【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。その2番目。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から初めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。
【18 [黒須忠信(偽名)]陣中日記】
P.336
18 [黒須忠信]陣中日記
所属:第13師団>山砲兵第19連隊>第三大隊>大隊段列・編成
階級:上等兵
10月03日 上海上陸。紡績工場宿営。
10月04日 上海第四紡績工場に移動。
10月05日 毎日敵機による空襲。
10月06日 上海より西北約6里(約24km)地点に前進。腹痛入院。
10月07日 腹痛入院。中隊は雨中敵前を難渋しつつ某地点へ移動。露営。
10月09日 入院。
10月13日 退院(発病後7日)。月浦鎮の部隊へ合流する為に向かう。4kmの手前で自動車から徒歩に。
10月14日 李家綱へ向かう。
10月15日 支那兵・家畜の死骸に大量の蠅が涌き、水は汚染され兵士の何名かがコレラに罹患する。
10月16日 戦闘演習。前線死傷者多数と聞く。
10月18日 李家綱から劉家行へ着。露営。敵からの射撃続く。
10月19日 敵軍後退の様子無く膠着。
10月20日 我軍も砲撃を受け負傷者増加。
10月21日 宿営地付近に重砲弾着弾。
10月22日 500m退陣。50名の敵兵鹵獲。大場鎮堅固に抵抗。日本軍の攻撃に対し半年持つと噂では聞く。
10月23日 交戦中。敵機による空襲。戦死者有。
10月24日 敵の攻勢衰えが見える。補充兵が来るものの負傷者が多く追いつかない状態。
10月25日 敵退却始める。大場鎮陥落との報に接する。川の水位の変化が海並みと驚く。
10月26日 休養。岡塚少尉より指揮と軍規(軍規は堅守することなど)の学科を受ける。
10月28日 大場鎮陥落。隊長病を得て入院。鈴木中尉が臨時隊長となる。
10月29日 敵後方に退却。前進。
10月31日 雨の為、道泥濘悪路となり進軍難航。友軍の遺体は放置され腐敗。
水が汚染され水不足となり難儀する。
11月01日 劉家行より約三里西南方へ移動前日の雨の為、弾薬等の重いものの運搬難航。
11月02日 孟家宅に向かう。弾薬の運搬困難。火傷場に着。大雨、再度孟家宅に戻り弾薬を運ぶ。
途上支那兵の見苦しい程の遺体があり、中には女性の遺体も見受けられた。
11月03日 李家宅に移動。途上泥濘路に進行難航する。
11月04日 休養。甕風呂入浴。又雨。
11月07日 雨の為、悪路になり停滞。小銃部隊を組織して不意の襲撃に備え警戒体制を取る。
11月10日 日中は平穏。夜は弾丸が間断なく続く。上海まで私物を取りに行き戻る。
11月12日 羅店鎮北方約三里(約12km)の長壽橋へ宿営。
11月13日 長壽橋出発。途上戦闘の為に百姓が放棄したリヤカー・自転車が破棄されていた。
更に行軍5里(約20km)。交戦にて一名戦死。積福着、露営。
11月14日 積福を出発。激戦地跡に生々しい支那兵の多数の遺体。翌日午前4時着宿営。
11月15日 某地出発。太倉へ向かう。途中敗残兵を5、6人を銃及び刀にて殺害。南梅村宅着宿営。
11月16日 南梅林宅を出発。雨。食糧の補給全く無く、支那人家屋からの挑発。
11月17日 雨。泥濘化し路面が無くなる。馬も疲労の為倒れる。砲弾頭上をかすめる。
一人のニヤ(支那人)を連行してきたが、隙を見て逃げ出したので射殺する。
11月18日 連日の雨。道は泥濘で進撃難航し、敵砲撃益々激しく負傷者増加。
11月19日 戦闘激烈。夕方謝家鎭橋(常熟の北10km程度)から敵総退却開始。2名戦史。
11月20日 雨。敵の攻撃止む。
11月21日 雨。追撃開始。クリークや泥濘路の為に人馬の進行が難航。
11月22日 陳家鎭に着。徴発。
11月23日 陳家鎭の支那家屋では日の丸旗と挙げ日本に好意を表し、
日本軍の進路の道に藁を敷設するなど援助を受ける。南国着。
11月24日 敵交戦続く。コレラで1名死亡。
11月25日 南国発。祝塘鎭着。霜降りる。我ら5分隊24名生存。
11月26日 祝塘鎮発。二里程(約8km)無名宿営。小銃弾が激しく飛来。
11月27日 13師団集結。途中の家屋の殆どが全部焼き払われている。農家を憐れむ。泗河郷着。
学生軍2名鹵獲の上斬殺。
11月28日 支那学生軍らしい5名宿舎前にて刺殺。自分は2回(2名?)。某地進軍。トーチカ群より敵頑強に抵抗。
11月29日 13師団応射猛攻。進軍。友軍飛行機墜落。搭乗者2名重傷。敵迫撃砲にて反撃。
12月01日 戦闘は夜間も絶え間なく続く。今度の戦いは殆ど砲兵戦である。敵頑強に抵抗。
13師団歩兵第104連隊が江陰城を陥落させたとの報を耳にする。
12月02日 江陰地方西方のを出発。友軍江陰城占領。無名地宿。
【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】
12月03日 某地にてそのまま休養。給養を受ける。
12月04日 給養。風呂入浴。
12月05日 南京攻略戦の準備。
12月06日 休養。明日出発の命を受ける。
12月07日 南京に向けて出発。江陰城壁面付近に支那兵の限り無い遺体がある。小湖鎭着宿営。
12月08日 小湖鎭発。休止無く強行軍。暑い。夏墅鎭(武進の北東東約20km程)の西河巷着。
12月09日 西河巷出発。姫庄へ。町にも関わらず、馬糧も食糧も無い。この先を危ぶむ。
12月10日 姫庄出発。田が減り畑が多くなる。
支那人家屋では大日本帝国国旗(日の丸)を掲げて大歓迎の文字を見る。
鎮江よりの避難民が相当に(鎮江に)帰って行った。
鎮江の街は大きな建物があり、電気も点灯し、電灯の下で眠る事が出来た。前線では戦闘続く。
12月11日 西方の無名の地点へ移動。某地のに日本に居たという支那人から茶湯で歓迎を受ける。
12月12日 休養予定が出発となり、夜間行軍某地に宿営。
12月13日 揚子江付近を海軍が遡航しているのを目撃する。某地着。
途上敗残兵が諸処に於いて殺害されていた。某地着宿営。
12月14日 敵弾の中前進。進むにつれて激しさを増し、弾丸が頭上をかすめる。
途中敗残兵を65連隊にて1,800名を鹵獲して捕虜とした。
その他13師団で合計5,000を捕虜としたと聞く。幕府山占領。
【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、この中では、日本国旗を掲げる支那家屋と大歓迎の文字ぐらいで。鎮江の街で掃討作戦が行われてというは無しも掲載されていない。寧ろ平穏で交戦もなく電気設備が保持された事が示されて居るぐらいである。11日には無名で日本に居たという支那人からの茶湯で歓迎を受けている。
ここに示されているのは【大量】の【一般人】も書かれて居らず、
又【大量の殺傷】も見る事が出来ない。
寧ろ判る事は、支那軍の徹底抗戦による戦闘の激しさぐらいである。死者はほぼ兵士という感じである。
11月15日の5、6名の敗残兵殺傷、11月27、28日の学生軍らしい7名に対する殺傷については、事情が分からず【陸戦法規】に【違反】するかどうかは不明である。ただし、【犯罪】では無いことは当方の前記事に既に書いている。ただし、【《A》】の範囲外なのと【一般人(非戦闘員、民間人)】ではないので、でここでは対象とはしない。
ただ、後の【幕府山】の同様にも見えるのが、11月17日の逃走した支那人の射殺である。逃走すれば射殺は止む得無き事なので後の【幕府山】の状況ともダブル話である。
又、12月10日の姫庄附近の状況に見る戦闘が終わった避難民が鎮江の街に帰っていったということは南京の周辺にもそれなりに居たという例示にもなりそうだが、1月27日の江陰地方に於ける家屋の焼却状況は、無錫から江陰という錫澄線という支那軍の最終第4防衛ラインで強固の防衛戦が成されたものでこちらの状況の方が防衛ラインでは無い鎮江のケースより南京に似ていると考えられ(*2)、12月10日は鎮江の街の話は例外と考えられる。
19の目黒の陣中日記と同様に、その内容にはBBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場は、この進軍ルートだが、日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。揚子江付近を進軍しているにも関わらず、存在すら気にも止められなかったし、話題にものぼらなかったようである。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。
【参考文献】
(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』 全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】
(*2)偕行社『南京戦史』 P.47 要図:淞滬線陣地と外衛線陣地より 【Link】
【参考サイト&Twitter】
・ZF殿サイト:補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】
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