富山大学 人文学部の主張する「本稿の目的はあくまでトンデモ『研究』に騙されないための知識を示す」への異論

2020年06月03日 21時38分08秒 | 日記

Twitterからの引用

シャキ風@shakyyyn
そんなことを書いた論文があるんですね。僕は、主張の裏にどんな政治的意図や願望があったとしても、学術において重要視されるのは、「事実関係」と「理屈」だと思います。逆にそれらが優先されない「学術の厳しい世界」など、まあ一漫画家からなめられ続けてもしょうがないでしょうね。
https://twitter.com/sagawa20180501/status/1267901567140630528[このツイートはありません。]

これに対して

左川@sagawa20180501(返信:午前11:07 · 2020年6月3日·Twitter for Android)
「事実関係」と「理論」が重視されるのが学術界であり、それを蔑ろにして勝手な理屈を発信してきたのが、小林氏です。南京にせよ慰安婦にせよ、学者がとっくに論破した理屈をさも新視点であるかのように掲げ、自身に都合の悪い史料は無視する『戦争論』に代表する出鱈目さは、学術界から相手にされなくて当然です。歴史学者は、小林氏のような学術的水準を満たさぬ主張に反論しても「実績」にはなりません。学術界が小林氏をなめているのではなく、小林氏が学術をなめているのです。
学者がこれまで積み上げてきた努力を軽視し、自分勝手な理屈を垂れ流す小林氏に歴史を語る資格はない。

 

先ず、この左川という人物が、何処かのアカデミーで教鞭を執っておられて歴史学会に参画されておられるのか判らない以上は、学術界を何故[代弁]できるのか理由が分かりませんな。別の処で【富山大学】の【朴斎】という【ペンネーム】の【大野圭介】という人物が書いているネットリテラシーから学生を守ると題した【富山大学 人文学部】の公式ページ中にある【トンデモ「研究」の見分け方】という記事をあげているので、この人物のご関係者か本人なのかもしれない。しかし、ネットでは何者か判らないので、この人物の【主張】を単に読んだだけなのだろうとしか言えない。

【富山大学 人文学部】の【朴斎】という【ペンネーム】の【大野圭介】などのこういったアカデミックの方々は、自身が何か【学問的で、高尚で、正しいこと】を行っている人間だと思い込んでいるようだが、単なるアカデミーという【教育営利団体】に雇われている【教員】であり、【単なるイチ職業】に過ぎないという側面を忘れている。
この人物の主張にこんな事を書いている。

引用《

他人の説を批判する場合には、感情は一切排して、根拠を挙げて誤りを指摘するのが、論文の「作法」です。批判は相手をへこませるのが目的なのではなく、相手の誤りを指摘して自分の見解を示し、より正しい方向へと結論を導くためにするものです。そのようにして初めて学問は発展していくのです。


これは大いに賛成・賛同すべきもので、【南京事件】でアカデミックの方々が言葉としての【虐殺】は、既に【感情的要素】が入っているものであり、【感情は一切排する】のが、論文の作法であろうし、それをアカデミックの方々が言及するのは、【学問的】ではないということになる。

少し気になったので、この人物が挙げた【富山大学】の【公式ページ】内部の記述に反論してみたい。
【問 「研究ごっこ」の見分け方のポイントを教えてください。】という設問を立てて
答として次のように論じている。

引用《古代を扱った主な「研究ごっこ」のテーマや「研究ごっこ」のパラドックスの項を見ていただければおおよそわかると思いますが、特に次のような点に当てはまっていれば、用心してかかった方が安全です。

①著者が雑誌に発表した論文がない
雑誌に発表した論文がなく、自費出版の著書しかなかったり、ウェブサイト上の文章だけしかなかったりするような場合は、眉に唾をつけた方が賢明です。「ちゃんと専門家の目に触れて批評を受けた経験がない」ことを意味するからです。

②著者がその分野について専門的に学んだ経験がない
これは著書なら奥付を見ればわかりますし、ウェブサイトでもきっちり学んだことのある人ならその経歴を載せているはずです。たとえ著者が大学教授の肩書きを持っていても、専門と全く無関係な領域で発表した「研究」なら疑ってかかった方が安全です。例えばドイツ哲学や都市工学の研究者が書いた日本史の本や、政治学の専門家が書いた中国史の本といった場合です。

③やたらセンセーショナルな文句が多い
「定説を完全にくつがえす!」「これまでの研究はウソだ!」といった、某スポーツ新聞の見出しのような派手なうたい文句を掲げているものは、羊頭狗肉であることがほとんどです。突っ込みどころを蚤取り眼で探すつもりで臨んだ方がいいでしょう。

④論調が攻撃的である
プロの学者をやたらと罵ったり、従来の定説を支持する人をバカ呼ばわりするような、攻撃的な雰囲気が感じられたら、コケおどしだと思った方がいいでしょう。アマチュア研究家でも本当に立派な業績を上げている人は、プロの学者を罵倒したりはしないものです。

⑤引用文献がない
まっとうな研究なら先人の研究をきっちり引用した上で、それを踏まえて自分の論を展開します。ですから脚注や巻末の参考文献一覧には多くの参考文献が書かれています。ところが「研究ごっこ」の著者は自分の「研究」だけが絶対だと思っていますから、他人の研究をあまり参考にしません。引用文献がほとんどないか、あっても啓蒙書や入門書ばかりだったり、著名な専門書や論文が入っていないようなものは「研究ごっこ」と思った方が安全です。

⑥なお上に示したのはあくまで「用心して読んだ方がよい」という目安であって、これに当てはまっているから即「研究ごっこ」であるとか、これに当てはまっていないから必ず安全であるとは言えません。最終的な判断は、あくまで中身を見てからすべきです(もっともプロなら最初の数ページを見ただけで判断がつくことも多いのですが)。》

 

当方の【反論的な雑考】としては

①について、出版社と研究者の立ち位置だが、研究者の大学での立場レベルや著名度によっては、その力関係は研究者>出版社になるし、教科書で生計を立てているような中小企業の出版社は、研究者>出版社である。つまり、何か《出版社》が査定する権限はないし、せいぜい文字校や文脈的な段落設定ぐらいであろう。つまり【専門性】に於ける「ちゃんとした」ということが存在しないのである。出版社が【専門性】を【学術】として有することはあり得ない。ただ【イデオロギー】として【マルクス史観】系の【出版社】が存在し、そう言った所はある種の【方向性】は確保していることは間違いない。大手では【岩波書店】などその典型だろう。小企業なら【青木書店】などがある。また、学内レベルの上位の人物が自分の論攷に反する文献を出版する場合、出版社に圧力を掛けて出版を妨げることもあるのである。つまり、この人物の主張する【ちゃんと専門家の目に触れて批評を受けた経験がない】というのは、【虚偽】または【社会経験がない世間知らず】になると言う事になる。
いったい【専門家】って誰を指すのであろうか。近年、東京大学の学者の論文に不正が見つかったことなどが報じられいる(産経新聞2017年8月15日記事)。【専門家】と言って【信用】がおけるかどうかは判らない状況なのである。【実証性】という【内容】が伴わないことには【信用】など出来ないのである。

②専門外の人物が書いた専門書というのは、【学際的】とも呼べるし【別分野】からの【評価基準】を持ちこんで、【史料・資料】の分析を行うものであり、内容に於ける【史料・資料】の【出典】が明記されており、その論攷が極端に非論理的な論攷をしていなければ、【専門と全く無関係な領域で発表した「研究」なら疑ってかかった方が安全です。】とは全く言い切れない。むしろ、【専門家】と称するアカデミックの学者が書いた【専門書】が、必要な【史料】を無視して論攷をしたり、【蓋然性の低い史料】をエビデンスにしたり、論攷中に【矛盾】が発生しているにも拘わらず、強引に【結論】に結びつけているものがあるので【専門家】と称する人物が書いた【専門書】が疑われる自体になっている。また、歴史分野ではこの人物の専門外である【近代史】に関しては、【状況】を認知する為に必要な他の【専門分野】が存在するので、例えば、国際法・国内法(軍法・刑法)・法制史(国際・国内・軍制)・軍事工学・軍事史・メディア史・戦時宣伝史・インテリジェンス史・外交史・個別の人物史など、近代史に関しては知らなければならないことが【古代史】よりも無数にある。自身の専門分野と違う他分野の学者を批評することはアカデミックの他の上位レベルの研究者の怒りを買うことも考えられるし学内での出世にも影響があるはずである。
このような単純思考では【言えない】のが学内の社会構造と考えるが、無垢な学生諸氏にくだらない事を云って自分の知的レベルを下げるのはどうかと考える。

③【これまでの研究はウソだ!】は、松尾一郎氏のサイト【南京大虐殺はウソだ!】をターゲットにしたものでもあるのではないかと考えるが、邪推かも知れない。【突っ込みどころを蚤取り眼で探すつもりで臨んだ方がいいでしょう。】と書いておられるが、この【朴斎】こと【大野圭介】なる人物は、【他分野】の【アカデミックの学者】の書いた【論攷】を【突っ込みどころを蚤取り眼で探すつもりで臨んだこと】があるのであろうか。近代史における【南京事件】のアカデミックの学者の論攷に関して、アカデミックの方々は【突っ込みどころがありすぎる】にも関わらず、それに何も言わず【忖度】しているどう言うつもりなのかと驚いているのである。まして【自浄作用】もないまま、このようなページを何時までも掲載している国立大学の富山大学は、学内の体質といい、知的レベルに対して【疑問】が湧いてくる。

④【論調が攻撃的である】といっておられるが、当然ながら【定説】でもないことを【学術的に確立した】とか【学問的には確定している】とか主張しているアカデミックの学者(プロの学者? なぜプロになったのか意味不明。)や民間研究者、それを支持する人達(ジャーナリスト・医者・政治家・政治活動家・一般人など)は、当然ながら【確立・確定】もしてないことを【確立・確定】しているなどと言えば、例えばプロ野球選手が【三振は4球まで大丈夫】とか訳の判らないことを言えば、そしてそれを支持するような人物が居たら、馬鹿にされるのが当たり前である。【アマチュア研究家でも本当に立派な業績を上げている人は、プロの学者を罵倒したりはしないものです。】という文言の【立派な】は研究者の言葉としては、本当に不適格で、【評価基準】は何なのかが不明である。出版数なのか、研究論文数なのか、その考えを支持した人々の数量なのか意味不明である。プロ学者が優位に立つ分野も確かにあるが、プロ学者も【確立された評価基準】と【再認実証できる成果】がなければ、何の意味もなく【想像レベル】のゴミ考察である。【哲学】【思想】などその【時代】の雰囲気に流されることもあるので、【基準】は明確でもなく【再認実証できる】かどうかもハッキリしない。こんな論攷は【自分の立場】を守りたいという【自己防衛】の【稚拙】な論攷にほかならない。この人物が専門とする【社会科学】で、プロ野球選手のように目に見える形で【ホームランを打てる】、物理研究者の【物現象の論的発見を行える】とは言えない。そういう分野の専門家なのである。

⑤に関しては、論攷のための【出典明記】は必要であり、2020年現在に於いては、2001年(平成13年)11月30日以降では、国立公文書館アジア歴史史料センターがネット上で公設され、パソコンとインターネットがあれば、公開されている【史料】は【閲覧】出来る用になり、以前は様々な研究や論攷をみてもそれが本当かどうか【プロ学者】の【主張】でしか判らなかったことが、【自分自身】で【調べる】事が出来るようになり、近代史に於いては、プロ学者でもない一般人のレベルが上がった。そして【文献】も市販書籍だけではなくアカデミックの研究者の【論文】も閲覧出来る様になり、様々な研究分野を学際的に学ぶ環境もできている。主体的に個人の研究者が、自分の居る様々な事情が妨げとなっていた環境から【史料】を閲覧し、【考察・分析】出来ることが可能になったのである。
この論攷が、2007年以降改編もされずに放置されているほうが問題で、環境・状況は年数と共に変わるものである、何時までも旧来の【状況】での【論攷】を放置するのはどうかと考える。
ネット上に於ける意見の異なる相手への【議論】の相手の単に言葉を封じる【ツール】にされないためにも、プロ学者としても大学としても【改編】すべきではなかろうかと考える。

⑥は、単なる逃げ口上であろう。中途半端な論攷なら【印象操作】レベルの低劣なものであり、実際【論攷】を眺めてみたが、古代史専門には当てはまるかも知れないが、近代史の専門には当てはまらない論攷であることは自明で、【もっともプロなら最初の数ページを見ただけで判断がつくことも多い】と書いておられるが、プロでもない当方でもこの【論攷】の【研究ごっこ】を認知することが出来たのは確かである。古代史だけが論攷の全てではないし、他の専門分野に関してこの人物がイチイチ論文を精査し、精通しているわけではない。
アマチュア研究者ではなく、プロ学者が【研究ごっこ】をしているケースもあるわけであり、アマチュアを批判するならば、プロはもっと批判されるべきであり、本末転倒も甚だしい。【最終的な判断は、あくまで中身を見てからすべきです】と述べているが、他の専門分野の【中身】を見て、この人物が【正確に理解】出来るとは全く思えない。単にプロ学者だから同じアカデミックのどこどこ先生・先生の弟子だからとか、雇用者だからという理由からしか、【研究内容】を理解で居ないのではないかと考える。それは所謂【研究ごっこ】を見破れるのかどうか全く疑問である。

つらつら【反論的な雑文】を書いたが、結局【研究ごっこ】をしているのは、むしろこの【朴斎】という【ペンネーム】の【大野圭介】というプロ学者ではないかと邪推してしまう。
この方の他の論文で、ネズミ講やメールの詐欺などに注意を喚起するものがあるが、この人物の言を【信用】する時点で、【詐欺】にかかりやすい人間であると言う事が判るある種のリトマス紙なのかもしれない。

それにしても酷いのは、【本稿の方針】として書かれた内容で、引用してみるので読んでいただければ、その内容の【酷さ】が判るのではないかと考える。

引用《
本稿では特定のサイトを名指ししての批判はあえて行いません。それというのもトンデモ「研究」を発表している人の多くは、自分の説をかたくなに墨守したがるもので、彼らは自説の根幹を否定されてしまうと、あらゆる手段を使って反撃に出ます。どんなに論理が破綻していてもひたすら声高に言い募り、挙句には口汚い罵倒や人格攻撃も辞さず、自分の誤りは決して認めようとしません。その上彼らは「頭の固い学者に不当な攻撃を受けた」と、自分を被害者に仕立てて人々の同情を買おうとしますから、相手を説得するどころか、かえって相手の狂信を深めるだけで、全く骨折り損のくたびれもうけになるのです。現にトンデモ「研究」サイトの掲示板や、2ちゃんねるなどで、そうした不毛なバトルが繰り返されています。隔靴掻痒の感はありますが、無用のケンカを避けるためにはやむを得ませんので、ご理解いただきたいと思います。
本稿の目的はあくまでトンデモ『研究』に騙されないための知識を示すことであって、トンデモ『研究家』を黙らせることや、トンデモ「研究家」の人格をおとしめることが目的なのではありません。我が国では学問の自由も言論の自由も保障されていますから、どんな内容の「研究」であろうと、それをやめさせる権限は誰にもありません。自らトンデモ「研究」を発表してしまった人が本稿を読んで改心してくれることも、期待するだけ無駄でしょう。それよりはトンデモ「研究」に引っかかりかけている人に「皆さん騙されないようにしましょうね」と注意を促すことの方が、トンデモ「研究家」本人と不毛なケンカをするよりも、ずっと意義のあることです。一人でも多くの人が本稿で知識をつけて、こうしたトンデモ「研究」に引っかからないようになっていただくことを切に願うものです。

【ことであって、トンデモ『研究家』を黙らせることや、トンデモ「研究家」の人格をおとしめることが目的なのではありません。】と書いているが、古代史なら少し書いて居られるが、【歴史学】は、古代史だけではないので網羅しているわけではない。【トンデモ古代史研究家】とするならば、未だ理解も出来るが、【トンデモ研究家】で括ってしまえば、あらゆる民間研究家が【トンデモ】に括られてしまう。全く酷い低レベルの記述と考える。前述したが【トンデモ研究家】というのは、別にアマチュアに限ったことではなく【専門家】と称する【プロ学者】にも居るので、【プロ学者を含めて】と記述すべきであると考える。
【「皆さん騙されないようにしましょうね」と注意を促す】などと書いているが、このような記述は、名誉毀損であろうよ。誰も彼もがアカデミック以外の【アマチュア研究者】は【トンデモ研究家】になってしまう。【騙す】などという用語は酷い【誹謗・中傷用語】と考える。誰がどのように【誰】を【騙す】のか明確にしたらどうであろうか。学術界の社会的役割としても重要な事と考えるので【是非】ともやってもらいたいものである。このような【誹謗中傷】よりも【史料】と【論考】で各論理を立証すれば良いだけのことである。
【騙す】というような【誹謗中傷用語】を使うのは、逆に言えば、ここまでアカデミックの学者がその存在意義を疑われているのかと焦っているようにも思える。確かにこのような【専門の古代史以外】の別分野(恐らく【教育学】【論理学】ではないかと考える)である稚拙な論攷を行い、それを大学の公式HPに掲載し続けているのは、アカデミックも学者もその存在意義を疑ってしまう。
【批判対象】や【その研究】を明らかにせず、【一般論】のような形で、【名誉毀損】を逃れるような【論攷】を行って多くの【別の専門分野】の【アマチュア研究者】の名誉を貶める論攷は【国立大学の富山大学】の【姿勢】としてどうかとは考える。

前置きが長引いてしまったが、左川氏@sagawa20180501の話に戻すことにする。
小林氏の【著作内容】について論評は読んでないのでなんとも言えないが、松尾一郎氏の研究成果も取り入れられているということは、松尾一郎氏の文献から知ることが出来る。松尾一郎氏はTwitterやブログでは過去の確執から【南京事件の大虐殺否定派】の言及が多いので、そこは置いておいても研究成果である【サイト[南京大虐殺はウソだ!]】の【内容】は【実証的】であり、他の2著作の文献があるがこれもまた【内容】が論理的且つ実証的な【第一次史料】からの【論攷】と【戦時宣伝】または【戦時プロパガンダ】からみた【分析と結論】は極真っ当で、正鵠を得たものである。数ヶ所当方とは意見が異なる事もあるがそれは仕方がないことである。
【学術界】と言っても、【専門分野】によってさまざまに別れていて、他の分野に言及すれば【越権行為】みたいなるのは自明で、【偉い教授陣同志】の学内抗争に発展しかねない。そんな事は通常行わないだろうということは想像に難くないし、仮に【批判主張】が為されれば当然【反駁】もあり、学内政治闘争で負けた方は、学会から排除されるからである。
そんなアカデミックの現状を踏まえずに、【学者がこれまで積み上げてきた努力を軽視し、自分勝手な理屈を垂れ流す小林氏に歴史を語る資格はない。】という主張をしている。【朴斎(大野圭介)】という人物も書いているが、【表現の自由】もあり、【評論家】として【誰かの論考】を用いて【論考】する事に【資格】の云々があるわけではない。アマチュア研究家が、自分の論考を発表することも【他の人物の論考】に対して【批判】【批評】も当然ながら【自由】である。朴斎氏がやっているようにプロ学者による別分野の【低レベルな論考】も堂々と【発表】する事は許されるのである。当然【誹謗・中傷】は以ての外であるが、この朴斎氏というプロ学者は【騙す】などという表現を使って、【アマチュア研究家】を誹謗中傷している。ターゲットを明確にしていないので【誹謗・中傷】には当たらないと言う事かも知れないが、古代史に限定してない【アマチュア研究家】全般への【誹謗中傷】ととらえられてもおかしくはない。(現にこのHPの記事を利用して、議論を封じようとする人物も居るのであるから。)国立大学の富山大学の公式HPに掲載できるのである。【プロ学者】であっても、大学側も【自分勝手な理屈を垂れ流す】ことは可能なのである。

余談であるが【近代史】というのは、【評価する基準】が不明確な所があり、【人道】なのか【安全保障】【イデオロギー】【法律】【政策】なのかで、それらの選択した複合の【評価する基準】によって、【物事】の【状況】が何であるかが変わってしまうのが現実である。【史観】というのだが、その【史観】をどう【判断】するかという【評価基準】すら明確にされているわけではない。一般的には【人命第一】の観点から【人道】という【価値判断基準】が選択されることがあるが、この【基準】ですら【明確】な定義があるわけではない。それは【戦闘】になれば【人命第一】などではあり得ないからであり、またイチイチ【戦闘】に於ける【ジャッジ】を下すスポーツ競技のような【審判】など存在しないからである。
【中立国】が【ドローン】などを飛行させて【戦闘行為】を【観察】するというのもそんな暇があれば【制止】する為の【行動】を求めるべきであり、そもそも【戦争】が禁止となったWW2以降では、【現実】として起こる【戦争】は【自衛権】を元にした【防衛的対抗】であって【戦争】とは言えないらしいからである。実際は戦争であり戦闘行為である。
【学術】はこの【基準】を作ることでもあるのだが、【歴史】に関して、特に【近代史】に関しては、【基準】は様々であり、【史観】を変えれば【評価】は180度も変わったりもする。
アカデミックに【在籍】する事が、即ち【基準】とする方も居るようだが、これも【権威史観】であり、【研究内容や成果】よりも【アカデミック】に【在籍】していることによる【権威】が優先されることがあり、またアカデミック自体の【社会的評価】という【明確でもない基準】によって【評価】されることがある。
【事態・状況】を【理解する上】での尺度・基準としての【史観】が、アカデミックと一般社会とずれると言うことはあり得る。【現実】に生きている一般社会の一般人と【アカデミック】の中での【史観】とは、共通価値が得られないことがあるからである。
過去に於ける事例とその後の事態とよく似たことが現代で起これば、いくら【人道】【差別】【民主主義】を叫んだ所で、【現実の事態】から逃れられないからである。
現代の事例が、過去に於ける事態への【史観】が【変化する】という事態になる。幕末・大正〜昭和などもその典型例ではないだろうか。【アカデミック】内では【マルクス史観】という【共産主義・社会主義】への容認史観が存在していて、戦後の戦前回帰を恐れる敗戦後の人々に【支持・容認】されて発展してきた。
しかし、現代の日本の周辺国の状況を考えれば、それで何かが変わるわけではないと言う事が認識されだしたのは当然のことである。
【学術界】も【変化】する時期が来ているので、【従来の史観】に囚われて【アカデミーの殻】に閉じこもらず、【世界を見て】【史観】という【判断基準】を変更すべき時期が来ていると考える。



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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2022-08-30 23:59:35
この記事を書いた本当の意図は、実は嫉妬にあるのではないかと推察する。この記事の中で大野教授はプロの学者、アマチュアの学者などという表現を用いているが、そもそも大野教授自身がアマチュアの学者な訳である。従って、大野教授の研究も実はトンデモ研究だったりする訳であって、「自らトンデモ研究をしている学者自身が、トンデモ研究に対して注意を呼び掛けるとかいうおかしなことになってしまっている。この稿に何となく違和感を感じるのはそういう所にあるのではないか?
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