新渡戸 稲造『武士道』①
『武士道』について、興味が湧く。
何か私でも解る書物はないか、探してみる。
そうすると、「新渡戸 稲造」の名前が多く耳にする。
その中で、ある方が『新渡戸 稲造 武士道』をまとめた本を見つけた。
それを、今回私なりにまとめ記したいと思う。
はじめに
・「武士道」が説くのは、一言で言えば“人間としての品性”である。
・それは同時に、われわれを一元化された“金銭的・物理的豊かさ”幸福感から解放してくれる道でもある。
・さらには、われわれに物欲を超越した「低く暮らし、高く思う」“簡素な生活”、真の“知的生きかた”の素晴しさを教えてくれる道である。
日本人の道徳心を生み出したもの
・武士道が廃れ始めた時代、明治維新によって近代化が進められていた時代。
・その時代に、武士道について書物をまとめ、世界に紹介した人物が『新渡戸 稲造』(にとべ いなぞう)
・新渡戸 稲造は、ベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏に宗教について質問された。
教授
「あなた方の学校では、宗教教育というものがないというのですか。」
新渡戸
「ありません。」
教授
「宗教なし!!どうして道徳教育を授けるのですか。」
・新渡戸は、この質問に即答できなかった。
・少年時代に学んだ道徳の教えは、学校で教えられたものではなかったから。
・正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、ようやく武士道である事を見出した。
・しかし、封建制度および武士道を解する事は、現代日本の道徳観念は結局封印されし巻物である事を知る。
新渡戸は、武士の子
・幕末の文久2年(1862年) 盛岡(現岩手県 盛岡市)に生まれた。
・武家の家庭教育を受け、明治の大改革の時代に成長した。
・クラーク博士の下で西洋の科学を学び、海外に出て活躍した国際的日本人である。
・ラヴレー教授が、新渡戸に宗教について質問したのは、当時の日本人が極めて道徳的であったから。
・江戸幕府による海外留学生派遣は、文久2年(1862年)に行われ、それ以降、多くの公費、私費留学生がアメリカやヨーロッパに渡っている。
・日本の留学生は、総じて立派な志士であった。
・幕末期、アメリカ ニューブランズウィックで多くの日本人留学生を見てきたブリフィスは語っている。
「当時、米国に留学している日本人の学生は、いずれも立派な武士気質に富んだ青年ばかりで、人格高潔・克く好んで学問に精進し、将来有為の人物たらんとしていた。私は、彼らに心から敬意を払った。」
「・・・常に大日本国をして列国の間に伍して大ならしめんと志しつつ、・・・知識を探求し学問の蘊奥を究めんがため没頭して、恰も火焔のうちにある燃料の如くであった。」と。
・新渡戸は、明治32年(1899)英文で『武士道』を書いた。
・原題は“BUSHIDO,The soul of Japan”つまり『武士道‐日本の魂』は、世界的な反響を呼んだ。
・理由の一つは、小国・日本が日清戦争(1894-95)で清国に勝ったばかりでなく、文字通りの大国・ロシアと戦いを交え(1904‐05)これにも勝つという世界的“大事件”が世界の目を一斉に東洋の小国・日本に向けさせたこともあるだろう。
・世界の「先進国」も「後進国」も、日本の勝利の原因・日本人の精神基盤などに大いなる興味を持ったことは想像に難しくない。
武士道の原点
・武士道の主体として武士が台頭するのは平安時代中期の10世紀以降のことである。
1.合戦を“職業”とする・・・つわもの(兵)
2.官人貴族に仕えて警護をあずかる・・・さぶらい(侍)
3.武力をもって公的に奉仕する・・・もののふ(武者)
以上の者が現れ、彼らを総じて“武士(さむらい)”と呼ぶようになった。
・武士は、大いなる名誉と大いなる特権と、それらに伴う大いなる責任を持つ“特権階級”であった。
・大切な事は、彼らが“大いなる特権”と同時に“大いなる責任”を持っていたこと。
・武士は、特権階級であるが故に“行動の共通規準”「戦闘におけるフェア・プレイ」が必要であったし、そのことが武士道の確立につながった。
武士道とは
・武士の生き方・武士のあるべき姿を説くものである。
・武士とは“武力をもって公的に奉仕する武者”であり、合戦を“職業”とする兵であった。
・『武士道』が大成するのは江戸時代である。
・しかし、その江戸時代は戦国時代とは異なり、太平(泰平)の時代だった。
・つまり、武士の“職場”であるべき合戦はなかったのである。
・したがって、武士の“本分”に、そして、武士道に修正が求められるのは当然であろう。
士(さむらい)の本分について
・山鹿 素行『武教小学序』の中で
「農・工・商は天下の三つの宝である。」
「士が農・工・商の働きもないのに、これら三民の長としていられるのはなぜか。」
「それは、ほかでもない。みずからの身を修め、心を正しくすすんでは国を治め天下を平和に保つからである。」
士の職分について
「主人を得て奉公の忠をつくし、同僚に交わって信を厚くし、独りをつつしんで義をもっぱらとするにある」
・義、つまり“打算や損得のない、人間の行うべき正しい道”をいくべきなのは、武士に限られたわけではない。
「農・工・商は、その職業にいそがしくていつもその道をつくすというわけにはいかない。
士は、これらの業をさしおいてももっぱらこの道につとめ、農・工・商の三民が人のなすべきことをすこしでもみだすならば、それをすみやかに罰し、それによって天下の道が正しく行われる備えをなすのである。
だから士は、文武の徳知がなければならない。」
そして
「三民は、おのずから士を師とするようになり、士を尊びその教えにしたがい、ものごとの順序を知ることができるようになるのである。
こうしてはじめて、士の道は成り立ち自分では動かず、衣食住が足りていることにも心の負い目を感じなくてすむ。」
要は、
・武士は、庶民の範である。
・支配階級である武士は、三民の模範となるべく正義を貫き、私欲に走らず、自分の言葉・約束は命懸けで守り、不正や名誉の為には死をもってあがなうことが義務づけられた。
・そのために、武士に求められる徳目は、
『忠誠・犠牲・信義・廉恥・礼儀・潔白・質素・倹約・尚武・名誉・情愛』
『武士道』で新渡戸は、
「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である。」
と、説き起こしている。
『武士道』について、興味が湧く。
何か私でも解る書物はないか、探してみる。
そうすると、「新渡戸 稲造」の名前が多く耳にする。
その中で、ある方が『新渡戸 稲造 武士道』をまとめた本を見つけた。
それを、今回私なりにまとめ記したいと思う。
はじめに
・「武士道」が説くのは、一言で言えば“人間としての品性”である。
・それは同時に、われわれを一元化された“金銭的・物理的豊かさ”幸福感から解放してくれる道でもある。
・さらには、われわれに物欲を超越した「低く暮らし、高く思う」“簡素な生活”、真の“知的生きかた”の素晴しさを教えてくれる道である。
日本人の道徳心を生み出したもの
・武士道が廃れ始めた時代、明治維新によって近代化が進められていた時代。
・その時代に、武士道について書物をまとめ、世界に紹介した人物が『新渡戸 稲造』(にとべ いなぞう)
・新渡戸 稲造は、ベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏に宗教について質問された。
教授
「あなた方の学校では、宗教教育というものがないというのですか。」
新渡戸
「ありません。」
教授
「宗教なし!!どうして道徳教育を授けるのですか。」
・新渡戸は、この質問に即答できなかった。
・少年時代に学んだ道徳の教えは、学校で教えられたものではなかったから。
・正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、ようやく武士道である事を見出した。
・しかし、封建制度および武士道を解する事は、現代日本の道徳観念は結局封印されし巻物である事を知る。
新渡戸は、武士の子
・幕末の文久2年(1862年) 盛岡(現岩手県 盛岡市)に生まれた。
・武家の家庭教育を受け、明治の大改革の時代に成長した。
・クラーク博士の下で西洋の科学を学び、海外に出て活躍した国際的日本人である。
・ラヴレー教授が、新渡戸に宗教について質問したのは、当時の日本人が極めて道徳的であったから。
・江戸幕府による海外留学生派遣は、文久2年(1862年)に行われ、それ以降、多くの公費、私費留学生がアメリカやヨーロッパに渡っている。
・日本の留学生は、総じて立派な志士であった。
・幕末期、アメリカ ニューブランズウィックで多くの日本人留学生を見てきたブリフィスは語っている。
「当時、米国に留学している日本人の学生は、いずれも立派な武士気質に富んだ青年ばかりで、人格高潔・克く好んで学問に精進し、将来有為の人物たらんとしていた。私は、彼らに心から敬意を払った。」
「・・・常に大日本国をして列国の間に伍して大ならしめんと志しつつ、・・・知識を探求し学問の蘊奥を究めんがため没頭して、恰も火焔のうちにある燃料の如くであった。」と。
・新渡戸は、明治32年(1899)英文で『武士道』を書いた。
・原題は“BUSHIDO,The soul of Japan”つまり『武士道‐日本の魂』は、世界的な反響を呼んだ。
・理由の一つは、小国・日本が日清戦争(1894-95)で清国に勝ったばかりでなく、文字通りの大国・ロシアと戦いを交え(1904‐05)これにも勝つという世界的“大事件”が世界の目を一斉に東洋の小国・日本に向けさせたこともあるだろう。
・世界の「先進国」も「後進国」も、日本の勝利の原因・日本人の精神基盤などに大いなる興味を持ったことは想像に難しくない。
武士道の原点
・武士道の主体として武士が台頭するのは平安時代中期の10世紀以降のことである。
1.合戦を“職業”とする・・・つわもの(兵)
2.官人貴族に仕えて警護をあずかる・・・さぶらい(侍)
3.武力をもって公的に奉仕する・・・もののふ(武者)
以上の者が現れ、彼らを総じて“武士(さむらい)”と呼ぶようになった。
・武士は、大いなる名誉と大いなる特権と、それらに伴う大いなる責任を持つ“特権階級”であった。
・大切な事は、彼らが“大いなる特権”と同時に“大いなる責任”を持っていたこと。
・武士は、特権階級であるが故に“行動の共通規準”「戦闘におけるフェア・プレイ」が必要であったし、そのことが武士道の確立につながった。
武士道とは
・武士の生き方・武士のあるべき姿を説くものである。
・武士とは“武力をもって公的に奉仕する武者”であり、合戦を“職業”とする兵であった。
・『武士道』が大成するのは江戸時代である。
・しかし、その江戸時代は戦国時代とは異なり、太平(泰平)の時代だった。
・つまり、武士の“職場”であるべき合戦はなかったのである。
・したがって、武士の“本分”に、そして、武士道に修正が求められるのは当然であろう。
士(さむらい)の本分について
・山鹿 素行『武教小学序』の中で
「農・工・商は天下の三つの宝である。」
「士が農・工・商の働きもないのに、これら三民の長としていられるのはなぜか。」
「それは、ほかでもない。みずからの身を修め、心を正しくすすんでは国を治め天下を平和に保つからである。」
士の職分について
「主人を得て奉公の忠をつくし、同僚に交わって信を厚くし、独りをつつしんで義をもっぱらとするにある」
・義、つまり“打算や損得のない、人間の行うべき正しい道”をいくべきなのは、武士に限られたわけではない。
「農・工・商は、その職業にいそがしくていつもその道をつくすというわけにはいかない。
士は、これらの業をさしおいてももっぱらこの道につとめ、農・工・商の三民が人のなすべきことをすこしでもみだすならば、それをすみやかに罰し、それによって天下の道が正しく行われる備えをなすのである。
だから士は、文武の徳知がなければならない。」
そして
「三民は、おのずから士を師とするようになり、士を尊びその教えにしたがい、ものごとの順序を知ることができるようになるのである。
こうしてはじめて、士の道は成り立ち自分では動かず、衣食住が足りていることにも心の負い目を感じなくてすむ。」
要は、
・武士は、庶民の範である。
・支配階級である武士は、三民の模範となるべく正義を貫き、私欲に走らず、自分の言葉・約束は命懸けで守り、不正や名誉の為には死をもってあがなうことが義務づけられた。
・そのために、武士に求められる徳目は、
『忠誠・犠牲・信義・廉恥・礼儀・潔白・質素・倹約・尚武・名誉・情愛』
『武士道』で新渡戸は、
「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である。」
と、説き起こしている。