以前から申し上げているように、将棋道場の先生と意見が異なることが明らかになったので、指導対局を続けるのを断念しました。
その理由としては、前々回の投稿では、物事の上達において「守破離」が大事と考えるからと書きました。
しかし、「守破離」という紋切型の言葉で簡単に片づけるのは良くないので(※1)、これから当ブログで何回かに分けて、私なりの「守破離」の解釈を申し上げるつもりです。
上記を論じるに当たっては、本来なら論説文の形式をとるべきでしょう。第一章で背景と目的を述べて主張の全体像を粗描し、第二章以降で各論を詳述するというやり方で。しかし、それだとブログとしては面白くないので、逆の順序を取ります。身近なテーマ(各論)を取り上げてコメントを加え、そのような投稿を重ねて内容を蓄え、最後に総論を述べるつもりです。
さて、今回は「将棋の定跡」がテーマです。これでも色々な観点があるので、その内の「将棋の上達における定跡の役割とその要件」という点に限定して論じます。
まずは出発点として「定跡」を定義すべきですが、これが非常に難しい。以前(2024年8月15日)に述べたように、「プロ棋士といえども「定跡」という言葉が意味するところは、各人によって異なることが推測され」るためです。そこで、乱暴なやり方(論点先取)ではありますが、ここでは山田先生の定義を採用します。
山田先生は「定跡は広い意味で「本筋」の集成である」とされており、本筋とは「一言にしていえば、局面の急所をつく筋のこと」と述べています。そして、急所については比喩を用いて、「老練な按摩が長い経験によって、(人間の)体のツボを知っているように、私たちも経験によって、将棋の急所を知るのである。」としています。[山田道美 1961=1980 : 3-4、()は筆者が補足]
言葉の定義を遡る途中で比喩にぶつかってしまい、曖昧な部分をもう減らせなくなったのですが、やむを得ないでしょう。本来、将棋は難解でその全容を表すのは不可能であるにもかかわらず、そこから少しでも本当のもの(本筋)を分かりやすく言葉で伝えようと試みるのですから。
将棋の指方のパターンは事実上無限大であって、かつ、その良し悪しを決める絶対的な基準はありませんから、どのように指そうとも当人の自由です。にもかかわらず、対局結果として勝ち負けが生じるのは不思議なことです。
そういえば、唐突で恐縮ですが、文章の書き方についても似たようなことが言えそうです。当人が伝えたい事をどのように書くかはその人の自由です。にもかかわらず、結果として名文/悪文という社会的認知が生じます。
そこで、アナロジー(類推)によって大胆な仮説を立ててみます。つまり、将棋の上達においては、文章の上達法から援用できるものがあるはずだ、ということです。
したがって、ここからは将棋と文章の難解さ各々の類似点/相違点に言及した上で、文章の上達法でその根拠とされるものが将棋にも成立することを論じるのですが、既に長々と書いてしまったので、続きは次回にします。
(※1)これは、鶴見俊輔氏の「文章心得帖」[2]から得た教訓です。「紋切型の言葉に乗ってスイスイ物を言わないこと。つまり、他人の声をもってしゃべるんじゃなくて、自分の肉声で普通にしゃべるように文章を書くことです。」[鶴見俊介 1980, 1985=2013 : 18]
【参考文献など】
[1] 山田道美将棋著作集、第一巻、大修館書店、pp. 3-4、1980年
[2] 鶴見俊輔、「文章心得帖」、ちくま学芸文庫、pp. 18、2013年