2019年度最後の紅葉の写真です
大山参道
この一帯は、かつて大山巌(おおやまいわお)(元帥、公爵)の農場であった。大正5年(西暦1916年)、大山が没するとこの地に墓所が設けられ、参道が整備された。参道の設計は宮内省技師山本直三郎で、かつてはモミジと桜が1本おきに植えられていた。桜は後に伐採された。秋には全長200mの参道いっぱいに紅葉のアーケードができます。
参道には樹齢約90年を数えるイロハモミジが並ぶ
大山参道を含む那須野が原一帯は2018年に「明治貴族が描いた未来~那須野が原開拓浪漫譚~」として日本遺産に認定された。
大山巌公爵
1842(天保13)年、薩摩藩士大山彦八の次男として生まれる。
西郷隆盛の従弟。明治維新で鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争などに従軍した。西郷の弟、従道とは特に仲が良く、血気にはやって寺田屋事件で謹慎を命ぜられたり、薩英戦争では、スイカ売決死隊に加わり、英旗艦ユーリアスに乗り込んだという記録がある。
1863年、藩命により江戸の江川塾で砲術を学び、弥助砲を開発する。
維新後、フランスに渡り普仏戦争を視察、軍事学を学び新知識をもとに日本陸軍の建設にあたった。
1885(明治18)年、陸軍卿から第一次伊藤博文内閣で初の陸軍大臣となる。その後、黒田、山県、松方内閣と11年連続、更に第二次伊藤、第二次松方内閣で陸軍大臣を歴任した。日清戦争(1894年~95年)では第二軍司令官として旅順、威海衛を攻略、日露戦争(1904年~05年)では満州軍総司令官として陸戦を勝利に導き国民的英雄になった。参謀総長、内務大臣をも勤め元老となり、長州閥の山県有朋と並ぶ陸軍の実力者だったが、政治には積極的には関与しなかった。
1916(大正5)年に永眠、国葬によって栃木県の那須に葬られた。
動画
大山参道
この一帯は、かつて大山巌(おおやまいわお)(元帥、公爵)の農場であった。大正5年(西暦1916年)、大山が没するとこの地に墓所が設けられ、参道が整備された。参道の設計は宮内省技師山本直三郎で、かつてはモミジと桜が1本おきに植えられていた。桜は後に伐採された。秋には全長200mの参道いっぱいに紅葉のアーケードができます。
参道には樹齢約90年を数えるイロハモミジが並ぶ
大山参道を含む那須野が原一帯は2018年に「明治貴族が描いた未来~那須野が原開拓浪漫譚~」として日本遺産に認定された。
大山巌公爵
1842(天保13)年、薩摩藩士大山彦八の次男として生まれる。
西郷隆盛の従弟。明治維新で鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争などに従軍した。西郷の弟、従道とは特に仲が良く、血気にはやって寺田屋事件で謹慎を命ぜられたり、薩英戦争では、スイカ売決死隊に加わり、英旗艦ユーリアスに乗り込んだという記録がある。
1863年、藩命により江戸の江川塾で砲術を学び、弥助砲を開発する。
維新後、フランスに渡り普仏戦争を視察、軍事学を学び新知識をもとに日本陸軍の建設にあたった。
1885(明治18)年、陸軍卿から第一次伊藤博文内閣で初の陸軍大臣となる。その後、黒田、山県、松方内閣と11年連続、更に第二次伊藤、第二次松方内閣で陸軍大臣を歴任した。日清戦争(1894年~95年)では第二軍司令官として旅順、威海衛を攻略、日露戦争(1904年~05年)では満州軍総司令官として陸戦を勝利に導き国民的英雄になった。参謀総長、内務大臣をも勤め元老となり、長州閥の山県有朋と並ぶ陸軍の実力者だったが、政治には積極的には関与しなかった。
1916(大正5)年に永眠、国葬によって栃木県の那須に葬られた。
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