ子育てをしていてもまるで違う生き方だ。
けれどもまだ日本では、多くの人が様々な理由から専業主婦に
なり、その選択はその後の生き方に深い痕跡を残してしまう。
私は専業主婦を3年くらい経験し、それから働く母になったけど
専業主婦と働く母とでは顔つきや話し方まで異なるように思う。
専業主婦はもちろん子育てだけに関して言えば、父親と
同じくらいの時間しか残されていない働く母よりずっと子供に
構っていられるしケアもできて本当に羨ましいなと思ってる。
けれども専業主婦には彼女達なりの深い苦悩があったりもして、
私はそれが絶えきれずに、働くことを選んだ訳だ。

 子供が産まれて自分が自分でなくなっていく、
アイデンティティクライシスが起こっていく。
まず結婚して名字がかわり、それから子供が生まれ、
自分の名前ではなく「~ちゃんママ」と呼ばれ、
慣れ親しんだ自分の名前が消えることから始まってゆく。
私、だったはずのもの、は一体どこに
行ってしまったんだろう?出口の見えないトンネルの中、
闇は深まるばっかりだ。一度仕事をやめて専業主婦を選んだ人には
トンネルから抜けるのには恐ろしく時間がかかる。
保育園に入れてたくても書いてもらえる書類がない。
なんとか書いてもらえるような週3日の仕事を見つけたとしても
そんなものではとても保育園に入れない。子供が昼寝している
時間のほんの少しの自由をとるか、週5日、父親並みに働いて
「ママ、ママ!」とくっついてくる我が子との別れを選ぶか、
それとも二人目を産む選択か?どれの選択肢も難しい。
優しい母、をめざしたつもりで子供の意見を聞いてあげる。
「~ちゃんは何がしたいの?~に行きたい?どうしたい?」
それが子供の個性を育むのかと思っていたら実際には
わがまま坊主になるばっかりだ。子供に振り回される人生、
自分の時間はほとんどない。けれどもまわりの人には
「いいなー(働かないで・・・)羨ましい~」と
言われてしまう。たとえ鬱になっていたって、友人たちは
その理由を推し量ってくれることもないだろう。

 結局、今頃わかったけれど、「子供中心の子育て」の
人生というのは子供には(一見)よいかもしれない。
でも女性の人生をかなり破綻させるものだと思う。
フランスが何故そこまで母である女性を尊重させる
子育てを選んで来たのかは私にはまだわからない。
おそらく昔から母乳をあまり好まないという歴史的事情も
あるのだろう。母親になった人は自分を捨てて、長男のために
奉仕せよという時代なら、子供中心の子育てが理にかなっている
かもしれない。けれどもおそらく私だけでなく、
それなりに自由な社会の中で高等教育を受けさせてもらい、
男子生徒と同じように自分の人生を夢見ていた女子達にとって
「私が受けて来た高等教育は果たして意味があったのだろうか??
母になるだけなら「15でねえやは嫁に行き お里のたよりもたえはてた」
のように早く子供を産んで大学になんていかないのが一番だったのでは?」という
思いが頭をよぎることもあるのではないだろうか?
必死に大学受験をし、大学院にまで行ったのは、
ただ母になるためだけだったのだろうか?
そんなことを思えば思う程に私は苦しさで一杯だった。
だから鬱にもなったのだろう。


 "Bébé made in France"を読みながら日本の子育てを観察し、
痛感したのは結局のところ、フランス式の、小さい頃は
子供に厳しく、静かにさせるところではしっかりと静かにさせる
大人の視点を中心とした子育ては、大人にも子供にも周りの人にも
平和をもたらすということだった。
大人が連れて行った場所で子供が金切り声をあげ、
その場から逃げ出し泣きわめく。それをなんとか鎮めるために
お菓子やらiPhoneやらを取り出す大人。そんな解決策が
いいとは自分でも思っていないけど、「他にどうすればいいっていうの?」
そんな気持が母親の微妙な表情からうかがえる。
私もさんざんやってきたけど、その場しのぎのその選択は
実は後日のもっとひどい状況を創りだすとは
夢にも思っていないかもしれない。
そして結局私たちが出す結論は
「もうあんたとはどこへも行かない。
子連れでこんなところに行った私が間違っていた。」
そうして道は閉ざされていく。付き合うのは子連れの気持が
わかる人だけ、その方が共感しあえるし、歩く速度も同じだから。
行くレストランはなるべく騒いでもいいところ。
私なんて子連れ外食は後悔の連続だからひたすらピクニックを
繰り返し、友人と子連れ外食なんて3回くらいしかしたことがない。
「だってしょうがないじゃない。子供だからできないのよ?」
私たちはそう思ってた。でも、そうじゃないのかもしれない。
その感覚こそが、実際には私たち母親自身の首をより一層しめていると
気づいていたなら、もっと他の選択肢をとろうとしていたかもしれない。
「子供だから・・・(無理)」
「子供だから・・・(こんなもんで満足するだろう)」
「子供だから・・・(子供だましのおもちゃやテレビを与えとけ)」
日本は一見子供に優しい子供の楽園のように見える。
でも「あれも!これも!それも!みんな!!!」欲しい、欲しい!
という誘惑だらけのこの国で、そんな子供に手をひっぱられて
歩いて生きていたら、小学校高学年の娘さんたちを育てる知人がもらしたように
「ディズニーランドとか子供の行きたい場所にしか行ってません・・・」
と嘆くことになってしまう。子供、ではなく母親が、
しっかりとした軸をもって生きること。
それがどれほど大切なのか、この本で思い知らされた。
個性尊重で有名な国、フランスの子育てで大切なこと、
それは親自身が"C'est moi qui décide!"(決めるのは(子供ではなく)私)と強く言うことだ。
子供にずるずるひっぱられない子育ては
周りの人も、母親も、そして子供も
きっと幸せにするのだろう。

 毅然とした態度をもったフランス式の子育て、
できるところから実践し、子供の変化をみていきたい。

フランスに行くなら

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