6月に足尾に行った時、足尾駅で久しぶりに汽動車を観た
ディーゼル汽動車の単車 ワンマンってバスみたい
足尾駅前広場にある銅山のモニュメント
昔のままの姿を留める駅舎に、レトロな丸ポストがかつての良き時代を感じさせる
駅前の北村商店さん
足尾銅山華かりし頃、足尾駅は足尾銅山の貨物集散拠点でもあった
足尾鉄道開通から銅山専用簡易軌道廃止までの約四〇年間、足尾駅は銅山の物流基地と直結する拠点であった。
銅山で便用する生産資材、従業員や事務所で使用する消費物資は、鉱業専川線で倉庫前に横づけされ、荷卸して倉確に収納され、その反対側に敷設された簡易軌道に横づけされた台車に積込まれて、ガソリン軌道車によって行先別に配送されていたのである。
足尾駅本屋 木造平屋建、瓦葺、建築面積209㎡ 大正元年(1912)築、1938改修 登録有形文化財(建造物)
昭和の駅舎風景がそのまま 大正元年(1912)築の足尾駅駅舎。大きめな木造駅舎
窓口営業は春~秋にかけては、8:00~9:40で乗車券等を販売している。ただし、冬季(12/1~3/19頃の間)は火曜日のみの営業(8:00~9:40)となり、それ以外の曜日・時間帯は無人となる。 人がおらずほとんど無人駅
足尾駅
足尾鉄道は、大正元年十一月に桐生と足尾の間が開通し、全国につながった。
これを契機にして、足尾駅は、足尾銅山の貨物集散拠点として機能するようになる。
足尾町内の駅では最も広い敷地面積を持ち、多数の引き込み線を有して、貨物の集配をおこない、機関車や車両の整備も行なった。
駅の東方から三角に至る敷地には、古河の倉庫が並び、受け取った貨物は仕分けられて、銅山簡易鉄道(ガソリン車)で輸送された。
倉庫課が調度課となって、物流の拠点となったのである。
足尾鉄道は、大正七(一九一八)年五月に買収されて、国鉄足尾線となった。大正八年には、足尾本山駅および足尾駅からそれぞれ鉱業専用鉄道の使用が許可された。次いで通洞駅からの専用鉄道が許可されて、選鉱楕鉱の製錬直送が実現した。
戦後、自烙製錬法採用にともなつて製錬では硫酸製造が開始され、製錬と足尾駅を結ぶパイプラインと足尾駅構内に硫酸タンクを設置して、需要先に鉄道輸送することが始まった。
その一方では、石炭から石油へのエネルギー転換にともない、足尾銅山でも、輸送手段が鉄道からトラックヘ転換した。地域内の精鉱輸送はもちろん、外部からの資材・物資もその流れに変化していった。同時に調度課の集中管理は役割を終えて廃止され、拠点管理に移行した。
足尾線も、銅山閉山後、輸入銅鉱石おょび硫酸の輸送が貨物の主体だったが、国鉄民営化にともなつて足尾線が廃止され、第三セクターのわたらせ渓谷鉄道の旅客輸送になって現在に至っている。 (文献:銅山の町足尾を歩く 村上安正著)
赤倉対面の製錬所の硫酸タンクからパイプラインで足尾駅の出荷用タンクに送られた。昭和40年代(以下3枚とも 新井常雄氏 足尾銅山写真帳より)
この写真だと足尾駅の山側に出荷用タンクがあったようでsる
プラットフォームや保管庫など、同駅の多くの設備が文化財登録されている。
レンガ造りの危険品庫が。こちらも登録有形文化財。大正/1914 煉瓦造平屋建、スレート葺、建築面積5.0㎡
手前:手小荷物保管庫 昭和前/1935 登録有形文化財(建造物) 奥:木造の駅員宿舎
プラットホーム 石造、延長109m 大正/1912/1938改修登録有形文化財(建造物)
ここからプラットホームに渡る。プラットホームの高さは昔のままで低い
通洞方面
間藤方面 2面2線のホームを有する地上駅。このほか現在では1本の留置線のみ使っている。下り間藤方面ホーム側には、留置線があり、貨物輸送が盛んな頃は機関車などが留置された
駅舎の横には二棟の小屋が残っていた。手前の建物は木造で古そうだが、ガラス窓が何枚も割れていて放置状態なのが惜しい。浴室だったらしい。
木造の貨物上屋及びプラットホーム 大正/1912
旧貨物ホーム脇の側線には、キハ30 35とキハ35 70(いずれも1996年、JR東日本高崎運転所を最後に廃車)とタンク車2両が留置されている。
ディーゼル汽動車の単車 ワンマンってバスみたい
足尾駅前広場にある銅山のモニュメント
昔のままの姿を留める駅舎に、レトロな丸ポストがかつての良き時代を感じさせる
駅前の北村商店さん
足尾銅山華かりし頃、足尾駅は足尾銅山の貨物集散拠点でもあった
足尾鉄道開通から銅山専用簡易軌道廃止までの約四〇年間、足尾駅は銅山の物流基地と直結する拠点であった。
銅山で便用する生産資材、従業員や事務所で使用する消費物資は、鉱業専川線で倉庫前に横づけされ、荷卸して倉確に収納され、その反対側に敷設された簡易軌道に横づけされた台車に積込まれて、ガソリン軌道車によって行先別に配送されていたのである。
足尾駅本屋 木造平屋建、瓦葺、建築面積209㎡ 大正元年(1912)築、1938改修 登録有形文化財(建造物)
昭和の駅舎風景がそのまま 大正元年(1912)築の足尾駅駅舎。大きめな木造駅舎
窓口営業は春~秋にかけては、8:00~9:40で乗車券等を販売している。ただし、冬季(12/1~3/19頃の間)は火曜日のみの営業(8:00~9:40)となり、それ以外の曜日・時間帯は無人となる。 人がおらずほとんど無人駅
足尾駅
足尾鉄道は、大正元年十一月に桐生と足尾の間が開通し、全国につながった。
これを契機にして、足尾駅は、足尾銅山の貨物集散拠点として機能するようになる。
足尾町内の駅では最も広い敷地面積を持ち、多数の引き込み線を有して、貨物の集配をおこない、機関車や車両の整備も行なった。
駅の東方から三角に至る敷地には、古河の倉庫が並び、受け取った貨物は仕分けられて、銅山簡易鉄道(ガソリン車)で輸送された。
倉庫課が調度課となって、物流の拠点となったのである。
足尾鉄道は、大正七(一九一八)年五月に買収されて、国鉄足尾線となった。大正八年には、足尾本山駅および足尾駅からそれぞれ鉱業専用鉄道の使用が許可された。次いで通洞駅からの専用鉄道が許可されて、選鉱楕鉱の製錬直送が実現した。
戦後、自烙製錬法採用にともなつて製錬では硫酸製造が開始され、製錬と足尾駅を結ぶパイプラインと足尾駅構内に硫酸タンクを設置して、需要先に鉄道輸送することが始まった。
その一方では、石炭から石油へのエネルギー転換にともない、足尾銅山でも、輸送手段が鉄道からトラックヘ転換した。地域内の精鉱輸送はもちろん、外部からの資材・物資もその流れに変化していった。同時に調度課の集中管理は役割を終えて廃止され、拠点管理に移行した。
足尾線も、銅山閉山後、輸入銅鉱石おょび硫酸の輸送が貨物の主体だったが、国鉄民営化にともなつて足尾線が廃止され、第三セクターのわたらせ渓谷鉄道の旅客輸送になって現在に至っている。 (文献:銅山の町足尾を歩く 村上安正著)
赤倉対面の製錬所の硫酸タンクからパイプラインで足尾駅の出荷用タンクに送られた。昭和40年代(以下3枚とも 新井常雄氏 足尾銅山写真帳より)
この写真だと足尾駅の山側に出荷用タンクがあったようでsる
プラットフォームや保管庫など、同駅の多くの設備が文化財登録されている。
レンガ造りの危険品庫が。こちらも登録有形文化財。大正/1914 煉瓦造平屋建、スレート葺、建築面積5.0㎡
手前:手小荷物保管庫 昭和前/1935 登録有形文化財(建造物) 奥:木造の駅員宿舎
プラットホーム 石造、延長109m 大正/1912/1938改修登録有形文化財(建造物)
ここからプラットホームに渡る。プラットホームの高さは昔のままで低い
通洞方面
間藤方面 2面2線のホームを有する地上駅。このほか現在では1本の留置線のみ使っている。下り間藤方面ホーム側には、留置線があり、貨物輸送が盛んな頃は機関車などが留置された
駅舎の横には二棟の小屋が残っていた。手前の建物は木造で古そうだが、ガラス窓が何枚も割れていて放置状態なのが惜しい。浴室だったらしい。
木造の貨物上屋及びプラットホーム 大正/1912
旧貨物ホーム脇の側線には、キハ30 35とキハ35 70(いずれも1996年、JR東日本高崎運転所を最後に廃車)とタンク車2両が留置されている。
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