将棋道場で行う感想戦でしばしば感じることですが、「将棋に勝った(又は負けた)原因は〇〇だ」と言うのは、一般的に思われるより遥かに難しいです。というか、哲学的には不可能だと思っています。なので私は、感想戦で相手の指手を指摘するのは、自分からはしません。相手から尋ねられたら指摘しますが、努めて謙虚な態度で行います。それ以前の問題として、所詮はアマチュアの見解ですし。しかし、ここから先は哲学の議論をするので、プロアマの区別は不要です。
私の主張はこうです。「将棋に勝った(又は負けた)こと」は誰もが認める事実ではあるものの、「その原因は〇〇だ(例:序盤で作戦勝ちした、中盤に上手く捌けた、終盤を読み切った)」という見解の正しさは、誰もが認めるような形に仕上げることは出来ない、と考えます。「その原因は〇〇かもしれない」と発言者が発想する時点では、その考えは仮説のはずです。そして、〇〇以外の変化手順をひたむきに調べ続ければその仮説の確からしさは増えるものの、将棋は複雑なゲームなので全ての変化手順を調べるのは現実的に不可能です。つまり、「その原因は〇〇以外には無い」ことの厳密な真偽は明らかに出来ないので、仮説は確からしさが増えてもやはり仮説のままであり、誰もが認める真実とは成り得ません。
上記の議論は自然科学にも展開できます。我々がニュートン力学の三法則を利用するのは、それは誰もが認める真実だからでは無く、それが仮説として他の理論よりも確からしいから、ということになります。経験によりテストされる理論には、常に帰納法の問題が付きまといます。
しかしながら、哲学を否定主義に留めておくのはつまらないことです。むしろ、たとえ不完全であっても、仮説の真偽に少しでも近づく方法を主体的に考える方が、外界の知識や知恵への興味を刺激して望ましいでしょう。このテーマについては色々な立場があります。弁証法的観念論(ヘーゲル)、超越論的現象学(フッサール)、方法論的虚無主義(ファイヤアーベント)等々。
自分といえば、今は論理実証主義に興味があります(理由は割愛)。この哲学は議論の厳密さを最優先するために、知識の生産性は他の哲学よりも低いように思います。でもそれは、第一次世界大戦後という時代背景を考慮すると、少なくとも動機としては頷けます。
そこで、論理実証主義の代表作である、A. J. エイヤーの「言語・真理・論理」[1]を読んでみました。幸いにも、ちくま学芸文庫が2022年に再版しておりました。議論の展開は荒っぽいですが、それは当時の哲学界の切羽詰まった事情のためでしょう。さらには国際社会もかなり混乱していました。そういう状況下の中でも、エイヤーは26歳の青年(初版出版時)であるにもかかわらず自身の言葉で哲学を展開しており、その知的勇気を私は尊敬します。
現代社会では大卒社会人2~4年目が執筆者の同世代に当たりますが、普通の若者はエイヤーみたいに自分なりに知識や知恵を構築しようとはしません。この原因を彼らの勇気の無さに求めるよりも、むしろ、その上のオッサン世代(私も含む)が自身の世界観を彼らに押し付けているのを反省すべきです。我々オッサンだってさらに上の世代から同じように押し付けられた、という言い訳なんてせずに。だから、私のようなオッサンこそ、知的勇気というのもを学ぶ必要があります。そういう訳で、エイヤーの他の著書も読んでみようと思います。
【参考文献など】
[1] A. J. エイヤー著、吉田夏彦訳、「論理・真理・言語」、ちくま学芸文庫、2022年
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