広島に原子爆弾が、長崎にも原子爆弾が落とされた
京都も候補に挙がっていた
広島の次は小倉だったが、雲があり、それで長崎に
小倉だったらもっと死傷者、被害者多かっただろう
京都に落とされていたら・・・
人間に対して、都市に対して原爆を使った
今年で76年
平和の式典を毎年開催している
忘れてはならない
犠牲者に心からお悔やみ申し上げます
わたしが不思議でならないのは、
平和宣言を広島、長崎筆頭に日本中の自治体で出している
原爆使い人間を大量虐殺したのはアメリカであり日本ではありません
日本人はアメリカに賠償せよ、責任取れとは言いませんね
不思議です
1945年(昭和20年)3月10日未明
東京下町上空にB29が約300機
焼夷弾を落とし続け1夜にしておよそ10万人を殺しました
非戦闘員大量虐殺です
他の国でこれと同じようなことがあったらどんなことになるでしょうか?
日本人はおとなしい民族です
さて、こんな写真が出てきました
背広着ているのは小生の父
座って赤ちゃんだっこしているのは母
右の女の子は父の姉の子ども
写真は父の姉の家の前のようです
小生の一番上の姉は昭和15年8月生まれなのでこの写真からみると昭和16年頃だと思う
父は昭和16年に召集され南方に
タイ、ビルマへ
自動車部隊だったので前線への補給が主な任務のはずだが
(日本軍の致命的欠陥は補給を軽視したこと)
日本から持って行ったトラックはアメリカ製の中古だと言っていた
エンジンかけるのはクランク棒を手で回す
タイ・ビルマで英米軍が使っていたトラックにクランク棒差し込む口が無いことに驚いたと生前言っていた
ボロトラックのエンジンをクランク棒で始動させるのはかなり大変でコツが必要だっただろう
余談ながら、日本ではなぜ運転席の隣の席のこと助手席と呼ぶか?
トラックもバスもひとりで動かすものではなく、必ず助手が必要だった
そこからきていると思う
母は父の召集前に2人子ども授かり
父は敗戦後捕虜生活を経て日本に戻れたのは昭和21年6月のことだった
それから4人子どもが生まれ
小生はその最後(昭和27年)というわけだ
父は遠く戦地で戦友に自分の女房のことよく話していたようで
戦友から「ハマちゃん」(母の名前)と呼ばれていたそうだ
母は市川家の一人娘だったが、
たったひとりから、
6人の子ども、孫は見ることも叶わなかったが14人、ひ孫は22人となった
6人の子ども、孫は見ることも叶わなかったが14人、ひ孫は22人となった
その母は45歳の若さ、ガンで昭和34年4月8日亡くなった
小生小学校入学式翌日のこと
6歳と5か月だった
亡くなって62年
この写真は80年前ということになる
8月は戦争のこと両親のこと、亡くなった二人の姉のことも想う