もし、貴方が何等かの犯罪容疑者となった時に、
裁かれる裁判所の規定・手続き・運営に不備があり、
証拠すらマトモに審議されてない状態で
【新しい罪が作り出されて】【死刑判決】を受けた場合はどうするであろうか。
そんな馬鹿な裁判を貴方なら我慢出来るであろうか。
あきらめて無罪だ不当だと主張しないであろうか。
実際にそんな【裁判】と【判決】が現実にあった。
前回に引き続き(Ⅰ)について、
①少なくとも満洲事変から始まって1939年迄の支那事変継続中に於ける【南京大虐殺】とか【南京事件】とよばれる1937年の南京攻略戦前後の日本国及び日本軍・日本軍人・日本軍属のとった行為は【戦争犯罪】では無い。【陸戦法規慣例規則を違反した又は違反の疑惑のあるもの】を【殺傷】した者、旧軍人(既に軍人でない者)を何等かの【刑法】で【犯罪】とする【法】又は【陸戦法規】には存在しない。
②東京裁判当時【罪刑法定主義の論理】が、連合国側及び枢軸国側には、国際法としても外れることはなく、国際軍事法廷が【立法の原則】を逸脱し、【法の遡及】を行い【罪刑法定主義】という原則を破った事は逆に国際慣例に違反する行為。軍律裁判ではなく通常裁判ならばその他にも管轄・法根拠・手続き・運営・審理にも問題が見られる。
③東京裁判は【戦争違法観】として国内外の法曹会・法律学関係に、その【意義】を評価されるが、法的なこととは別としても、東京裁判の判決以降において現実の国際社会で紛争(戦闘行為)は数多あり、【戦争を違法化】や【法の支配】の目的である【戦争の防止】には何の役にも立たなかった。
その昔から世界中では戦闘行為に依る国家・集団による大量殺害は行われてきたことは記録に残る限り存在する。それが近代国家出現以降も同じで、米墨戦争、WW1、第一次上海事変、支那事変、WW2、インドネシア独立戦争、中東戦争、蒋・毛戦争、朝鮮戦争、スエズ戦争、アフガニスタン戦争、ベトナム戦争、ユーゴ紛争、ナイジェリア紛争、湾岸戦争、シリア紛争、ISカルト教団紛争など言い出せば枚挙にいとまがない。
然しながら、極東国際軍事裁判(通称東京裁判)で【南京暴虐事件】として日本軍の行為を裁いた際、冒頭陳述でのT.H.モロー検察官は《匈奴「アチラ」以来比類なき戦慄すべき物語を綴ったことおよび支那軍人が把に括られ、無差別に乱殺されたことを我々は証示する》(*1)と述べ、日本軍の行為がまるで近代において特殊な中世以前のような野蛮な大量殺害者であると言及した。
しかし、実際にはそうではなく、日本軍の行動は明治以降の国際社会の【国際法】に準じた範囲での【行動】であり、当時の近代戦を大きく離れた戦闘行為では無かった。
【虐殺】という【用語】については、別の記事で書いたが、日本軍の行動への【政治的文言】の一つであって、事実を正確に認識出来ない用語としてあきらかだが、この事は兎も角として、用語の内容を突き詰めると、【違法とか不法】とかに行き着く。南京関係を含む近代史学者の笠原十九司教授および氏の所属する土下座強要派(南京虐殺肯定派・戦争責任追及派)らのグループの方々のみならず、秦郁彦教授を初め板倉由明氏ら中間派と呼ばれる方々もその本質は【違法・不法】な【殺傷行為】としている。(*2)
違法というのは法令違反を指すし、不法は法令違反若しくは反社会的・不道徳的な行為という意味も付加された用語であることは、現代の国語辞書などにもその意味とされているが、ただ、【戦時】(講和による終戦・停戦が結ばれていない状態)に於ては、【戦闘行為】に依る【殺傷】は【合法】である。【人の殺害】が【平時】と【戦時】では違い、【平時】では【犯罪・不道徳・反社会的な行動】として存在するので、その様な状態では無い【戦時】では何が【不道徳・反社会的】なのかを理解する必要がある。その手がかりとして国際社会での国際法の存在があり、1899年のハーグでの開かれた万国平和会議での【陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(*3)】という【諸国間での取り決め】による【規範】から外れる行為、又は違反行為を【不道徳・反社会的】としている。
このことは、土下座強要派にしても中間派にして、当方のような否定派にしても同じである。
しかし、ハーグでの陸戦法規に関する条約の締結後間もなく、その後の第一次世界大戦が1915年から始まり、この際に航空機、戦車、潜水艦、毒ガス、機関銃などの新兵器のみならず新たな戦闘スタイルである宣伝戦(虚偽のプロパガンダの情報戦)、暗号などが大きな威力を発揮して、条約が双方守り得ないような様な状況になっていた。WW1の特徴として、【新たな兵器】はプロパガンダの戦術で、WW1での米国の参戦は、虚偽のプロパガンダ(ドイツの蛮行・悪業という虚偽情報)によって誘導された一面もあり、散々虚偽のを流された揚げ句ドイツは結果敗戦した。但しドイツも同様行為を行ったが、ドイツ一国であった為、効果がなかった。第二次世界大戦でも、日本が同様となり、現代においても尚その【プロパガンダ】により苦しんでいる。
もう一つこの大戦の大きな特徴は、前述の通り新兵器や宣伝戦(新聞・ラジオ)、暗号が使われた事と、従来のウェストファリア条約(*4)での講話による解決では無く、戦勝国側が敗国者側の戦闘の開始と戦争中の行為の【陸戦法規違反】を【犯罪】として裁こうとしたことであった。倉山満氏によると現代の紛争の80%の原因を作り出した(*5)といわれる米国第28代大統領ウッドロウ・ウィルソン(民主党)が、勝者が敗者の罪を裁く為にパリのヴェルサイユ宮殿でドイツ及びその同盟国の【戦争犯罪】について連合国としての対応を協議する【戦犯の責任及び処罰に関する委員会:通称15人委員会】を招集したことが発端で、当初戦犯を裁くことに不賛成であったイギリスもドイツの共産革命が起こることを恐れて賛成し、敗戦国の君主及び陸戦法規違反者を裁く為に軍事法廷が開かれることになった(*6)。この勝者が敗戦国を一方的に裁くという行為は、当時、国際法での国際慣例でも無くこの時【新たに創出された行為】であり、これが【軍律審判】によるものか【文明国家内(主権国家内)】で行われる【通常裁判】と同様そしてどの国家の【刑法】【手続き】【運営】が適用されるのかが明確ではないまま、且つ敗戦国のドイツの同意・合意を得ないままに、四つの類型に分けた刑罰(Penalties)227条〜230条で裁くことを決定され、【量刑】はドイツの慣習によって決めると言う事で戦勝国側が意見を纏められた。これがその後WW2でのニュルンベルグ法廷や極東国際軍事裁判(東京裁判)に通じることになった。
しかし、講和受諾に当たって、ドイツ政府は227条〜30条は留保し、さらに国内法廷で4つの類型に該当した【戦争犯罪者】を自国の【国内法】で裁くことを戦勝国側と【交渉】し国内で裁いた。敗戦後ドイツ皇帝は皇帝を辞して、中立を保っていたオランダに亡命していた。連合国側はそのドイツ元皇帝をオランダに引き渡しを求めたが、オランダは【罪刑法定主義】を主張し、要求を【拒否】した。次が重要で、要求を断ったオランダに対し、戦勝国側がどうしたか。【戦犯】を保護するのであれば、【同罪】としてオランダに【宣戦布告】若しくは【経済制裁】を科して、ドイツ皇帝の引き渡しを要求したかというとそのような事実は無くでうやむやにした(*7)。つまり当時の認識としてオランダの主張は国際社会での通念的・常識的観念で、【国際軍事裁判】が【罪刑法定主義】の枠内を越えるものでは無いと言うことで、そしてこの段階でも【戦争】とは【正戦論】、つまり【正式・正当な国家同士の決闘】(*8)であり、【戦争犯罪】は戦闘継続中にあって、敵軍に鹵獲された場合のみ、捕虜としての【資格・権利】を保有したものが、その中で敵軍によって軍律審判・軍事委員会の審判を受けて、処置されるものであった。【陸戦法規違反】にせよ、【戦争指揮官】を【犯罪】とするような【国際慣例】が形成されていなかった。そもそも英国やオーストラリアでも当時の国際慣例で裁くことには問題があったという認識から消極的姿勢だった事が判っている(*9)。当時の戦勝国側が【罪刑法定主義】という【文明国としての前提】を無視しなかったのは、【ウェストファリア条約】を無視したそれより前の【野蛮時代】の【異端審問時代】に回帰出来なかったと考えられる。これには日本国も関わっており、当時の各国家の為政者及び司法関係者が無責任であったと考えられる。
その2へ続く
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