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日本の政治と社会、日本のリベラル、沖縄の「基地問題」、東アジアの外交・安全保障、教育などについて述べていきます。

名護市長選で「オール沖縄」大敗はなぜ?

2022-02-22 19:37:15 | 沖縄の政治、「沖縄基地問題」
2022年は、沖縄の選挙イヤーである。重要な市長選挙が続くほか、7月に参議院議員選挙、9月には県知事選挙があり、自公側と「オール沖縄」の対決が続く。1月23日の名護市長選挙はその前哨戦と位置づけられた。

この市長選は、辺野古を抱える名護市の選挙であるだけに、全国的に注目されたが、自公が推薦する渡具知武豊現市長が、辺野古移設反対を唱えた岸本洋平前市議に5,000票差(19,524票と14,439票)をつけて圧勝した。この結果については、さまざまな分析が行われてきた。

その内容はほぼ共通している。「オール沖縄」の退潮、辺野古工事が進んで広がった諦めムード、政府による渡具知市政への露骨な財政支援、その財政支援を活用した現職市長の子育て支援の実績、コロナ禍で焦点は基地から生活へ、公明党のフル回転などであった。ここでは、メディアが余り触れなかった要因を考えてみたい。

<なぜ「接戦」予想は外れたのか>
渡具知候補は現職として大きな失点がなく、負ける可能性は少ないとの見立てもあったが、多くのメディアは「接戦」を予想した。結果は渡具知氏の大勝であった。

事前予想のための主な情報源は、世論調査と期日前投票の出口調査、そして現地での取材である。今回、予想がはずれたのは、調査や取材が必ずしも実情をつかみ切れなかったからだと言える。名護市のような人間関係が密な地域においては、本音を公言しにくい空気がある。口を閉ざす人たちの胸の内をどう探るかは、メディア報道にとって難題だ。

筆者自身は、メディア全体に岸本候補を過大評価する傾向があったと感じる。つまり、「岸本洋平」氏は名護市民にとって特別な存在だ、との報道側の思い込みがあったのではなかろうか。

<岸本候補の父親のカリスマ>
同氏の父親は1998年から8年間、名護市長を務めた故建男氏である。ドストエフスキーを愛読し、ソ連共産党の最後の書記長ゴルバチョフ氏が沖縄を訪問した際には、同氏に会いに来たという逸話もある。行政出身の政治家だが、人間や社会に想いを巡らす人でもあった。

故岸本氏は、保守系市長として普天間基地の辺野古への移設を容認しつつ、厳しい条件をつけて政府と対峙した。辺野古問題への対応に悩み抜き、疲れ切った末に病に倒れ、市長退任直後に亡くなっている。その反骨の姿勢と報われなかった死は、今でも多くの市民の記憶に残る。

「オール沖縄」は、故岸本元市長の長男という「ブランド」に、退潮傾向が著しい同陣営へ新風を吹き込むパワーを期待したようだ。しかし、その期待は見事に裏切られた。

<岸本ジュニアはなぜ失速したのか?>
洋平氏は、選挙運動の序盤では辺野古工事反対を前面に打ち出したが、コロナ禍で生活苦にあえぐ市民の反応を見て、急遽子育て支援策を打ち出す。ところが、その財源の説明は二転三転し、政策立案能力の不足が露わになった。

また、同氏は先輩や同僚に対して配慮することがほとんどなく、その独断専行ぶりは目に余るものがあった。その類のエピソードが口コミなどで広がって、同氏のイメージは悪化した。

その一例は市議補選問題である。市長選に出馬する岸本氏の市議辞任を前提に、「オール沖縄」は補選への立候補者を準備していた。しかし、岸本氏の辞任が遅れ、補選は実施されず、立候補予定者は宙に浮いてしまったのだ。同氏は議員報酬をぎりぎりまで受け取るために辞任を遅らせたのではないか、との噂が流れ、関係者の間に不満が渦巻いた。

さらに、岸本氏と彼の母親や夫人は、古参の運動員や支援者たちに「上から目線」で対応し、その傲慢な態度に憤る人もいた。候補者とその家族がオウンゴールを連発したのだ。

名護市長は、沖縄本島北部12市町村のまとめ役でもある。北部を代表して沖縄県とは頻繁に、時には中央政府とも折衝する。支援者からさえ冷笑される岸本氏では、その役は到底務まらない。彼の落選の報に接し、北部関係者の間に安堵の声が漏れたのも当然だった。

<5,000票差に込められた市民感情>
岸本候補の評判の悪さを考慮すると、ダブルスコアで敗北しても不思議ではなかった。言い換えれば、「よく5,000票差で踏みとどまったものだ」という見方もできるのである。

この微妙な票差は、市民の間に辺野古工事への反発が根強いことを示している。岸田政権は渡具知氏再選をもって、辺野古移設へのお墨付きを得たと判断すべきではないだろう。現実に、各種の世論調査や出口調査によれば、名護市有権者の約60%が辺野古工事に反対している。渡具知氏再選に貢献した公明党の関係者は、選挙後も辺野古工事への不満を隠さない。

<辺野古問題の「地元」とはどこか?>
故翁長雄志氏が辺野古移設反対を掲げて知事に就任した際に、「地元の民意」を強調した。その当時は、名護市長が移設反対派の稲嶺進氏であったため、「地元」とは沖縄県であると同時に、名護市でもあった。沖縄県知事と名護市長が足並みをそろえて「地元の民意」を代表し、辺野古移設を強引に進める政府と闘っている、という主張は説得力があった。

しかし、名護市の渡具知現市長は、明言はしないが事実上辺野古移設容認派であり、玉城県知事とは立場が異なる。そのため、「地元」がどこを指すのか、今ではあいまいである。

<名護市の東海岸と西海岸>
海兵隊施設が建設中の辺野古区(集落)は東海岸にあるのに対し、名護市の人口6万人の90%以上が西海岸に集中することも、「地元」の定義をさらに複雑にしている。

辺野古区を含む名護市東海岸には4,000人余りが居住するが、両海岸の間には山があり、距離も離れていることもあって、西海岸との交流は少ない。また、辺野古施設完成後の騒音等の基地被害は、東海岸に比べて西海岸では、はるかに少ないはずだ。辺野古移設工事を、西海岸の名護市民たちがどこまで切実な問題として考えているのか、辺野古区民の多くは疑う。

辺野古区に対して、故翁長前知事と稲嶺前市長は冷淡だった。玉城知事も同様である。保守派が強く、辺野古移設を容認する傾向があるためだ。辺野古工事の反対派ほど、基地問題の「地元中の地元」である辺野古区に冷たいというのは「オール沖縄」が抱える矛盾である。

結果として、辺野古区や東海岸の住民の中には、県政や市政から軽視されてきたと感じる人が多い。日は東から昇り、西に沈む。それをもじって、「東海岸の辺野古埋め立てでお金が生まれ、西海岸に流れて行き、そこで使われてしまう」などと語る人もいる。渡具知市長は同区に対し丁寧に対応しており、状況は徐々に改善していると言われるが、まだまだ不満は残っている。

<県民投票は「地元の民意」を表したのか?>
「地元の民意」に関連して、県民投票が話題になることもある。2019年2月に実施された辺野古問題に関する県民投票で、反対が「72,15%」だったことは、「移設反対」が「地元の民意」であることの証左だというのである。

だが、この県民投票の投票率は、投票成立要件をわずかに超える52,48%にすぎなかった。47%を超える有権者(その多くは保守系)が棄権し、反対票の実数は有権者全体の37,86%であった。「7割以上の県民が辺野古移設に反対を表明した」とは言い切れないだろう。

この記事では詳しく紹介しないが、この県民投票の「実施」自体、「オール沖縄」陣営全体に歓迎されたわけではない。投票が成立して反対票が多数を占めたので、同陣営にとっては結果オーライではあったが、実施をめぐって激しい対立が続き、陣営内に深い傷跡を残したことを指摘しておきたい。

<辺野古現地の運動の衰退と新たな懸念>
経済界や保守系の離脱によって「オール沖縄」の弱体化が指摘されるが、辺野古現地における活動も衰退した。25年にわたる反対運動に疲労困憊した人が多く、高齢化も進み、多くの運動参加者が退いた。他界した人も出ている。かつて反対派の地元組織「命を守る会」や「辺野古区民の会」などの代表を務めた西川征夫氏も、運動から身を引いた。

加えて、辺野古工事阻止のために座り込んだり、カヌーに乗って埋め立て作業を妨害する活動、いわゆる「現地闘争」を牽引してきた有力な活動家たち(山城博治氏や安次富浩氏など)が、昨年(2021年)、相次いで引退している。

一方、この数年の間に、日本本土の活動家たちが辺野古に常駐する動きが目立つようになった。その一部は現地のレストランだった建物などを買い取り、住み込んでいる。しかも、彼らの住居は民泊を兼ねており、本土から「現地闘争」応援のためにやってくる活動家が宿泊する。

問題は、彼らが新左翼の影響を受けた人たちであることだ。沖縄の基地反対運動は基本的に非暴力的であるが、本土からの「活動家集団」は異質に見える。現時点で大きな事件が起きてはいない。しかし、今後「三里塚闘争」のように過激な活動が行われるのではないかと懸念する人が、辺野古区民だけでなく、「オール沖縄」にも少なくない。

それだけでなく、地元住民とほとんど交流のない集団が運動の前面に出るようになると、一般の辺野古区民は、運動を忌避するばかりか、敵視するかもしれない。そのような状況になれば、「オール沖縄」のイメージが損なわれ、「地元民中の地元民」である辺野古住民から浮き上がってしまいかねない。それは同陣営にとって悪夢であろう。

<知事選の行方>
この記事では、主に、名護市長選に関して、主流のメディアが取り上げなかった側面について述べた。

冒頭に述べたように、本年の夏から秋にかけて、参院選と知事選という全県にまたがる大型選挙が行われる。特に知事選は、天下分け目の戦いであり、今年の沖縄政治の最大の注目点である。

重要な名護市長選挙を落とし、悲観論が漂う「オール沖縄」陣営にとって知事選は絶対に負けられない戦いだ。反面、起死回生のチャンスでもある。玉城知事の高い支持率をフルに生かして体制を立て直し、同知事の再選を勝ち取れるかどうか。それとも、自公が保守系から中道にまたがる体制を固め、基地問題も含めて幅広い政策論争を正面から挑んで、保守県政復活の道筋をつけられるのか。見所は多い。

知事選は参議院議員選挙とセットで構想されると言われている。自公側の候補者の選考はこれからだが、その結果を踏まえて、知事選のさまざまな要因については、稿を改めて考えたい。

(2022年2月23日改訂)

スポーツ利権と五輪・テニス

2021-06-07 23:38:11 | スポーツ
大坂なおみ選手に対する全仏大会側が見せた当初の強硬な姿勢には、五輪をめぐるIOCの傲慢な姿勢と共通するものがある。そこには、巨大なスポーツイベントの歪みが見える。

試合直後の記者会見を大坂選手が拒否したことに激昂した全仏大会主催者は、同選手に罰金を課した。追い打ちをかけるように、他のメジャー大会主催者たちと共同で声明を出し、全仏からの追放やメジャー大会出場停止をちらつかせた。これは明らかに脅しであり、選手生命すら手玉に取ろうとする極端な権威主義を象徴している。

主催者は、記者会見は選手の義務であると強調した。多くの有力選手も大坂選手を暗に批判し、一部のメディアが同調した。選手に大金を提供し、選手にスポットライトを当ててくれるメディアへのサービスは当然の義務だというのである。

だが、全仏およびメジャー大会主催者や一部のメディア、有力選手たちが、束になって演出した「大坂選手わがまま論」は、彼女の大会棄権と、鬱病体験の吐露で尻つぼみとなる。同選手の告白は大きな反響を呼び、スポーツ大会の在り方を問う声を巻き起こした。

セリーナ・ウィリアムス、ナブラチロワ、キング夫人らのテニス界の大物に加え、バスケットボールやアメフット関係者などからの共感メッセージがあった。ゴルフの「帝王」ジャック・ニクラウスもまた、彼女の置かれている状況に同情するコメントを出した。

ナイキ、マスターカード、高級時計のタグ・ホイヤー、日清食品など、大坂選手の有力なスポンサー企業も続々と彼女の支持を表明している。

慌てた全仏オープン責任者モレットン氏は、その強硬姿勢を一変させ、にわかに大坂選手をいたわるコメントを記者会見で述べたが、質問は拒んだ。そのため、「選手に記者会見を強いる主催者が質問を拒否か」「なんという皮肉」「偽善者」などとSNSで批判が殺到した。

大坂選手の件の件がきっかけとなり、記者会見や取材に起因する選手のメンタルヘルス問題が取り上げられるようになった。無遠慮な質問やコメントに、精神的に傷つく選手たちの例も紹介されている。

だが、見逃してならないのは熱狂的なファンの存在である。いわゆる「追っかけ」たちは選手たちの一挙手一投足に関心を寄せ、あらゆる情報を集める。

とりわけ人気スポーツは、膨大な数のファンを惹きつけるゆえに、メディアや企業にとってはまたとないターゲットであり、大金も喜んで支払う。それだけに、メディア取材は加熱しがちだ。人気選手をほめたたえる一方で、私生活にまでずかずかと踏み込み、微に入り細を穿つ質問やコメントを浴びせる。そしてそのようなメディアに多くのスポンサーがつく。

一部スーパースターの悪乗りも目立つ。自らの豪邸や、乗り切れないほどの多くの高級車などを見せびらかす。メディアはその派手な生活ぶりを番組や雑誌のネタにして利益を得る。それを支えているのは、ファンの「のぞき見」趣味だ。

五輪、サッカー・ワールドカップ、テニス4大大会などには、メディア、スポーツ用品やアパレル、飲料などのメーカー、大会運営を担当する電通などの広告代理店、パソナのような人材派遣会社などが関わり、巨大な利権構造が出来上がっている。

巨大スポーツイベントを取り巻くコミュニティに君臨するのが、IOC、テニス4大大会主催者、FIFA、NBA、MLB、NFLなどだ。

大坂なおみ選手にまつわる話題は、今のところ、選手のメンタルヘルスに集中している。確かに、取材攻勢にさらされる選手に対する精神面のケアは重要だ。だが、巨大ビジネス化した一部スポーツ業界の構造的な問題の本質は「金」である。

IOCにしても、テニス4大大会にしても、膨大な金額が動くと言われるが、その財政収支の実態は明らかにされていない。

IOCのバッハ会長やコーツ調整委員長、最古参の理事パウンド氏などは、コロナの感染状況などおかまいなしに五輪を強行しようとするが、感染爆発を恐れる日本国民や、過労で倒れそうな医療従事者たちへの配慮は全くない。彼らの関心はひたすら「金」にあるからだ。

スポーツを巨大なエンターテインメント・ビジネスに仕立て上げるメディアとスポンサー、それを支える熱狂的なファンと派手好きな選手たち、という構造が続く限り、「元気や勇気、笑顔を届ける」と連呼しながら利益をむさぼる、スポーツ貴族たちが跋扈し続ける。

五輪と全仏をきっかけに、そろそろこの歪んだスポーツ界をただす時期が来たのではなかろうか。まずは何より、世界的なスポーツイベントにまつわる金の流れが解明されなければならない。

香港の人権弾圧と日本人の鈍感

2020-12-10 18:45:44 | 日本の外交
香港では、日本でも有名な黄之鋒氏、周庭氏などの民主派活動家や、元立法会(議会)議員、メディア関係者たちが次々と拘束され、有罪判決も出ている。香港からの脱出を試みた12名の活動家は検挙され、その所在は現在も不明だ。

戦前の日本の治安維持法にも似た、香港国家安全維持法が制定されたのは本年6月30日。この法律を根拠に香港政府は民主派全体を力でねじ伏せようとしている。

習近平指導部支配下の中国本土だけでなく、現在の香港もまた、恐怖政治に覆われつつある。

多くの欧米諸国は、中国共産党政府と香港政府による人権無視の政策を非難している。しかし、力の信奉者である習近平指導部は「香港は中国の一部だ。内政干渉するな」と強硬に反発し、その姿勢を変える兆しは見えない。

一方、香港問題に対する日本政府と日本人全体の反応は鈍い。

11月24日、王毅外相との会談後の共同記者会見で、茂木外相は尖閣問題での王毅氏の一方的な発言に毅然と対応しなかったうえに、香港問題については「懸念」の表明にとどめた。

自民党外交部会や主要メディア、ネットで、茂木氏の「弱腰」に対する批判が噴出した。

だが、その批判は、尖閣諸島における王毅外相の高圧的な発言に反論しなかったことに集中し、香港問題への反応は少なかった。元来、日本政府は中国当局による人権抑圧には、できるだけ触れないようにしてきた。これは日本外交の伝統でもある。

1989年6月4日の天安門事件後、中国は先進諸国から経済制裁を受けた。その中国に真っ先に支援の手を差し伸べ、国際社会への復帰に尽力したのは日本であった。結果として、日本は中国の無罪放免を促し、その強圧的な体質を助長したと言える。

本年7月29日に、香港問題を懸念する国会議員有志が「対中政策に関する議員連盟」(JPAC)を設立した。中谷元、山尾志桜里両代議士が共同代表を務めるこの議連には、自民の他、立憲民主、国民民主、維新、無所属などの議員38人が名を連ねる。(11月13日現在)

だが、公明党と共産党の議員が参加していないため、この議連は超党派になっていない。

公明党は中国と太いパイプを持つ。それだけに、中国に批判的な議連には参加しにくいという。逆に言えば、近い関係にあるからこそ、率直な批判的意見を伝えられるはずだ。それができなければ、中国政府による「人道に対する罪」の共犯者になってしまう。

日本共産党は、香港問題で中国共産党を最も激しく批判した政党だが、「対中政策」と銘打つ議連は、「反中国」のニュアンスを含むので参加しないという。しかし、この際、党の建前を捨て、議連に参加して右寄りになりがちな流れを食い止めるべきだろう。

議連の顔ぶれはやや寂しい。党の重要な役職についている議員は玉木雄一郎(新)国民民主党代表ぐらいである。自民党については、親中派の二階俊博幹事長がにらみを利かしているため、参加をためらう議員が多いと言われる。

議連は、人権侵害に加担した関係者に制裁を加えるマグニツキー法を制定しようと活動中という。しかし、来年の総選挙をめぐる立場や思惑も交錯し、展望は明確でない。

経済界の動向はどうか。コロナ禍が始まったころ、マスクその他の医療・衛生用品は中国が一時的に輸出を制限したため品薄となり、パニックが起きた。これをきっかけに、経済界にサプライチェーンの中国への過度な依存に対する危機感が生まれている。

しかし、いち早くコロナを収束させ、経済を復活させてきた中国に期待する企業も多いのも現実だ。人権問題にかまけて企業経営を苦しくするわけにはいかない、との本音も覗く。

経済界は自民党の最大のスポンサーである。中国の抱える人権問題を見て見ぬふりをする経済界の姿勢が、自民党、ひいては菅政権の方針に大きな影響を与えている。

また、私立大学の一部では、中国人留学生は重要な収入源になっており、中国批判を敬遠する傾向がある。教授たちが、香港問題について発言することは歓迎されないのだ。

学問の自由を唱える大学がこの有様では、日本の人権感覚は鈍いと断罪されても仕方がないだろう。

このように、自民党、経済界、公明党、大学などの対中ソフト路線は、良くも悪くも分かりやすい。中国利権や友好関係が絡むからだ。

筆者はむしろ、「リベラル」勢力の消極的な姿勢に、もどかしさと憤りを感じる。香港問題では、立憲民主党などのリベラル系議員だけでなく、護憲派の有識者や文化人からの強いメッセージは聞こえてこない。

彼らは戦争や基地の問題については大いに発言するが、こと中国の人権問題には沈黙する。護憲派の視界には「人権」は存在しないのだろうか。

リベラル勢力が中国批判を躊躇し、沈黙すれば、日本における香港問題の議論においては保守系右派が主導権を握る。偏狭な民族主義の立場から、感情的な中国・中国人批判につながって、「中国人は出ていけ」という主張が全面に出かねない。

中国習近平指導部の暴走を容認するのか、それとも毅然と反対を表明するのか、日本は大きな分かれ道に立っている。その意味で、リベラル側が中国の人権弾圧に厳しく批判を加え、存在感を示せるかどうかは重要である。

リベラル陣営が音なしの構えを続ければ、保守陣営内の中国利権グループと民族主義的右派ばかりが目立ち、人権問題抜きの対中政策論争となる。それは避けたいものである。

異端を排除する菅首相の陰湿

2020-10-11 22:08:29 | 日本の政治・社会
日本学術会議から推薦された会員候補6名を、菅首相が任命を拒否し、
学会ばかりでなく、政界やメディア界などにも衝撃が走った。

加藤信勝官房長官は、首相は学術会議の監督権を持つので、
推薦された候補全員を任命する義務はないと語ったが、これは驚くべき発言である。
学会の中核に位置する学術会議を政府が監督するという発想は、
まるで一党支配体制の中国共産党の統治思想のようだ。

日本学術会議法の規定によって、学術会議は政府から独立した機関とされている。
首相による任命は形式的なものに過ぎないことは、
かつて国会での政府側答弁でも明言されていることだ。

その人事に、政府が介入することが許されれば、
政府を批判する学者は学術会議から排除され、御用学者ばかりが揃いかねない。

10月6日(火)に公開された内閣府の文書や報道によれば、2018年には首相官邸、
内閣府内の日本学術会議事務局、内閣法制局などの間で法的な見解の調整が行われ、
首相が、学術会議からの推薦候補者を任命する義務はないとされたという。

しかも、すでに2016年の段階で、会員補充人事に首相官邸が介入した結果、
欠員が出ていることが判っている。
2018年にも欠員こそ生じなかったが、同様の介入があったという。

菅氏が官房長官時代から政府関連人事を取り仕切ってきたことを念頭に置くと、
彼が、政府が学術会議の実質的な任命権を握ろうと画策したのではないかと推察される。

学術会議をめぐる安倍・菅両政権の一連の動きに、菅氏の政治姿勢そのものが表れている。

菅氏の政治家としての突出した特徴は、不透明性と説明責任の欠如である。

例えば、10月5日(月)の記者会見で、菅首相は、日本学術会議の会員は国家公務員であり、
(会員にふさわしいかどうか)「総合的、俯瞰的な観点から判断した」と述べている。
しかし、「総合的、俯瞰的な観点」とは具体的に何を意味するのか、説明は一切なかった。

また、官房長官として記者会見に臨む際に、菅氏は「適切である」「問題があるとは思わない」
「批判には当たらない」などと、木で鼻を括るような発言を繰り返したものだ。

しかし、「適切」と判断した根拠を示したことはほとんどない。
根拠を挙げないまま「適切だ」と言い切ることは、「自分が適切と思うから適切なのだ」と
言っているのと同じなのだが、どうやら、そんなことは意に介しないようだ。

かつて、NHKのインタビュー番組「クローズアップ現代」で、
国谷裕子キャスターが食い下がって質問したことに激怒し、NHKに圧力をかけ、
国谷氏を降板させたことはメディア業界では有名である。

民主主義の基礎は熟議であろう。
それは情報公開と説明責任があってこそ実現できるものだ。
菅首相はそれを拒否し、民主主義の根底を否定しているのである。

菅氏の性格を示すエピソードも多い。

彼は、官房長官でありながら沖縄基地負担削減担当を兼ねていた。
そして、大臣就任当初こそ、辺野古工事について「丁寧に説明する」としていたが、
いつの間にか「粛々と進める」と語り出した。

彼が「沖縄だけが苦労したわけではない」と平然と述べた際には、私は耳を疑った。

3か月続いた地上戦の果てに、県民全体の4分の1が追い詰められ、死んでいった。
その無残な沖縄戦を想像するだけでも、このような言葉を発することはできまい。
彼に、そのような感性が欠落しているとしか思えない。

官房長官として、官僚の人事を掌握する体制を築き、
政権の方針や自分の意見に賛成しない官僚を左遷することは日常茶飯事だった。
総理就任後のテレビのインタビューでも、政府の方針に反対する官僚は「異動してもらう」と
断言したほどである。

安倍一強時代に、官僚たちが委縮し、安倍首相や菅官房長官に忖度する傾向が強まった。
「物言えば唇寒し」と、菅氏による報復人事を恐れる官僚たちは多かった。

行政の歪な政治化は、菅氏のような権力を振り回すリーダーの下で起きやすい。

そのような菅氏の政治スタイルを、ほめそやす政治記者やコメンテーターの責任は大きい。
彼らこそが、安倍政権を支える大番頭と讃えて、
地味ながら大物政治家という、菅氏のイメージを作り上げてきたからだ。

秋田のイチゴ農家の息子が、夜学で大学を卒業し、苦労を重ねて首相にまで登りつめた。
政権発足時の高い支持率が示すように、その立身出世物語に感動する人は多い。

だが、彼のハートには温かい血は流れていないようだ。
むしろ、冷酷さと陰湿さが目立つ。

さて、今後、メディアと国民は菅首相をどう評価するのであろうか。
日本社会と国民の成熟度が問われている。

香港の悲劇:習近平指導部の暴走と日本リベラルの体たらく

2020-07-08 05:49:21 | 日本の政治・社会
香港国家安全維持法が6月30日の中国全人代常務委員会で決定され、翌7月1日に執行された。香港の一国二制度は根本から覆された。平和的なデモを禁止し、公立図書館からは民主派が書いた書籍を撤去し、令状なしで強制捜査を可能にするなど、習近平指導部による強権発動は露骨である。しかも、一国二制度の破壊は、世界が新型コロナで混乱している真っ只中に、国際社会からの批判をせせら笑うかのように断行された。

人権問題などで海外からの非難を中国政府が撥ねつける際に、必ず使う常套句が「内政干渉するな」である。かつて、日本や欧米列強の武力侵攻を許した歴史が、中国人のトラウマになったことは理解できる。だが、中国指導部は過去の屈辱を逆手に取って、自らの強圧的な体制を正当化し、海外からの非難を封じ込めようとする。しかし、中国は責任ある大国として国籍に限らず基本的人権を守る義務を負う。さらに、香港の一国二制度は単に中国の国内問題ではなく、香港返還時の国際公約でもあったはずだ。

この事態に対し、日本の各政党は懸念や憂慮の意を表明したが、その中国指導部批判は弱々しいものである。中国を強く批判すれば日中関係が悪化しかねないとの危惧があるからだ。だが、人権抑圧を黙認して得られる良好な日中関係とは一体何なのか。

「今日の香港、明日の台湾、明後日の日本」と言われる。国際社会が中国政府の香港政策を指弾している今、日本が及び腰の態度で臨めば、やがて中国からの強烈な圧力を日本自身が直接受けることになる。尖閣周辺でその動きは既に始まっている。

奇妙なことに、リベラル系、特に護憲派と呼ばれる文化人や言論人たちは、香港問題で見事なほど皆沈黙している。沖縄基地問題などに関しては積極的に発言する人たちも、中国の表現の自由の問題には口をつぐむ。憲法9条の理想主義を崇める人々は、なぜ香港問題に無関心でいられるのか。

自民党の国会議員たちが、習近平主席の国賓としての訪日を中止せよと、党本部と安倍政権を突き上げている。彼らの一部は、反中国の排他的なナショナリストである。もし、リベラル勢力が香港問題で中国に厳しく抗議しなければ、日本の中国批判はタカ派の色彩を帯びるであろう。しかし、中国指導部への抗議はあくまで「人権」をめぐるものであり、民族主義とは一線を画すべきものだ。だからこそ、リベラル勢力が声を上げることが重要なのである。

世界はおろか、お隣の香港で起きている悲劇にすら目をつぶるのであれば、日本のリベラルは、世界がどうなろうと日本が平和であれば良しとする「一国平和主義」、「平和ボケ」と呼ばれても仕方あるまい。今こそ日本に、抑圧体制に対して果敢に抗議し行動する、まともなリベラリズムが求められているのではないか。