【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その14

2020年03月28日 14時30分57秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【5[中野政夫(=偽名)]陣中日記】

P.113
5[中野政夫]陣中日記
所属:歩兵第65連隊>第一大隊>第1中隊・第3次補充
階級:上等兵

11月29日 上海上陸。夕方支那人の紡績工場宿営。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月02日 30日、1日と宿営地に滞在。午前6時発。某所より乗船。滸浦鎮に午後4時上陸。午後11時に梅李鎮近辺着。
12月03日 江陰城に向かい行軍。就寝は藁を使う。
12月04日 行軍。午後12時近く宿営。
12月05日 両角部隊に合流。12中隊に同宿する。
12月06日 午前7時整列。軍旗奉拝と部隊長の訓示。第一中隊第3小隊配属。
12月07日 午前6時整列。江陰城発。南京ヘ向け行軍。午後4時無名宿営。行軍と軍隊生活になれない。
12月08日 行軍。分隊員2名落伍。落伍大尉の運搬物資を代わりに運ぶ。徴発に始めていく。
12月09日 午前6時出発。午後4時無名宿営。布団、米、豚、芋など多くを徴発。1分隊と協同で炊事を行う。
        自分以外の兵士の多くが足の痛みに苦労している。

12月10日 午前6時発。鎮江に午後1時着。そのまま行軍。午後8時半山中の無名に宿営。
        日本に長くいたという支那人が居て歓迎して貰う。但し食糧無く。

12月11日 午前6時発。午後5時龍潭鎮宿営。米・豚、支那酒を徴発する。他部隊の郷里の戦友と会う。戦友髭面になって驚く。
12月12日 午前8時、船の徴発の為、分隊某方面へ出発。なかなか発見できずに、桶船で間を移動する。
        付近ではクリークの水を耕作地に非違入れている為に、水面となり間は船による。米を多く徴発。
        午後2時帰営。午後5時約3里(約12km)ほど念のため威嚇射撃しつつ行軍。午後11時に無名地に宿営。

12月13日 晴。午後6時宿営地発。行軍途上数十名の敗残兵を射殺。
        午前10時頃、銃声頻繁になり初めてのことで動悸が高くなる。中隊独立隊となり1小隊は斥候に出る。
        付近の道は地雷が20m位おきにある。山斜面には塹壕、鉄条網が設置され厳重な陣地がある。
        ここが烏龍山砲台と知り占拠。砲台は揚子江に向けられており、陸方面はトーチカ群による陣地構築になっている。

12月14日 晴。警備の任の後、敗残兵掃討は中隊長以下2分隊で砲台攻略へ向かう。何名とも判らないほどの敗残兵を殺害。
12月15日 晴。敗残兵数百名降伏。多数の武器押収。昨日押収した敵軍用車両で武器を中隊陣地へ運ぶ。
12月16日 攻撃に出た部隊は南京ヘ入城。中隊は砲台警備の任。
12月17日 歩哨任務中、小隊員2名が、敗残兵による手榴弾攻撃を受け負傷。ここ毎日何名とも判らないほどの敗残兵の銃殺。
12月18日 晴。大体に於て1万7千の捕虜を処分する。平穏。
12月19日 晴。警備。第4次補充員着。分隊に退院の1名編入。
12月20日 午後2時、砲台警備を交代。宿営地を出発。午後5時、南京附近無名に宿営。
12月21日 晴。滞在儘。小春日和。内地へ手紙を書く。
12月22日 午前6時宿営地発。南京城外碼頭より揚子江を海軍船により渡河。午後4時浦口鎮着。宿営。物資豊富。



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、第3次補充員で、ほぼ戦闘後の部隊追求組である。烏龍山砲台攻略戦で初めて実際の交戦に参加したようで、烏龍山では敗残兵との交戦。数百の投降があったことが記載されているが、その後の捕虜に着いての記載はない。この人物は第1大隊の筈だが、警備に付いていた為か、遺体の処理にも参加していないようである。

ただ、12月16日の警備の任が、烏龍山砲台か幕府山砲台判然としないし、歩哨任務地が不明でありながら、敵軍による手榴弾攻撃があり負傷者が出たと言う事が書かれている。当時の状況は気の抜けない戦闘中であるという事を示すエピソードでもある。

この人物の記載の中に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*2)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この中野という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない

引用 チャールズ・メイヤー(*3)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この中野の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*3)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 



最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (歴史認識修正学者志望者)
2020-03-28 15:57:57
幕府山での 中国軍捕虜は いかなる部隊か? "ゆうこう門"
督戦隊36師? 捕虜じゅんもんしていない!
お粗末軍隊? その辺も 虐殺冤罪の 原因でしょうね。
返信する
Unknown (歴史認識修正学者志望者)
2020-03-28 15:58:22
幕府山での 中国軍捕虜は いかなる部隊か? "ゆうこう門"
督戦隊36師? 捕虜じゅんもんしていない!
お粗末軍隊? その辺も 虐殺冤罪の 原因でしょうね。
返信する
幕府山・下関と挹江門 (南京渋多(プロテスティア))
2020-03-30 10:00:03
コメントありがとうございます。
下関の鹵獲した敗残兵については、国際法に関して【犯罪】がそもそも【当時】【形成】されていなかったので、日本軍が【法令】に沿った行為ですし、挹江門から城内の道の遺体は確かに中国軍の同士討ちによるものですわな。
幕府山は、情報が少なくて、もう一つ何が起こったのかよく判りません。
殺害があった事だけが判っているだけですな。
肯定否定できないものを一方的に【日本軍悪】に利用されているのが現状ですな。
返信する

コメントを投稿