【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。
【6[宮本省吾(=偽名)]陣中日記】
P.125
6[宮本省吾]陣中日記
所属:歩兵第65連隊>第一大隊>第4中隊・第3次補充
階級:少尉
11月27日 呉淞着。乗船儘。船中食糧が無くなり船長が願いを出している。
11月28日 雨。船中儘。
11月29日 上海華順碼頭より下船。恒豊紡会社宿営。上海共同租界は戦闘による惨憺たる有様。支那人一人も見ず。
11月30日 予防接種と休養。軍用車で日本人街へ、支那人外と比べて賑わっている。
12月01日 糧秣補充が少ない。2日分のみ。日本人街へ買い出しに行く。
12月02日 江陰城へ5日迄に到着すべしの命令を受け出発。午後7時乗船出発。滸浦鎭で下船。夜間行軍。
午後11時半、梅李鎭着。農業倉庫宿営。
【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】
12月03日 午前10時発。午後5時30分、常熟着。爆撃砲撃の為破壊されてない家屋がない。
廃墟のようになって痛ましく思う。少尉1名病死。
12月04日 午前6時出発。午後10時無錫着。路面状況は良好、敵兵の遺体が散乱している。
砲兵隊・輜重隊と同時行軍で大混雑。
12月05日 午前9時発。昨日の疲れが残る中で青陽鎭着。連隊命令で急遽江陰城へ宿営予定から行軍となる。
夜間行軍で江陰城着。中隊に仮編入され給養を受ける。
12月06日 両角部隊に合流。午前9時吊鐘山麓に集合。午前編成式と隊長の言葉。午後師団長の訓示。
12月07日 前線部隊として追撃戦参加。午前7時常州へ向け出発。荻洲部隊は対岸渡河支援の為鎭江方面に展開する。
午後5時、常州東方2kmのに露営。徴発。
12月08日 午後6時30分出発。中隊は工兵大隊の支援の為共に先行する。午後5時30分宿営。中隊歩哨を立てる。
12月09日 午前6時出発。天候よく行軍支障なし。兵卒に足を痛めるものが多く支那人及び牛馬を荷役として同行させる為
支那軍のようである。午後4時鎭江附近に宿営。途上重砲の音、騎兵隊の重機による敗残兵への攻撃音もする。
友軍機による爆撃と砲声がする。
12月11日 午前7時出発。第1大隊のみ騎兵隊援護の命を受け前進。工兵隊が道路敷設工事を行っている。
南京は未だ陥落せず。連日の行軍で疲労。午後6時宿営地着。主要道路確保と警備の任に就く。
12月12日 宿営地にて滞在。早朝より徴発。午後大隊長田山少佐より騎兵部隊の報告として午後1時7分南京陥落。
12月13日 前夜午後7時烏龍山砲台攻略の為出発。午前5時に大休止後、午前10時将校による斥候で敵情探索。
途上敗残兵に遭遇し騎兵隊員と共に殺害。烏龍山砲台に敗残兵少々。外郭陣地には敵影無し。
本体配置場所に戻るが既に前進し置き去りにされる。烏龍山は既に放棄されているとの報告が出来ず。
本体は敗残兵を多数鹵獲し、一部は銃殺する。午後10時露営。
12月14日 午後5時発。南京附近の敵敗残兵掃討。敵戦意無く投降。何千に達する。
武装解除後引率して城外の兵舎に収容すると万以上に達する。中隊にて8箇所に歩哨警備。
捕虜は空腹で道端の葉を食するものまで居る。喉の渇きを訴えるものも居る。
全く可哀相だが、戦闘中なのである程度迄断乎たる処置を執る。夜半、衛生隊が200名程の捕虜を引率してくる。
警官や少佐、参謀とか通訳を通じて主張する者も居る。
「日本軍は皆に対し危害を与えない、ただ逃げる暴れる様な事が有れば直ちに射殺する」と伝達して、
その為か一応平穏。飲料水と食糧の不足には非常に困る。
12月15日 滞在儘。昨日の捕虜収容と通達で疲れたたので、下士官に歩哨警備を任せ睡眠する。巡察将校を命じられ、
警戒の為非常に疲労。夕方一部のみに食事を与える。中隊兵へも食糧配給が滞り、捕虜への給養など出来ない。
12月16日 午前10時に第2中隊と歩哨を交代する。しかし昼食時に火災が起こり、収容兵営の3分の1を延焼。
午後3時に大隊は最後の手段を決定。捕虜約3千を揚子江岸へ引率し射殺する。
戦場ならでは出来ず又見られない光景。
12月17日 中隊一部は南京入城式に参加。大部分は捕虜の処分に任じられる。午後南京入城式に参加。
夕方近くに帰営し、残りの捕虜処分に加わり出発する。2万以上の事で大失態となり友軍にも多数死傷を出す。
中隊1名戦死、負傷者2名を出す。
12月18日 曇。 昨日の出来事で、帰営し明け方に就寝。起床は昼。午後殺害した遺体の片付けをする。
暗くなっても終了せず明日も引き続きとなり一旦引き揚げる。風冷たい。
12月19日 早朝より遺体整理。午後4時迄かかる。捕虜の衣類に始末で火災発生、宿舎に延焼しかける。
明日渡河の準備で遅くまでかかる。
12月20日 中山碼頭より渡河。二里余り(約8km)行軍宿営地に着く。盆と正月が来た様な物資豊富。
【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、第3次補充員で、ほぼ戦闘後の部隊追求組である。その為敗残兵は少数残るが別段前線での交戦には参加していない。【幕府山占拠後】までは、特別なことは書かれていない。12月9日に支那人人夫と牛馬を使った行軍で部隊がふくれあがったことが判るぐらいである。12月13日の烏龍山で鹵獲した敗残兵の銃殺(一部とある)以外のついてのその後は書かれていない。12月14日の捕虜の哀れな状況について記載している。道端の葉は、諸葛菜(=蔓菁)(*2)だったのだろうか。人間にとって最重要な水分がないことが問題であったことが判る。
この人物が書いているが捕虜の身の安全の保障は【ただ逃げる暴れる様な事が有れば直ちに射殺する】は、重要なことである。第1大隊(田山隊長)が捕虜収容と警備をになっており、16日、17日の2日に亘る殺害と、18、19日の遺体の処理を担っていたことが判る。この記事のテーマは、南京城外の【大量】の【一般人】の【存在】と【大量殺害】を調べているので、【幕府山】についてこの程度に留める。
国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*3)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この宮本という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない。
引用 チャールズ・メイヤー(*4)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。
》
日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。
こういう誤った【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。
この宮本の資料でも、BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。
【参考文献・参照】
(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】
(*2)DIAMOND online 『諸葛亮孔明が愛した野菜「蕪《かぶ》」』 【Link】
蕪(カブ) wiki 【Link】
一年生植物 wiki 【Link】
(*3)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】
(*4)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】
【参考サイト・Twitter】
ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】
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