1937年 南京に於ける和記洋行で在ったとされる事件について

2017年12月13日 12時00分00秒 | 1937年 南京攻略...

和記洋行のケースは、外国人の日記等記述によると和記洋行で起こったとは記述がない為、ラーベやその他外国人達の在留外国人の日記等により【下関於ける電灯廠作業員消息不明事案】と名付けるのが正解である。

 

●前置き

(1)電灯廠(発電所)、和記洋行と煤炭港、中興碼頭、砲艦比良(艦長土井)、宝塔橋街(平和街)の場所の確認。

 

 

(2)12月13日に於ける第16師団第33連隊の和記洋行直横の煤炭港での戦闘詳報。午後3時より掃討開始。結果当然ながら、江中にも沿岸にも戦闘による支那兵卒の遺体は存在することになる。

 

 

(3)宋希廉手記によると12月13日の支那軍の行動と残留する支那兵について。下関に逃走した部隊は【和記洋行】附近に殺到したとある。逃げ遅れた支那兵卒が16師団33連隊よる撃沈後、生き延びた便衣に着替えた敗残兵が居たと考えられる。

 

 

(4)12月15か16日に、和記洋行社の建物の中程にある中興碼頭に、砲艦比良(土井艦長)が碇泊。

 

以上が前置き。次より本題。

 

【電灯廠作業員消息不明事案】

ラーベを含む外国人達の日記をまとめると、12月16日に日本軍から依頼されたラーベ等が集めた下関に避難していた(12月16日以降)54名の電気作業員うち下関において政府機関の職員という理由で日本軍が43名の電気作業員を処刑したことになっている事案。但し全て伝聞によるもの。

 

【事件として成立する為には】

1)処刑の日時と場所、処刑後の遺体そのものか存在の確認出来るもの写真など。

2)被害者の作業員の氏名・年齢。

3)ラーベの22日の有力な目撃証言者である支那人の氏名・年齢。

4)目撃証言者である支那人がその当時そこにいたという証明できる史料。

5)最初にこの事案を直接被害者から聴取した外国人の証言を記述した記録。

 

外国人の日記等で判った情報は以下の通り。

【処刑について】

処刑前の行動、13日下関の電灯廠から直線距離約1.5km程の和記洋行へ避難(中島今朝吾:十三日朝迄運転シアリタリ)したことに成、掃討戦(午後3時)より前の敗残兵で混乱した和記洋行に着いたこととなる。

処刑場所は、不明。記載無し

処刑者の身分は、電気作業員。氏名・年齢不明(ラーベ:16日に作業員を探した記述が無し)(マギー:電気の仕事を始めて和記洋行に住んでいた作業員)

処刑人数は、44名:下関で居たはずの43名とそれとは別に他の生存証言者である人物1名(ラーベ)

処刑日は、18か19日(ラーベ)、21日(マギー)

処刑時刻は、午後、それ以外不明。(ヴォーリントン)

処刑理由は、政府機関の職員という理由。

処刑後の状況は、遺体等不明。

 

【生存者について】

証言者の年齢氏名、不明。

証言者とその他作業員の関係:作業員(何の作業員か不明)とあるが関係は不明。(ラーベ)

証言者の怪我の程度、不明。

証言を聞きラーベ等に伝えた者、不明。

 

●不合理点

1)重要証人である生存者自体の情報が、ほぼ無いに等しい。

2)生存者と電灯廠の作業員43名以外にその他の処刑された支那人がいたのか記載無し。何故、この生存者が処刑対象者とされたのか不明。

3)【輸出会社のシーク教徒の警備員が彼らを知っており、以前そこで働いていた】という証言からは、その他の11名の人物が、処刑されたという43名を電灯廠の作業員であることを保障しなかったと言うとにもなる為、本当に作業員か不明となる。(マギー)

4)処刑日時についても、18、19、21日曖昧で午後とだけで正確性がない。

5)16日に工兵隊の要請によって集められたならば54名が電気作業員であることは下関の部隊にも連絡済であるから、これを16日以降の段階で政府機関の職員として処刑するとは考えにくい。もっとも16日以前から居たであろう事はラーベの記述から判る。

7)政府機関の職員という理由で処刑したことになっているが誰からの情報か不明。

8)中島今朝吾日誌に18日に発電所の運転を命じている事と、二月の南京班第二回報告によると【機械設備大ニシテ補助発電所ナクシテハ通風竝給水ヲ得ス圧力上ラスボイラーニ危険ヲ感シタル為】とあり、当時、作業員不足で下関での電灯廠が稼働できなかったとは認識できない。

 

●認識出来ること。

ラーベ等の日記の記述等は曖昧な伝聞情報に基づき、認識もバラ付があり、そもそも本当に誰かが処刑されたのかも明確に認識できない。

中島今朝吾日誌に見られる【軍隊の入城掃討の際技師も職工も片付けたらしく之を運転する要員なし】は推測であり、13日の和記洋行の煤炭港での掃討戦の前に和記洋行に避難したのであれば、当然ながら渡河出来なかった敗残兵で溢れた混乱した中に作業員はいたことになる。戦闘中に補足されたという記述は無い為。戦闘に巻きこまれたか、掃討戦後に鹵獲された敗残兵として処分されたことが濃厚であり、日にち的には14日~16日迄。マギーのいうラーベ等が16日以降に探した作業員電気作業員とは別の集団かマギーの認識違いであることが判る。梶谷健郎日記でも、ドイツ人を含むそれ以外の部隊が煤なる程の大世帯になる人数が配置されたことも考慮に入れると処刑があったとは確実と認識できない。又、電気作業員という重要性を鑑みて宋希廉の部隊が浦港への脱出を便宜した可能性も排除できないし、他方面へ逃走したという可能性も排除できない。

 

●結論

【電灯廠作業員消息不明事案】は、外国人の日記等の記述による処刑は不確定要素の多い為に、余りにも情報が少ない事案である為に事件として成立しない。これが原因となって日本軍への正式抗議はなされず、「国際安全区当案」にも掲載されなかったと推測できる。

 

●番外編

1)12月20日の韓湘淋証言には、処刑云々の記述無し。

2)陳徳貴の証言は、神がかり的生存で人間離れしている。

①もし城内からの12月12日で逃避行であるならば、12月8日より前である必要があり、民間人の難民ではなく敗残兵と考えられる。又年齢からも民間人とは考えにくい。もし城外であるなら何故兵士でもないのか青年が居たのか不明である。

②和記洋行直横の煤炭港での掃討戦の記述がないのがおかしい。

③14日補足され17日迄倉庫に監禁とあるが、監禁した理由が不明。

④12月、雪も降るような季節に水中で約八時間も過ごし、低体温症で死亡せずに、生きていたと言うのはあり得無い。仮に暖冬であったとしても、12月28日には南京では降雪があった。(参考:水温10~15℃での低体温症 意識不明:1~2時間 生存時間:1~6時間)

⑤18日、奇跡的な水中から水に濡れた状態で、絨毯を体に巻いたとしても、水に濡れている為低体温症にもならず生きていると言う事はあり得ない。

⑥19日、太ももを銃で撃ち抜かれたにもかかわらず、出血多量にもならず翌20日迄生きていたと言う事はあり得ない。

 

 

⑦ラーベの目撃証言者と陳徳貴は射殺際の逃亡と水中に避難したという共通点はあるが、電灯廠の作業員であるとは明記されていない。

 

 

【軍隊の入城掃討の際技師も職工も片付けたらしく】とあり、入城掃討の際14日~16日における掃討作戦中による便衣兵及び抵抗兵として殺害及び処刑とも考えられる。16日迄には発電の必要性から発電作業員を捜索していた可能性があり、作業員が居無いことを確認してラーベに助力を頼んだと考えると流れがスムーズである。

然し12月20日には、梶谷健郎日記に【独逸人電気技師来る。鈴木部隊も漸く大世帯となり人員は倍化せり。】とあることから、ドイツ人技師以外にも鈴木部隊が倍で大世帯になる程の人数が確保されたことになる。

 

 

 

ラーベの日記によると

12月16日

私は発電所と残りの米備蓄を調べる為、菊池と下関に赴いた。発電所は思いの外良い状態で、日本兵に労働者の安全を託せるなら、修理は数日で終わりそうだ。 助力を惜しむつもりはないが、この信じられない日本兵の行状を見るにつけ、作業に必要な40~50名の労働者をかき集めるのは難しく思える。

★16日の段階では、何ら処刑死体等を発見した様子はない。

 

12月17日 

日本軍は本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。

★17日の段階でも、何ら記述無し。

 

12月18日

★記述無し。

 

12月19日

日本兵は野放し状態だ。これでは発電所を復旧しようにも、とうてい人手が集まらない。

★逃げたのであって、処刑されたと考えていない。

 

12月20日

★記述無し。戦後の韓湘淋と言う人物の証言では、ラーベが韓に電気労働者を何人か連れて機械を見に下関へ行かせる。

【◆韓湘淋証言(12月20日頃)日本軍が入ってきてから、水道と電気が停まりました。七日目になって、日本軍は慌てて電気工事人を探して水道と電気を修復しました。わたしはドイツの 商社で働いたことがあるので、ドイツ商のラーべがわたしに電気労働者を何人か連れて機械を見に下関へ行かせましたが、日本の将校二人と憲兵一人とに護送さ れました。珠江路から車で下関へ行ったのですが、その道で、打っ遣られた物がいっぱいなのが見られるだけで、車は早くは走れず、死体にぶつかる時もありま した。(加藤実翻訳『『この事実を……』「南京大虐殺」 生存者証言集』)】ここで、【和記洋行に逃げてしまっていた】という証言が見られる。

>七日目になって、日本軍は慌てて電気工事人を探して水道と電気を修復しました。

七日目=20日、水道と電気が修復されたという。電気労働者を(城内から)日本の将校2名と憲兵1人の護衛で下関へ。

 

12月22日

ところが、なんとそのうちの四十三人が処刑されていたのだ! それは三、四日前のことで、しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。…政府の企業で働いていたからというのが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、おなじく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの二人が撃たれ、その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。

★処刑の情報伝聞である。誰から聞いたかという事すら記載が無い。3、4日前ということは、18日であり、マギーの手紙と日にちが異なる。

 

尚、マギーの手紙には、【何日か前に日本の官吏が、工兵隊将校を伴って国際委員会に来て、電気に詳しい労働者を探してほしいと頼んだので、ラーベ氏や他の人たちが54人の人たちを探した。…その人たちは電気の仕事を始めて国際輸出会社(和記洋行)に住んでいた。兵士がその54人のうちの43人を撃ったのは昨日だと思う。】和記洋行に住んでいた54人の技術者をラーベとその他の人物が捜し出したが、43名は昨日(21日)に処刑と【思う】というこれも

 

ヴォーリントンの日記には、【午後、彼らのうち四三人が、中国政府の官吏であるとの理由で日本兵に射殺された。】午後という時間が出て来る。

 

中島今朝吾日誌には、【南京の電灯と水道は十三日朝迄運転しありたりとのことなりしも軍隊の入城掃討の際技師も職工も片付けたらしく之を運転する要員なし…師団内に於て曽て電灯又は水道会社に勤務せし技士技手職工を調査せしに四十五名を得たり…運転を命じたるは十八日頃なり

】とある。掃討戦の際での事で、処刑とはされていない。18日に運転を命じている様子から、到底処刑をしていたとは考えにくい。

 

梶谷健郎日記(南京・第二波止場司令部・騎兵軍曹)には、

12月20日【独逸人電気技師来る。鈴木部隊も漸く大世帯となり人員は倍化せり。】『南京戦史資料集Ⅱ』 p.434-437とあり、17、18日に処刑していたとは考えにくくなる。

 

砲艦「比良」艦長・土井申二中佐によると、

--宝塔橋街に死体はありましたか?
「陸軍が入った時、戦があったと思いますから戦死体はありました。
また、盗みに入った者を射殺した、といってましたが、そういう死体が十数体ありました。」

--下関に着いたのですね?

「いえ。もっと下流の中興碼頭です。下関なのかもしれませんが、下関とは言わずに、中興碼頭とよんでいました。

勢多などは上流の下関に着いたと思います。」

 

 

◆南京班第二回報告(二月中状況)

宣撫概況

一方電気ハ当初下関発電所ヨリ着手セルモ機械設備大ニシテ補助発電所ナクシテハ通風竝給水ヲ得ス圧力上ラスボ イラーニ危険ヲ感シタル為直ニ中華門外六里ノ地点ニ在ル上城門発電所ヲ試運転シ途中城外外線ニ多大ノ損傷アリシモ昼夜兼行電気水道両々本年一月一日ヨリ一 部軍隊ノ利用ニ供シ次テ下関発電所ノ復旧ト共ニ水道電力モ之ヨリ供給ヲ受ケ漸次需要範囲モ拡大シテ今日ニ及ヘルモノナリ。


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