自分は鉄道マニアではありまへんが、廃線という言葉に何かそそられるものがある。廃線跡は北海道にたくさんありました。かつてここを蒸気機関車がそして汽動車が電車が走っていた風景を思い浮かべながら、何かしらノスタルジーに浸るのである。その当時の古い写真等を探して現在と比較してみると、歴史の重みを感じる事ができる(年取ったなあ) モータリゼーションの波により、輸送や旅行等移動手段は、鉄道から車へと変革していったが、ディスカバージャパンなどと言っていた頃の、鉄道の旅もなかなか捨てがたい。
そこで まだ線路が残っている廃線跡で、割と近くにある富士重工の引込み線跡。
富士重工業といえば、「中島飛行機」がその前身である。
昭和13年(1938年)11月に現在の富士重工の前身の中島飛行機株式会社の専用線として開通したらしい。
昭和19年(1944年)から陸軍機「疾風」を終戦までに750機生産。
戦後の財閥解体でここの宇都宮製作所は、鉄道車両事業の宇都宮車輌として営業し、昭和28年(1953年)に富士重工と再合同する。
そして、平成14年(2002年)5月鉄道車両製造から撤退した。
さて航空写真を見てみよう。この写真は 国土情報**WEBから入手した画像を編集したものである。BLOGでは1Mバイトまでしか写真がUPできないが、オリジナルの画像はJPGながら3から4Mあるので、家の1件1件の屋根まで確認できる高精度な航空写真である。
ちなみに撮影年は昭和49年(1974年)。
わらしが卒業した陽南小学校、陽南中(プールだけだが)も当時のまま写っている。懐かしいなあ。
宮原付近では、がん検診センターはこの頃まだなかったのか写真に写っていないようである。
また江曽島のショッピングセンター”アピタ”はその頃は東洋製紙の工場とゴルフ練習場であったのが写真で判る。
富士重工宇都宮製作所の専用線は 富士重工生協の入り口あたりから西へ 線路が道路をはさんでJR日光線と並行しているので地図上ではちょっと目立たない。写真のピンクの線路がそれで 道路をはさんで北(上)側の線路がJR日光線である。
西(左)にたどっていくと南北に走る 東武宇都宮線とオーバークロスしている。
さらに宇都宮高校のグランドあたりで引込み線はJR日光線合流し、栃木街道の陸橋下を通過し、完成した車両は鶴田駅へと運ばれたのである。
JR鶴田駅はこの他、同じく廃線となった 大谷線、専売公社専用線などもかつて引かれていて興味津々である
さて 写真上のアルファベットのエリアごとの写真を見てみよう
A.始点
JR日光線の踏み切りから見た 富士重工生協入り口。地元の人に生協が開放されており、ここは立ち入り可能な場所である。確か。(この日は休みだったので入れなかった。小さい写真はWEBで探して張ったもの。無許可掲載スンマセン)
フェンスから覗いてみると、車両ドッグ?から出ている線路はまだ残っていた。
かつてはこのように線路が残っていた
現在は線路は撤去され、舗装された通路になっている
B地点あたり
専用線跡はコンクリート製外壁で直接見えないが、工場北側のこの外壁を自由なキャンバスとして開放し、毎年市民の手で楽しい壁画が描かれている。
上の写真の団地入り口の道路から、東方向の線路跡を見たところ。舗装通路となっている。西側方向は、社員の駐車場となっていた
対面付近にあるJR日光線の踏み切り。前方にキャンバス外壁とその奥に宮原球場のナイター照明塔。
上写真の踏み切りから JR日光線西方向 JR鶴田駅方面を望む
3つ上の写真の反対方向、西側。駐車スペースの先はフェンスが張ってあり行き止まり
フェンスから西側も線路はなく空き地になっている。この先かつての線路は道路を横断する。
C地点
クランクした道路からすぐフェンス越しに東方面の線路跡を見る。何もなく空き地化されてしまっている。
右の鉄柱は役目を終えて久しい、入替用の構内信号機。 と継電BOX?
敷地端にまだ残っていた。 下の小さな写真2枚は、同地点での過去の写真(無断借用スミマセン)。まだ線路が敷設してあった頃。 下の写真は道路をはさんで撮ったものだが、
黄と黒の踏み切りシグナル見たいのが写っている。昔、電車が道路を通過する時、遮断機とかなかったと思うが、係員がフェンスを締めて車をストップさせるかして通過させたんだろうか? 現在では道路上の線路も含めすべて撤去されている。
道路の反対側に渡ると、西側にはまだ線路が残っていた・・ オーバークロスしているのは東武宇都宮線 フェンスで立ち入り禁止
フェンス越しにみると、廃線路がまだ残っている!線路は続くーよ
D点
東武線の堰堤と、廃工場のわき道から入り込んで東側からフェンスの方向を見る
上を走る東武線の橋台の築造は戦時中で、コンクリート製である。いかにも廃線跡らしい・・・
右が富士重工廃線、左はJR日光線。電車が汽笛を鳴らし通過する。線路に入るな危ないぞ!て事だろうか?遠巻きに眺めていたが・・鉄道公安に逮捕されちゃまずいよね。
日光線は107系という車両らしい。
165系の廃車発生部品を再利用した電車ということだ。足回りは旧型のを使っていて、車体だけ新しくしたようなものとあるBLOGからネタ拝借。
西側 鶴田駅方向を見る。 両側の木立ちは宇都宮高校のグランドのもの。左側 廃線、草に覆われている。
E地点
宇高のグランド付近。かつての線路によくある、古い木柵が残っていた
東側を望む。右側が廃線です。草から顔を出しました
西側を望む。 この先の上方に見えるのは栃木街道の陸橋
F地点
栃木街道の陸橋の下をくぐり、JR鶴田駅へと、廃線となった富士重工専用引込み線は続いていた。左の2つに分かれる線路がそれ。
JR鶴田駅舎と、跨道橋は、32年前と変わらない様だ(昔JRで電車通学していた)
特に、跨道橋は、明治?年の刻印があったから、開設当時のままじゃないのだろうか?
東側を見る。錆びた、クロスする専用線。緑の陸橋は栃木街道
西側を見る。この先に鶴田の踏み切りがある。右手は長い間、JRの土地だったが、ここ数年分譲住宅が建てられ、すっかり様変わりした。 古い倉庫や、燃料タンクなど在ったのを記憶の片隅にあるだけ。
さび付いた路線切り替え機(パンタグラフていうんだっけ?)がまだ残っている
<
この木柵も古い。錆びた釘が出ていた
線路北側の新興住宅地の道路から鶴田駅方面に向けて撮影。 草がはえている左側のスペースはかつて大谷線の引き込み線があったところではないだろうか?
撮影年月日 2009年5月9日
そこで まだ線路が残っている廃線跡で、割と近くにある富士重工の引込み線跡。
富士重工業といえば、「中島飛行機」がその前身である。
昭和13年(1938年)11月に現在の富士重工の前身の中島飛行機株式会社の専用線として開通したらしい。
昭和19年(1944年)から陸軍機「疾風」を終戦までに750機生産。
戦後の財閥解体でここの宇都宮製作所は、鉄道車両事業の宇都宮車輌として営業し、昭和28年(1953年)に富士重工と再合同する。
そして、平成14年(2002年)5月鉄道車両製造から撤退した。
さて航空写真を見てみよう。この写真は 国土情報**WEBから入手した画像を編集したものである。BLOGでは1Mバイトまでしか写真がUPできないが、オリジナルの画像はJPGながら3から4Mあるので、家の1件1件の屋根まで確認できる高精度な航空写真である。
ちなみに撮影年は昭和49年(1974年)。
わらしが卒業した陽南小学校、陽南中(プールだけだが)も当時のまま写っている。懐かしいなあ。
宮原付近では、がん検診センターはこの頃まだなかったのか写真に写っていないようである。
また江曽島のショッピングセンター”アピタ”はその頃は東洋製紙の工場とゴルフ練習場であったのが写真で判る。
富士重工宇都宮製作所の専用線は 富士重工生協の入り口あたりから西へ 線路が道路をはさんでJR日光線と並行しているので地図上ではちょっと目立たない。写真のピンクの線路がそれで 道路をはさんで北(上)側の線路がJR日光線である。
西(左)にたどっていくと南北に走る 東武宇都宮線とオーバークロスしている。
さらに宇都宮高校のグランドあたりで引込み線はJR日光線合流し、栃木街道の陸橋下を通過し、完成した車両は鶴田駅へと運ばれたのである。
JR鶴田駅はこの他、同じく廃線となった 大谷線、専売公社専用線などもかつて引かれていて興味津々である
さて 写真上のアルファベットのエリアごとの写真を見てみよう
A.始点
JR日光線の踏み切りから見た 富士重工生協入り口。地元の人に生協が開放されており、ここは立ち入り可能な場所である。確か。(この日は休みだったので入れなかった。小さい写真はWEBで探して張ったもの。無許可掲載スンマセン)
フェンスから覗いてみると、車両ドッグ?から出ている線路はまだ残っていた。
かつてはこのように線路が残っていた
現在は線路は撤去され、舗装された通路になっている
B地点あたり
専用線跡はコンクリート製外壁で直接見えないが、工場北側のこの外壁を自由なキャンバスとして開放し、毎年市民の手で楽しい壁画が描かれている。
上の写真の団地入り口の道路から、東方向の線路跡を見たところ。舗装通路となっている。西側方向は、社員の駐車場となっていた
対面付近にあるJR日光線の踏み切り。前方にキャンバス外壁とその奥に宮原球場のナイター照明塔。
上写真の踏み切りから JR日光線西方向 JR鶴田駅方面を望む
3つ上の写真の反対方向、西側。駐車スペースの先はフェンスが張ってあり行き止まり
フェンスから西側も線路はなく空き地になっている。この先かつての線路は道路を横断する。
C地点
クランクした道路からすぐフェンス越しに東方面の線路跡を見る。何もなく空き地化されてしまっている。
右の鉄柱は役目を終えて久しい、入替用の構内信号機。 と継電BOX?
敷地端にまだ残っていた。 下の小さな写真2枚は、同地点での過去の写真(無断借用スミマセン)。まだ線路が敷設してあった頃。 下の写真は道路をはさんで撮ったものだが、
黄と黒の踏み切りシグナル見たいのが写っている。昔、電車が道路を通過する時、遮断機とかなかったと思うが、係員がフェンスを締めて車をストップさせるかして通過させたんだろうか? 現在では道路上の線路も含めすべて撤去されている。
道路の反対側に渡ると、西側にはまだ線路が残っていた・・ オーバークロスしているのは東武宇都宮線 フェンスで立ち入り禁止
フェンス越しにみると、廃線路がまだ残っている!線路は続くーよ
D点
東武線の堰堤と、廃工場のわき道から入り込んで東側からフェンスの方向を見る
上を走る東武線の橋台の築造は戦時中で、コンクリート製である。いかにも廃線跡らしい・・・
右が富士重工廃線、左はJR日光線。電車が汽笛を鳴らし通過する。線路に入るな危ないぞ!て事だろうか?遠巻きに眺めていたが・・鉄道公安に逮捕されちゃまずいよね。
日光線は107系という車両らしい。
165系の廃車発生部品を再利用した電車ということだ。足回りは旧型のを使っていて、車体だけ新しくしたようなものとあるBLOGからネタ拝借。
西側 鶴田駅方向を見る。 両側の木立ちは宇都宮高校のグランドのもの。左側 廃線、草に覆われている。
E地点
宇高のグランド付近。かつての線路によくある、古い木柵が残っていた
東側を望む。右側が廃線です。草から顔を出しました
西側を望む。 この先の上方に見えるのは栃木街道の陸橋
F地点
栃木街道の陸橋の下をくぐり、JR鶴田駅へと、廃線となった富士重工専用引込み線は続いていた。左の2つに分かれる線路がそれ。
JR鶴田駅舎と、跨道橋は、32年前と変わらない様だ(昔JRで電車通学していた)
特に、跨道橋は、明治?年の刻印があったから、開設当時のままじゃないのだろうか?
東側を見る。錆びた、クロスする専用線。緑の陸橋は栃木街道
西側を見る。この先に鶴田の踏み切りがある。右手は長い間、JRの土地だったが、ここ数年分譲住宅が建てられ、すっかり様変わりした。 古い倉庫や、燃料タンクなど在ったのを記憶の片隅にあるだけ。
さび付いた路線切り替え機(パンタグラフていうんだっけ?)がまだ残っている
<
この木柵も古い。錆びた釘が出ていた
線路北側の新興住宅地の道路から鶴田駅方面に向けて撮影。 草がはえている左側のスペースはかつて大谷線の引き込み線があったところではないだろうか?
撮影年月日 2009年5月9日
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